第一話「高尾山・雨 その1」
ふと、近くで足音が聞こえた。その時のあたしはというと、彼が淹れてくれたコーヒーのマグを握りながら轟々と吹く風の音に震えていた。強く握りしめたコーヒーの暖かささえ、この気温では風前の灯火だ。
闇の中でテントが開いた。下げたランタンが静かに揺れる。「明日香、外に出てみろよ」
彼の声に私は頷いて、何も言わずに彼の後ろへと続いた。
「ほら、すごいだろ」
彼の指さす方向へあたしは目を向ける。眼前に広がったのは小さく淡い光の天井。
「……すご」
どうにかして言葉を思い出す。
星の海じゃ言葉が足りない。ああ、きっと言葉じゃ足りないんだ。ここは、あたしの立っている場所は、人間社会の領域じゃない。届いたとしても届かない距離。分かった気にしかなれない世界。
この星空も、風も、たぶん今も広がってる山々も、あたしは何一つとして知り得ない。
でもここに立ってる。それは間違いない。
それを知った時、あたしの中でスッと何かが軽くなったような気がした。
横で夜空を見上げる彼は、ビー玉みたいな目を子供のように輝かせて、あたしと同じように届くわけもない距離を映していた。
午前七時半、高尾山麓駐車場。
「……悪くないな」
そう、きっとそのはずだ。
運が良かったのか、必然なのか、混雑すると情報を得ていた駐車場の車の数はまばらで、俺は慣れない道に強張らせていた肩をようやくシートに預けた。
「つーか、こんなんでいいのか」
まるで駅前の駐車場みたいだ。きっちり料金も取りやがる。仕方ない。ここは観光地だ。ともかく、ここから俺の登山人生が始まるのだ。
車を降りていかにも登山客らしい人たちが集まっている方へと向かう。あいにくの天気模様だが、この気にするまでもないような雨に傘や雨合羽を着る人もいないようだ。独り登山だけに下手に浮きたくはない。まず様子見の段階は終えた。
慎重に周囲を見渡す俺の行動とは裏腹に気持ちだけが逸る。小雨の降りしきる高尾山。登山を嗜みたい人が通る最初の門は意外にも静謐な空気で俺を出迎えてくれた。
高尾山は標高約六百メートルの低山であり、登山客のみならず、観光客にも人気の山だ。特徴としてはやはり自分に適したコース選択ができるということだろう。
ケーブルカーやリフトを使い、山頂まで駆け上がるコースですらないようなコース。アスファルトで舗装された道を進む観光客向けの一号路から、登山を楽しむための稲荷山ルートを含めたいくつかのコースに分かれ、山頂を目指していく。施設もいくつか点在し、コースごとに難易度が変わるため、登山初心者にもうってつけの山である。
朝が早かったからなのか、それとも天気のせいなのか。観光客でごった返すと聞いていたにもかかわらず、おそらくはケーブルカーの駅であろうその場所に辿り着いても、まだまだ人はまばらだ。
「あれは……邪道だよなぁ」
あくまでも登山客の目線で。俺は前を行くご老人がどの道に入っていくか気にしつつ歩幅を合わせていた。
しかしまぁ、山に来たという感じだ。都会というわけでもないが、そこそこの地方都市の喧騒を離れて、高速代がもったいないと下道で走ったら、いつの間にか自然に囲まれていた。東京は、なんていうかこう、車で走ってたらいつの間にか山にいる。そんな感じだ。
低い雲だか霧だかが、近くの山を覆っている。その頂は見えそうにもない。これは展望を望むべきではないな。
深い赤のザックを背負った老人がふと視界から消えたと思うと、そこに登山道があった。稲荷山コース入り口と書かれたそれは、先の看板で目にした、なんだか面倒な道を行く事になりそうなルートだった。先を行く老人はスタスタと先に登山を始めている。
そうだ、これが登山道だ。俺は、これをやりに来たんじゃないか。踏みしめる脚が微かな不安とともに歩き出す。
これが俺の登山生活の始まり。最初の第一歩。あとからあんなことになるなんて、考えもしていない愚かな第一歩。俺の人生という巨大な山で、緩やかな道があるにもかかわらずわざわざ急登へと向かわせた第一歩だった。
三十分経った。そしてようやく気付く。俺は登山をしているのだと。小雨は視界を満たす木々の深緑で遮られ気にするようなほどでもないが、とりわけその呼吸の苦しさが俺に登山の苦しさを叫んでいる。山を登る。ただそれだけが辛い。走っているわけじゃない。早歩きしているわけじゃない。なのに走っている時と同じくらい呼吸が乱れている。展望と引き換えに得た霧の立ち込める登山道は幻想的だが、気にできるほどの余裕は持ち合わせていない。前を行く老人は遠くに見えて、自分の体力の無さや運動不足を噛みしめる。
一体どこまで歩けばいいんだ。雨に濡れて光る木々の根っこを避けながら進む。
「おはようございます」
登山の格好ではない女性が俺の脇を通り過ぎる。「はよござます」たぶんこの声は彼女には届かない。
彼女は緩やかだが細かい上り下りのある道をこともあろうに走り抜けていってしまった。
「走るのか……」走って来たのかこの道を。後に俺は登山の中にトレイルランニングというジャンルがあることをネットで知ることになるのだが、どっちにしたって自分にはできもしないことだなと思っている。
「おはようございます」
先を行かれるたびに交わされる挨拶。「おはようございます」俺もなんとなく挨拶を返す。思えば見知らぬ他人に挨拶をするなんて何年ぶりの話だろうか。そもそも通学路に立っている交通指導員や親御さんやら以外に挨拶なんてしたことがあったろうか。
登山に根付いたその文化に心が軽くなる。早朝からわざわざ車を走らせて来た甲斐があったとさえ思えるほどに。
だがそんなこと、体力の限界とは関係がない。途中途中で足を休ませながら「おはようございます」先を越されながら挨拶を交わし、ようやく山頂へたどり着いたと思ったらただのあずまやだったその場所に座り、持って来たお茶で喉を潤し、本来なら何かしら見えたであろう木立の先の白一色をぼんやり眺めながら一言呟いた。
「なんで山なんか登ってんですかね」
おひさです。令和ですね。山ごもりしてました。巷では登山ブームらしいので便乗してみます。あらすじにもある通り、九割妄想、一割山行録なので、筆者が山に登れば更新されます。みんなが登山すれば筆者にやる気が満ち溢れます。だから登って?筆者も登ったんだからさ。
あと、筆者のツイッターで登山の写真とか載せるかもしんないのでフォローして下さい。 @umi_ueno




