09 竜は名を呼び、夢は爪痕を残す
白い世界を埋め尽くすように、巨大な影がゆっくりと姿を現した。
いぶし銀の鱗。岩肌を思わせる重厚な皮膚。そして、白い空間を覆い隠すほどの巨大な翼。伝承画でしか見たことのない存在が、目の前に確かに存在していた。
「竜……」
黄金色の瞳に見下ろされている。縦に裂けた瞳孔が細められ、心の奥まで覗き込まれているような錯覚がした。
「本物……なのか?」
心臓がうるさい。
ずっと憧れ続けてきた存在がここにいる。
あの時の俺は、興奮と混乱で、まともに考えることができなかった。
黄金の瞳を見つめていると、意識の奥から忘れていたはずの景色が浮かび上がってくる。
二年前のあの日、尋ね人が来ていると呼び出され、街外れで中年の行商人と会った。
『おまえが、リュシアン・バティストか。仲間から預かってきた』
差し出されたのは、細長い布包だった。
布包の結び目に挟まれた紙片へ目が止まる。そこには、見覚えのある筆跡で名前が記されていた。
ジェラルド・バティスト。
間違いなく、兄から届いたものだった。なのに、兄自身はここにいない。
『詳しいことは聞いてない。ただ、必ず渡せと言われただけだ』
商人はそれだけを告げると、こちらの質問を待つこともなく立ち去った。
兄はどうして直接来ない。なぜ手紙もなく、行商人にこんなものを預けたのか。
疑問ばかりが浮かんだが、戸惑いながらもその場ですぐに包みを開いた。
中に入っていたのは、一本の長剣と黒い手帳。そして、赤子の拳ほどもある宝玉だった。
宝玉だけが、妙に冷たい光を返していた。
何のために送られてきたのか。手帳には何が書かれているのか。
何気なく宝玉を掴むと、碧色の光が弾けた。
そして気付けば、こんな有り様だ。
『我を呼んだのは、汝か』
「え!? えぇ!?」
低く響く男の声が、頭の内側へ直接流れ込んできた。
思わず周囲を見回すが、誰もいない。
『どこを見ている。話しているのは我だ』
「嘘だろ……」
『信じられぬのも無理はない』
声に合わせるように、竜の瞳が鈍く輝いた。
伝承では、竜は言葉を口にせず、思念によって会話すると語られていた。
「二百年も前に消えた存在だろ。すげぇ……」
『その通り。我々は人の前から姿を消した』
竜は一度、長い沈黙を置いた。
『だが、今はそれについて語る時ではない。残された時間は、わずかだ』
「時間がわずか?」
『これは運命の悪戯か。あるいは、時代が汝を選んだか』
黄金色の瞳が、俺をじっと見据える。
『見れば、混じっているようだな。資格を有する者か』
「混じってる? 資格?」
竜だけが何かを理解している。
話の意味がまるで見えなかった。
『我の意識が途絶える前に……汝へ、力の一部を授ける……』
「力? 待ってくれ。もう少し詳しく……」
右手の甲が、碧色に染まった。
光は腕を這い上がるように広がり、肘を越え、肩まで飲み込んでいく。
「がっ……あぁぁぁっ」
爪の先から異物が入り込んでくるような激痛に襲われた。痛みと熱が、腕の中を這い上がってくる。
『邪悪なものを……討て……そして……』
余りの痛みで、思考が吹き飛んだ。
何かを言われた。それだけは覚えている。
だが、その先がどうしても思い出せない。
※ ※ ※
「リュシアンさん、目を覚まされましたか。間もなく、ヴァルネットに到着しますよ」
鈴を転がすような声と、肩へ触れる温もりが、穏やかに意識を引き戻してくる。
「悪い……寝ちまったのか」
「お疲れだったのでしょう。本日は陽気もよく、うたた寝には最適ですから」
「とはいえ、内容が内容だけどな」
「悪い夢だったのですか?」
「いや。昔の出来事を夢に見ただけだ」
あれは、本当に夢だったのか。
目を覚ましてしまうと、あの日に見た竜の姿がひどく曖昧に感じられる。
眠った勢いで、もう一度膝枕をしてもらえたら最高だったのに。
そんな考えが浮かび、慌てて頭の中から追い出した。
「がうっ、がうっ」
俺を戒めるように、左肩の上でラグが鳴く。
街へ入った馬車は、ゆっくりと速度を落としていった。
※ ※ ※
ヴァルネットに戻ったその日の午後。三人で冒険者ギルドに顔を出すと、泣き出しそうな顔をしたシャルロットが駆け寄ってきた。
「リュシアンさん、怪我はなかったですか? 本当に心配したんですよ」
「あぁ、問題ねぇ。新米冒険者の心配でもしてやってくれ」
「そう言いながら、いつも無茶ばっかりするじゃないですか」
「無茶をするのも冒険者の仕事だ」
「そんな仕事、聞いたことありません」
