第二話「高尾山・雨 その2」
堕落とまでは言わないが、楽しむことを忘れた生活に終止符を打ちたかった。
人は嫌でも大人になる。自分が大人になったと思う理由は人それぞれだろうが、俺の場合、なんというか、心から楽しめるものがなくなっていったことが理由だった。
夢もなく、とってつけたようにやりたいことが決まったように自分を偽って、専門学校に入学し、就活戦争に巻き込まれずに難なく仕事にありつけた自分に待っていたものは「これがしたかったわけじゃない」という確信と、明け方から夜遅くまでというブラックもいいところの就業時間、そして休日には力尽きて布団の中で一日を覚醒することもないままにスマホで消費する生活だった。
それが続くとゲームも漫画もアニメも楽しいと思えなくなった。それなのに延々とそれら楽しくないもので時間を浪費してしまうのだ。惰性、その上に惰性。覆いかぶさるようにして惰性。やがてそれは後悔になって、足枷のように自分の人生にぶら下がる。
これじゃダメだ。毎日考えてきた。
考えるだけじゃダメだ。だから動いた。
それは、いつものように明け方に出勤している時の事。市を隔てる橋の上、眠気を栄養ドリンクでむりやり押し込めたその目に遠方の山脈がやけにくっきりと飛び込んできた。車のエンジン音はやけに静かで、まだ薄暗い空になんとなしに窓を開けるとひんやりした風が車内を満たした。
空には雲一つなく、これから出勤することに苛立ちさえ覚えるほどの快晴になりそうだった。
いっそのことあの山の上まで行ってしまえればどんなにいいか。おそらくはクマの酷い目が山脈を睨みつける。でも、かれこれ四、五年続けた仕事をばっくれるわけにもいかず、車はいつもと同じ交差点でいつもと同じ軌跡を辿った。
機械的な日常をはみ出すきっかけを見つけた。
あれからまだ三日。遡って思い出すようなことでもない。誰にでもあるようなことばかりだ。
あずまやには人の来訪の影もないまま静かでゆったりとした時間が流れている。雨は時折強く、青く色づく葉っぱを叩いている。
山頂はまだ先なのか。先ほどから何人かがあずまやの脇を通り過ぎては先を目指して進んでいる。ここは休憩場所のはずだろうに、ぼんやり座って濃霧を見つめる自分に視線すら寄越さない。
「そろそろ向かうか」
目的地はこの先なのだ。切れた息もすっかり元通りになり、靴は濡れた登山道を踏みしめる。
歩き始めてから数分して、見覚えのある影が前方から走ってくる。
「お疲れ様です」
先ほどのトレイルランナーだ。俺がああしてぼやぼやしているうちにあの人はきっと山頂について折り返してきたのだろう。肺活量、鬼神のごとし。あれをするならまず禁煙から始めなければ。一日一箱がどうしてもやめられずにいる。
あずまやを越えると、斜度はなだらかになる。そうなってくるとようやく景色に目を向ける余裕も出てくる。とはいいつつも自分の視界の数十メートル先は白一色で、自分がどれだけ高いところに来たのか分からないのだが。
ただ、いつもの日常から抜け出せたことははっきりと分かる。ここまで来なければ見えない景色がある。整備された登山道を外れれば枝だらけの急斜面があり、硬い岩盤に根を張ろうとした木がバランスを失って真横に生えていたり、普段の生活ではめったに聞くことのない鶯がそこかしこで鳴いていたり、そういった景色には満足していた。これが晴れならばどんなに良かっただろうか。
「げえ」
木立の密度が下がって、だんだんと開けた視界のど真ん中にそれはあった。
長い階段。四文字で表せられるのはなんの皮肉だ。とにかく、ここを上り切れば頂上だ。
唾を飲みこんで覚悟を決める。ご老体じゃない。足腰を酷く痛めているわけじゃない。もういい加減慢性的に痛いが、重度ではないはずだ。周りに人もいない。だからできる。
そして始まるラストスパート。足はバネのように(あくまでもそのつもり)駆け上がり、腕は無駄に宙で揺れ、無理をしているのが一目瞭然の心臓がやたらと激しく動く。一直線に駆け上がるも、実際のところ途中で三十秒ほど立ち止まった。まぁとにかく駆け上がったのだ。
