第十二話「塔ノ岳~鍋割山・曇天その4」
日本には古来から山岳信仰という文化がある。山に登り始めてまだ一月も経ってないが自ずと山を神として崇める理由が分かるようになってきた。山はいつでも人の手から離れた自然の厳しさを雄弁に語り続ける。
その時の俺はまさに山の神様を信じるしかないような出来事にあっていた。
塔ノ岳山頂、相変わらずの曇天が一瞬だけ晴れて、雲間から差す光に、目下の山々が光り輝く光景に目を奪われていた。
それは俺たちが山頂に辿り着いた数分の間という短い時間ではあったが、この丹沢山塊の神のもてなしを受けたような、そんな考えさえも湧き上がるような出来事だったのだ。
「さっっむ」
そしてそのわずか数分後には晴れ間は全くと言っていいほど無くなり、足元を風に吹かれた霧が駆け抜けていった。霧による視界不良はここ一番のピークとなって、わずか数十メートル先の山小屋が霞んで見えるほどだ。
「ほーんと一瞬だったねぇ」
「こんなもんだろ、まぁ」
仕方なく濃霧の中、山頂標での写真撮影を終え、近くにあったベンチで昼食をとる。懲りずに全員がカップ麺だ。凍えるほどの風に全員がアウターを着込み、震えながら湯が沸くのを待った。
山頂は広く、天気が良ければ見晴らしは過去最高なのだろう。天気が良ければ。流石は丹沢と言うべきか、こんな天気でも人は多く、各々が食事を摂りながら「何も見えない」と口走っていた。まぁ、ここに来て思うことはそれくらいだろう。気持ちはわかる。
「ここから鍋割山向かうんだよね」
「あぁ、そこまで歩かねぇよ。そこでうどん食うからカップ麺ごときで腹満たすんじゃねぇぞ」
「それはないかな」とは言ってみせたがよりによって通常より大きいサイズを買ってきたのが悔やまれる。
「つかまたチリトマトか。飽きねぇなお前」
会長の目の前を陣取るトマトの絵。そういえば会長は前回もチリトマトだった。桐生の口ぶりからするに毎回チリトマトなのだろう。
「いいじゃん。一番アレンジ効くよ?チーズ入れてもいいし、チーズじゃなくてもクリーム入れても美味しいんだよ?めっちゃまろやか。ご飯入れたらリゾットにもできる。チリトマトは最強。異論は認めない」
「会長目がマジになってる」
聞いてるだけでもよだれが垂れそうな話だ。俺は無難に醤油なのだが。店頭のラーメンじゃ出せない味がここにある。王道こそ最強なのだ。会長がマジになってるので黙っとくけども。
「桐生は辛いやつ好きだよね。それも生半可じゃないやつ」
「俺はそれこそチーズでも入れねぇと食えねぇよそれ」
「そこまで辛かねぇよ」
楽しいご飯タイムではあるが寒い。切実に。会話は自然にフェードアウトして、お湯が沸くと我慢の三分間が始まる。誰も皆カップ麺の蓋を見つめたまま口を固く閉ざして寒さに耐えていた。
やっぱ辛いのにしときゃよかったかなぁ。たぶん桐生の体感温度はあがったはずだ。抱きしめたら暖かいかもしれない。その数瞬後には熱とともに鼻から血を吹き出すくらいには殴られるのだろうが。俺も多少なりとも上がったが、この気温じゃ風前の灯だろう。塔ノ岳を発って道標から鍋割山へと歩みを進める。
塔ノ岳~鍋割山間に急登はなく、緩やかな尾根のほとんどが木道の登山道は何かのアスレチックのようだ。
「すっげぇ楽なんだけど、大倉尾根避けた方が良かったんじゃないか」
「そうでもねぇよ。こっから鍋割山まで標高差がないだけだ。鍋割山から登山口までは大倉尾根ほどじゃねぇけどなんだかんだキツイぞ」
「まぁそっかそうだよなぁ」
ガスはとうとう晴れる気配もなく、次第に弱い雨まで降り始める。木の葉を叩く雨の音は心地よいがザックに入れたレインウェアを気にしながらの山行だ。自然と全員が足早に鍋割山を目指していた。
人のいない、静かな登山道を抜けて鍋割山荘が目に入る。ここが鍋割山の山頂らしい。塔ノ岳と違って人もまばらだ。
「普段はここもいっぱいなんだけどね。今日は平日だし、この天気だから空いてるね」
幸い到着時には小雨も止んだ。広い山頂からはとうとう何も見えないほどの濃霧だが。
荷物をテーブルにおいて、三人で鍋割山荘へと向かう。薄暗い小屋の中、小屋主さんに鍋焼きうどんを注文してその場で待つ。静かな小屋に響くのはうどんが調理される音だけ。どこかぎこちない空気の中、名前を呼ばれてうどんを受け取りにいく。
「今日は午後から荒れる予報みたいだから早く下山したほうがいいよ」
