第十八話「鷹ノ巣山・晴天その3」
高鳴る心臓とともに押したインターホン。少し間を置いて出てきた小柄な金髪少女桐生明日香。今起きたと言わんばかりにTシャツに短パン姿で出てきた彼女の髪はハネていて、一瞬愛くるしく思えた。
でも彼女は私を見て顔をしかめた後「何の用だよ」と舌打ち混じりに言った。獣のように鋭い眼光。招かれざる客なのは重々承知の上だ。
どうしてもこれで彼女との関係を終わらせたくなかった。始まってすらいなかったのだけど。
退学処分決定数日後、高山君に彼女の家を聞いた所、同じ市街のアパート住まいという朗報だった。どうやら中学の時は学区が違っただけのようだ。他校に金髪の生徒がいるなんて話は私の耳には届かなかったかったのだが。
「委員長、何考えてんだか知らないけど会いに行くのはオススメしないよ?あいつが教師に手ぇ出さなきゃ良かっただけの話なんだし」
「まぁ、お別れの挨拶もしてなかったしなぁと思ってさ」
「真面目だねぇ委員長は」
お別れのあいさつにはまだ早すぎる存在だ。これほどまでに魅力的な存在に私はこれまで会ったことがないのだから。
「……だから何の用だって聞いてんだよ」
私としたことが固まってしまっていたらしい。桐生さんは半ば呆れていた。
「あっと、ちょっとお話したくなってさ。私のことは覚えてる?」
「……覚えてるも何もこないだまでクラス一緒だったろうが。いい子ちゃんぶってる割にはバカなのかお前?」
「いや、桐生さんって周りの人のこと見てなさそうだったしさ。とりあえず近くのカフェにでも行こうよ。この後の予定とかあれば別にいいんだけどさ」
彼女は数秒黙って私を睨みつけてから「用意するから待ってろ」と奥に消えていった。案外攻略しやすいのかもしれない。
それから駅前に新しくできたカフェで向かい合って座る。さりげなく喫煙席を選択した。
「んで、話ってなんだよ。学校がどうとか言うんじゃねぇぞ。あんましくだらねぇ話だったら帰るからな」
くだらないか……。正直どうなんだろう。そこのところ。
「なんか、変な話なんだけどお礼を言いたくってさ」
「礼?」
提供されたカフェオレを一口飲んだ桐生さんが眉間に皺を寄せた。そりゃそうだ。彼女にとっては突拍子も無い話を私はしようとしているのだから。
「桐生さんが殴ったあの内藤先生さ。私のこといちいち触ってきたんだ。なんかもう最近じゃ怖くて怖くて仕方なかった。だから、あの時すごい気分が良かったんだ。私の代わりに一発かましてくれたみたいに思えた」
「別にお前のためにやったわけじゃねぇよ」
「分かってる。分かってるけどさ。私とって教師ってどうしても逆らえない存在だから、考えもしなかったことなんだよ。でも桐生さんが殴ってくれたおかげでさ、別にそういう存在でもなかったのかなって」
「そうか。そりゃよかったな」
頬杖をつきながら退屈そうにカップの中をかき混ぜる桐生さん。その小さな手は思っていたよりもずっと綺麗な手をしていた。
「だからさ、私の友達になってよ。そんな桐生さんのそばにいたいんだ」
「断る」
震える胸中からようやく絞り出した言葉はたった一言で叩き斬られてしまった。二割くらいはその答えが返ってくる可能性があるとも思ってはいたが思ったよりもショックが大きかった。
「あたしはな。お前みたいな奴が大嫌いなんだ。わたしと友達になってってそれ、同情のつもりかよ。お前は誰からも愛されてる優等生の自分に酔いしれてるだけだ。そうしなきゃ生きられない人間だからそうしてるだけで、まるで自分の芯を持っちゃいねぇ。鏡の前で笑ってみろよ。お前の笑顔は空っぽだ。勉強だけはできる木偶の坊だ」
「……ふふっ」
見透かされてる。話したこともあまり無いし、彼女の視界に映ったことも少ないのだろう。けれどこれほどまでに私という人間が見透かされているとは。
やっぱり好きだ。嫌われてると言い切られても好きなものは好きなのだ。