その先にある平らな地面。これ以上見上げる斜面がないことに握りこぶしを固める。
「よっしゃ登頂」
男一人登山ゆえに感想も声量も奥ゆかしいものになった。
さて。時間は九時を過ぎた。やはり人はまばらで、なんなら山頂標にべたべた触り放題だ。ただ、一人で触っても意味がないので、適当に写真に収め、その場で誰も見ていないであろうSNSに投稿する。こういうのは自己満足にすぎない。それを思っているからこそなんとなしに始めたインスタグラムも結局更新できないでいる。
それにしても見てくださいこの景色。何も見えない。
分かり切ってはいたが、それにしたって真っ白だ。山頂から見える景色の解説があったが、たぶんこれは違う世界の話だ。今見えているのは白一色。政府は国民からなんのためかは分からんが景色を奪い取ってしまった。そんなSFさえ脳裏をよぎる無慈悲な白。立ち尽くす男を満たすのは達成感のみである。
すぐに下山を始めようとも思えずに、何もせずぶらぶらと山頂をうろついていると、女性から声をかけられた。
「写真、取ってもらってもいいですか」
若い女性の声だ。山頂でふらふらしている独りの男によくもまぁ声をかけられたものだ。だからこそなのかもしれないが。
「ええ、もちろんいいですよ」
普段なら「あ、はい」くらいしか言えないものが山に登れば調子も良くなる。そういうこと、あると思います。
華奢で小柄な一人の若い女性だ。やはり登山は世代を選ばない趣味なのだろう。髪を金色に染め上げた彼女はこの高尾山にはミスマッチだ。何か色々と背景を考えてしまう。だって、「こんな雨の日に若い女性が」「それも少々古い言葉で言えばギャルが」「一人で」「山登り」だ。結婚を誓いあった彼氏が浮気してたので傷心を癒すために来たんじゃないかぐらいは勘ぐってしまうものだ。
スマホのカメラに山頂標と彼女を収める。なるべく手振れしないように気張る左手が震えている。
「じゃあ、撮りますね」
目の前の彼女がピースサインをしている。ようやくまともに目を向けられた彼女の顔に俺の喉が鳴る。いや、ちょっと待って。俺、この人……
ピロン。
これ以上は声も出せそうにない俺とは違い、スマホから一昔前ならシャッター音には聞こえなかっただろう音が山頂で静かに鳴った。
「ありがとうございました」
小さく礼を告げる彼女に、俺の心臓は強く拍動する。今どきバクンバクンなんて漫画的な音が鳴るものか。緊張かそれ以外の何かか、嘔吐しそうなほどの精神的な不安を体が訴えている。
スマホを受けとった彼女は、それを胸ポケットにしまうと振り返って歩き出す。
「あの」
その背中に声をかける。いや、かけたわけじゃない。そんなこと望んじゃいない。だが呼び止めてしまった。登山で一時的に上昇したコミュ力がわざわざしなくてもいい呼び止めをしたのだ。
「はい?」
振り返らなくて良かったのに。もう少しこの場所が人でにぎわっていたのなら、うるさくて自分の声が届かなかったのに。振り返った彼女の顔は自分の予想を確信に変えただけだ。
「桐生さん……だよね?」
その瞬間、時が止まる。この白い空間でたった数秒が俺の言葉によって奪われる。
決して仲が良かったわけではないし、話したこともあまりなかったが、小中高を共に過ごし、俺のみならず、その場にいた全員に強烈な印象を残した、人呼んで「皆殺しの桐生」と恐れられた彼女が凍り付いていた。
「高山……?」
ゆっくりと眉間にしわを寄せながら俺の苗字を呟く。
なんで。
遅刻やサボりは当たり前、気に障るようなことがあればすぐに相手の腹を殴り抜け、性別も年齢も関係なく誰彼構わず敵に回し、近くの公園で乱闘騒ぎがあったといえば必ず傷だらけの彼女がそこに居て、頭髪検査に引っかかれば教師数人で抑えなければならないほどの騒ぎになり、しまいには高校入ってすぐに体育教師に一発ぶちかまして退学になった彼女が。
あの皆殺しの桐生明日香が。
なんで山なんか登ってんですかね。