「あっはいありがとうございました」
小屋主さんの気遣いとともにうどんを受け取って外に持っていく。流石は小屋主、この山の気象には詳しいみたいだ。
さて。一杯千二百円のうどんは山小屋価格なのだろうか。少し値段が張るなぁと思っていた俺は鍋の中を見て考えを改める。
鍋の中を満たす具材。青菜にかぼちゃの天ぷら、きのこになると、分厚い揚げと、その中央には半熟の卵が堂々と鎮座している。
突筆すべきはかぼちゃの天ぷらだろう。箸でつまんだ天ぷらの大きさに目を丸くする。でかい。そこいらの天ぷらうどんの天ぷらとは比較にならないほどの大きさと厚さを兼ね備えている。とりあえずはその大きなかぼちゃを一口頂いてみる。ほくほくしたその触感と奥深い甘みは、行動食とカップ麺だけで満たしてきた口の中に革命を起こしかねないほどだ。
体は今、暖かさと汗で逃げた塩分を欲している。このタイミングで鍋焼きうどん。これが良い。かといって決して塩辛くはないつゆもちょうどいい塩梅だ。
「どうだ美味しいだろう高山」
まるで狐うどんかと思うほどに大きく厚切りされた油揚げはつゆを吸い、噛んだと同時に弾けるようにジューシーな油とつゆが口の中で混ざり合って躍るのだ。これが細切りだったのならこうはいかなかっただろう。具材とともに啜った麺は適度なコシで癖がない。主食でありながらも具材の引き立て役に回るという本来の役割を心得た麺だ。
これは一種の贅沢だ。山の上でこれが食べられるのなら千二百円は安いものだろう。
「高山手前聞いてんのか」
「えっ、ごめん聞いてなかったかも」
「美味しい?って聞こうと思ったんだけど、その様子じゃ聞くまでもないみたいだね」
「まさにその通りだよ」
「山の楽しみの一つでもあるよねぇ。山小屋グルメってのはさ。ここに限らず色んな山に色んな名物があるからこれから楽しみにしといた方がいいよ」
黙々と食べ続けた結果、誰よりも早く鍋が空になった。あれ、もうないんですか?
小休止の後、再び歩き出す。塔ノ岳~鍋割山間とは違い、鍋割山から先は一気に下っていく印象が強い。標高差の事を考えれば当然か。さっきの桐生の言葉を思い返す。
そろそろ現れ始める膝へのダメージ。できるだけもう片方の足でかばうように歩いていく。どっちにしたって両ひざは痛み始めているが、歩くだけで降りられるのは丹沢のいいところなのかもしれない。
途中、渡渉地帯があり「ヤマビル」の四文字を頭に掠めながら石を飛び越える。ヤマビルのことさえ頭に入っていなかったら癒しポイントだったろうに。清流がRPGで言う毒の沼にすら思えた。
その後は沢を見下ろしながらの長い林道歩きが続く。
「しょうがないっちゃしょうがないんだけど、この林道歩きが退屈なんだよねぇ」
足が棒になりそうな俺には退屈も何もなかったが、ある意味完全に人の作り出した道というものは安心感があるというものだ。俺はどちらかと言えばこういう林道歩きの方が好きなのかもしれない。
……訂正。やっぱりこの林道は長すぎた。とにかく景色が変わらないのだ。前半の大倉尾根は一辺倒な登山道に見えて、木道、急登、岩場、平坦な道とガスっていても景観や道のバリエーションがあった。ここは……アスファルトを下るだけで確実に迷っていないと言い切れるのに景色が変わらなくて迷っている気がしてくる。そんな道だ。
林道から再び登山道っぽくなった勾配の低い樹林帯を進む。降りるところまで降りてきたのはもう一目瞭然で、最後に待ち構えていた鹿避けのネットを押し開けると鍋割山登山口に着いた。
ついさっきまであそこにいたのか。雨雲に覆われた丹沢山塊を振り返る。鍋割山登山口はほとんど人の居住地から始まっているので、余計に時間の流れというものを意識してしまうものだ。
なじみの深い田舎の一般道を歩いていくと、今朝に見た大倉バス停前に着いた。時刻は二時半。六時間近い山行になった。『武甲山のようにはいかない』か。まったくというか、比較にならないほどだった。
自販機で飲み物を買って、秦野戸川公園は風の吊橋から三人で眺める雲の上の丹沢。
「塔ノ岳からもーちょっと先進めば丹沢山だったんだけどねぇ。今日はしょうがないのかもね」
「また来ればいいだろ。今日登ったのは山塊の一部でしかないからな。何度行っても楽しめんのがこの丹沢のいいとこだ」
コーヒーを啜って桐生がはにかんでいる。何?ビジターセンターの人?