「今笑えって言ってねぇぞ」
「そう、そうだよ。それが私だよ。桐生さんが言った通りの人間だよ。本当は嫌いな人間だってたくさんいる。でも笑顔で偽らなくちゃいけない。私はみんなから愛される人間で生きていかなくちゃならないから。じゃないとどうやって生きていけばいいのか分からない」
「何開き直ってんだ。アホか」
「だからだよ。だから桐生さんの前ではそういう自分じゃなくてありのままの私で話せる。だって桐生さんもう学校来ないじゃん。桐生さんと私自身が嫌いな私じゃない私で唯一過ごせる相手になると思ったんだ」
「あたしにお前の鬱憤の捌け口になれってか」
「そういうことになるね」
完全に呆れた表情だ。彼女は頭を抱えてから一言だけ呟いた。
「ばっかじゃねぇの」
了承と受け取っていいのだろうか。やはりもう一押しが必要だ。小さな覚悟とともにポケットの中に手を突っ込み、タバコを取り出して火をつける。桐生さんといるこの時だけは良い子でいる必要はない。私らしい私でいるための人生最初の一本を口につけた。その時だった。
「バカなことしてんじゃねぇよ」
向かいに座っていた桐生さんが腕を掴んでいた。二人の間に紫煙が舞う。
「バカなことって……私普段から吸ってるんだよ?人前では絶対に吸わないけどさ。だから別に……」
「バカでも分かるような嘘つくな。手ぇガタガタ震えてんじゃねぇか」
タバコを摘んだ右手は彼女の言う通り震えていた。それすら気付けなかった。
「まいったな……。何でもかんでもお見通しか」
「てめぇがすぐバレるような嘘つくからだろ」
父親からこっそりくすねたタバコ一箱。今朝になって無くなったと騒いでいたけど、まさか私が持ってるだなんて夢にも思わなかっただろう。
結局一口も吸わずにタバコを灰皿に押し当てた。
「別に……話し相手くらいにはなってやるよ。だからいちいちあたしのレベルまで下がって来なくていい」
「桐生さんは吸ってるんだ?」
「吸ってねぇよ。歳考えろ歳を」
「桐生さんみたいな人は歳なんて関係なく吸ってるのかと思った」
「言うじゃねぇか。あとで覚えとけよ」
その時にはいったい何をされてしまうのだろう。それすら楽しみでしょうがない。
「桐生さん」
「あぁ?」
「友達になってくれてありがとね」
「こっぱずかしいからやめろバカ」
稲村岩尾根への分岐道標には滑落死亡事故への注意喚起が書いてある。何事かと思えば、日原から見えた稲村岩そのものに登れるというルートらしい。
「まぁ寄る必要はないからスルーでいっか」
登山初心者にとって滑落死亡事故の六文字ほど恐ろしいものは……まぁ数あるけど危険は回避するに越したことはないだろう。稲村岩尾根へと歩みを進める。
時期なのかなんなのか、耳の周りをアブが飛び回っていて終始ブンブンと羽音を鼓膜に響かせてくる。
自分たち以外に誰かの話す声が聞こえたかと思うと、アブの羽音だったりするのだ。最初のうちはそれこそ身を屈めたりしていたが、すっかりアブの存在にも慣れて、今はただ煩わしいだけだ。
尾根は話に聞いた通り急登が多く、というか急登しかない。足を大きくあげては登り続ける。振り返るその景色は一向に変わらない樹林帯で展望は全くと言っていいほどない。
俺だけでなく、桐生や会長も息切れに声が混じる。
登山道は踏み固められているが時折不明瞭になり、一度立ち止まらないと気づけば道を踏み外しかけているということもしばしば。明らかにこれまでの登山道とは違っていた。
全長三キロという短い距離が一向に縮まっている気配がない。木の根と石で構成された自然の階段は容赦なくダメージを与える。
ふと、落ち葉がカサカサと鳴るとそこからにゅっと蛇がうねりながら前を通過した。
「へっ……蛇ぃーっ!!」
情けないのは承知だが俺の声だ。会長が言ったならそれらしくはあったし、桐生が言えば思わぬ弱点を見つけたことになる。どちらにせよ俺が叫ぶのは変わらないが。