それでもきっと桐生は純粋に山が好きなのだろう。かくいう自分も好きで始めたことだからその気持ちは分かる。あれほど大変だったこの山も今はもう登りたい気持ちでいっぱいだ。もちろん、後日、日を改めて。
ふと、携帯が震えていることに気づいて取り出す。画面に出た名前はよく知った名前だ。桐生と会長から少し離れて通話ボタンを押した。
「どうしたんだ?まだこっち神奈川でログインはたぶん夜できるかどうか……」
「私も行く」
聞き慣れた声の聞き慣れないトーンが耳に刺さる。その凄みと簡潔すぎた内容に一瞬口が止まる。
「いや、行くって……」
「山。私も。行く。次の登山に連れてって」
「いやまぁそれは構わねぇんだけどさ」なんだこの胸を締め付けられるような声の圧は「ほら……山登るのには専用の服装とか装備とかあって、結構値が張るぜ?」
「用意した。靴もザックもアンダーもミドルもアウターもレインウェアもストックも全部用意した」
矢継ぎ早に語られる必要な装備の数々。えっと、今言ったのでよかったんだっけか。っていうか、
「マジで?」
「マジ。あそこ行きたい。高尾山だっけ。とりあえず高尾山に行きたい」
「……ほぉぉ、そっかそっか。じゃあそれで計画立ててみるわ」
既に調べはついて準備もして行動するだけのところまでいつのまにか来ているようだ。吉岡ってそんな行動力あったっけか。何があいつを動かしたんだろう。俺が登ってるってだけの理由じゃ動かないはずだ。運動するなら死んだ方がマシって話してたくらいだし。
「誰だったの?お母さん?」
「いや……会長は吉岡って覚えてる?」
「あぁ!美優ちゃんのこと?もちろん覚えてるよ。付き合ってんの?」
流れるように大人をからかうんじゃない。
「いや、そういう仲じゃないよ。単なるネトゲ友達」
「はぁん?そういうこと言っちゃうか」
「いや、マジだって。直接はあんまし合わないし、本当にゲームしてるだけだから」
「向こうはそう思ってないかもよ?……まぁいいや。んで?デートの約束かなんか?」
「まぁいいや。って何がまぁよかったんだよ。とにかく、なんかあいつも山に登りたいんだって」
「へぇ。じゃあ準備とか一緒に見てあげなくちゃね。結局デートのおさそいじゃん」
こういう女子学生みたいなノリは無視するに限ると思います。
「それがすでに全部用意してるってさ。んで、高尾山からやりたいんだって」
「……あたしも高山もこの前行ったばっかだな」
「俺は別に構わないんだけど……どうする?」
次の山行が仮に晴れるのならまだ行きたい気持ちは強いというものだ。この前は本当に何も見えなかった。同じ理由ですでにこの丹沢にも確実にもう一度は訪れたいと思っている。
「じゃあさ、奥高尾まで行ったらどうかな?二人ともこの前山頂までで帰って来たんでしょ?」
「まぁ、天気がどうしようもなかったからな。それだったら高山も悪くないだろ」
「奥高尾……?なんだそれ」
「あん時は気づかなかったんだろうが、山頂の奥に縦走路があんだよ。小仏城山、景信山、陣馬山って縦走できるんだ。まぁその吉岡って奴は初めてだろうから行けて小仏城山までって感じだろうけどな」
桐生は覚えていないらしいが、一応吉岡も俺も桐生と同じクラスだった。
「よし、じゃあ次は高尾山から小仏城山までの縦走だね。あそこのかき氷美味しいんだよなぁ」
とにかく次の予定が決まったらしい。大倉バス停前の駐車場で、行きに見た猫に別れを告げ、高速へと車を走らせた。
このお話が登山を始めた理由になれたらいいなぁって思うんですけど、実際みなさんはなんで登山を始めようと思ったんですかね。
筆者がまだどうしようか悩んでるって人にお勧めしたいのはRTA(リアル登山アタック)。ニコニコ動画でブームを巻き起こしてる(この表現は検証可能な参考文献が全く示されていないか、不十分です)動画のジャンルで、ここ最近は毎日色んな人が色んな山を登った動画をあげています。高尾山から剣岳、難易度地獄級の西穂~奥穂縦走、果ては海外の山まであるので「今度行ってみよう」や「次登る山だから参考に見とこう」から「いつかは行ってみたい」や「絶対こんなの登りたくない」まで登山へのモチベーションをあげてくれるすごいやつです。山に興味がある人はこれとあわせてどうぞ。
今回のルート(超アバウト)
大倉バス停〜大倉尾根〜塔ノ岳〜鍋割山〜大倉バス停