「どこ来てると思ってんだ。蛇ぐらいいるだろ。見た感じアオダイショウだし、情けねぇ声出すんじゃねぇ」
そうは言ってもこれまで蛇おらんかったじゃないですか。
今朝見かけた鹿といい、改めて自然のど真ん中にいることを思い知らされる。そして警戒し始める、野生動物への恐怖。
アオダイショウならまだいいがこれがヤマカガシやマムシといった毒ヘビだったならシャレにはならない。それらが出てきたとしてもきっと一瞬の出来事だ。毒蛇だと確認している間もないのだろう。
休ませる気のない登山道で休むには、急登のど真ん中で立ち止まる他ない。ただ立ち止まるとアブが寄ってくる。時折デカいクマバチがテリトリーを主張するように物々しい羽音共にホバリングする。
心情的には立ち止まってすらいられないのだ。
目の前の落ち葉の絨毯の中で何かが動いて乾いた音が鳴る。先ほどの蛇が脳裏をよぎったのでなるべく落ち葉を踏まないようにして駆け抜ける。
「高山ぁ!ただのトカゲだったぞ!」
そりゃどうも。拾ってきた捨て猫のようにありとあらゆるものに怯えているのだ。何事もないように歩き続けろというのは無理がある。
帰りたい。登山を始めてそろそろ半月。週一くらいのペースで登ってきたがここに来て初めてそう思わざるを得なくなっていた。
なんで山なんか登ってんだ。ゴキブリすら悲鳴をあげる性質だろう。この山に何が出てくる?その種類は数え切れないほどいるはずだ。加えてこの急登に次ぐ急登。純粋な地獄を噛み締めると共に帰路についても考える。ヤバい。本気で帰りたくなっている。
スマホのGPSアプリの標高はグイグイ百メートル二百メートルとは上がっているが、鷹ノ巣山の標高千七百三十六メートルに対して現在の標高は千三百メートルを超えたというところ。距離にしても全然進んではいない。
ベンチや机、道標もない登山道。そこにあるのはありのままの自然のみ。体力も気力も削がれるだけ削がれた時にようやく平坦な道に出くわした。
手作り感満載の道標に刻まれた「ヒルメシクイノタワ」の文字。どういう意味かは詳細まで分からないが、たぶん平坦になって束の間の休息が取れるからここで飯を食えということなのだろう。時間的にはまだ朝ごはんの範疇だが。
しかしここは平坦になっているだけのただの登山道でありベンチはおろか、広場にすらなっていない。挙げ句の果てにアブは相変わらずけたたましくそこら中で飛んでおり、クマバチまで飛来している。ここで飯を食える人間になりたいようななりたくないような。
あくまで先を急ぐ選択を取りながらも行動食と水分は補給する。山頂らしきものは見えているので、そこでゆっくりと飯でもなんでも食えばいい。
ヒルメシクイノタワの道標がある平坦な道は呆れるくらいに一瞬で終わった。
見上げる急登の先に希望はあるのだろうか。
登山小説書いて山登ろうぜなんて言ってるからにはある程度の責任が生じているような気がする。
今更ですが登山届は必ず提出しましょう。だいたい登山口にポストがあるのでそこに提出するか、めんどくさければコンパスというサイトでスマホやパソコンから登山届が提出できます。便利な時代。
それと登山届は出すだけでは効果がありません。登山届は帰宅予定時間を大幅に過ぎても帰宅しない登山者の安否確認のために周囲の人間が警察に連絡をすることでようやく効果を発揮します。必ず家族や親しい人にきちんと行く山と大まかなルート、帰宅時間を伝えましょう。電波が届くようなら写真を送るついでにどのあたりにいるかを伝えても効果的です。
固いこと言ったような気がしますが、ようは周りに「いつ死んでもおかしくないような場所行くよ」って伝えるだけと思えば登山届の重要さも分かってもらえるんじゃないでしょうか。
準備をしっかりして山を存分に楽しもうよ。現在800人くらいの読者によき登山ライフを。