軽口を交わすうちに、彼女の目元がようやく緩んだ。
こういうところは、素直に可愛いと思う。
「とにかく、お帰りなさい。ささ、受付で討伐報告を済ませてください」
談笑していたセリーヌとナルシスを呼び、報酬受領の手続きへ向かった。
報告されたルーヴの数は想定より多く、ランクールの街長が追加報酬を申し出てくれた。
しかし、セリーヌは迷いなく首を振った。
『そのお金は、どうか復興にお使いください』
柔らかな声に、街長は感激していた。
しかも彼女が、人目を避けて紙幣の束を渡したことも知っている。冒険者登録の際に換金したお金の残りを、全額寄付したらしい。
豪胆というより、あれは自然体での優しさなのだろう。そういうところが、眩しい。
『街長。すみませんが、少しいいですか?』
セリーヌとナルシスをさりげなく引き離し、俺は街長と言葉を交わした。
セリーヌの寄付を無駄にしないよう釘を刺し、俺自身の目的も伝えてある。
あの街長なら、きっと上手くやってくれる。そう信じられた。
「結局、報酬は三万ブランか。ひとり一万ずつだな。セリーヌがランクDへ昇格するには、累計三十万ブランの報酬が必要なんだ」
「このような戦いを、幾度も……おふたりとも、相当な研鑽を積まれてきたのですね」
長い道のりだが、彼女なら必ず辿り着く。
「今回は共闘になったけど、後追い受注だと先発者に優先権があるんだ」
セリーヌを見つめながら、説明を続ける。
「達成すれば、ギルドと先発者に手数料を払って報酬を分け合う。偶然の遭遇でも原則は同じだ。最悪、偶然を装った横取りも起こり得る」
そこで、ふと重要なことに思い当たった。
「ちょっと待て。ルーヴ・ジュモゥ……あの大型魔獣の報酬はどうなるんだ?」
身を乗り出して女性職員に詰め寄ると、ナルシスまで割り込んでくる。
「命を落としかけた、危険極まりない相手だったんだ。見合った報酬を頼むよ」
「おまえはダメだ。俺とセリーヌで山分けだ」
「待ちたまえ! 僕の閃光玉がなければ、君もやられていただろう」
「じゃあ百歩譲って、閃光玉の代金だけ払ってやる。それで我慢しろ」
「おふたりとも、少しは恥を知りなさい」
セリーヌの叱責は、よく通った。
「山分けなんて、とんでもない。ナルシスさんは一割。リュシアンさんは三割。そして私が六割を……」
とんでもない守銭奴がいた。
俺とナルシスは、同時に冷めた目を向ける。
「あの……冗談ですからね。そんな目で見ないでください……仲良く三等分で、よろしいではありませんか……」
顔を真っ赤にして俯く姿は、妙に愛嬌があった。
「あの~。ちょっと」
中年の女性職員が声を張った。
「大型魔獣については、正式な討伐依頼が確認できません。対象外ですので、報酬は発生しません」
「冗談だろ。どう見ても討伐対象ランクAかSの相手だったぞ」
「私に言われても困ります」
この開き直り方はさすがだ。
ベテランの貫禄ってやつか。
「ってことは、泣き寝入りかよ……」
「ギルド本部の調査隊から、非常に稀少な個体だと連絡が来ています。研究対象になれば報酬検討の余地はありますが……遺体の損傷が激しすぎる、と」
女性職員は少し間を置き、言葉を続けた。
「まるで、伝説に残る竜撃のようだ、と」
心臓が大きく跳ねた。
辺りにいた職員たちまで手を止め、こちらの様子を伺うような視線を向けてくる。
「大げさだろ。強力な魔導具もたくさん使ったからな……」
天をも破壊すると言われた、竜の一撃。それが竜撃だ。
俺の力の正体を示す言葉でもある。変に触れられるわけにはいかない。
「がう?」
左肩の上でラグが首を傾げた。
俺たちのやり取りを見ていたセリーヌが、静かに近づいてくる。
「危険な魔獣は退治できました。充分です」
穏やかな微笑みを見ているだけで、こちらの気分まで軽くなった。
「嬉しいので、今夜は山盛りのボンゴ虫をいただきたい気分です。いかがですか?」
「いや……まったく」
思わず顔が引きつる。
そういえば、彼女は少し残念な人だった。
助けを求めるように、ナルシスを見る。
「竜撃とは、興味深いね」
面倒な男が、厄介なところを突いてきた。
「いや、今はボンゴ虫の話だぞ」
「あいにく、僕は満腹でね」
「じゃあ、これにて解散だな」
「待ちたまえ」
背を向けると、ナルシスに腕を掴まれた。
腕輪に巻いていた黒のバンダナがほどけ、床へ落ちる。
その瞬間、ナルシスの目が見開かれた。
「腕輪の赤ライン……君のランクはAか!?」
「だから秘密にしてたんだよ。面倒だから」
「ナルシスさん、知らなかったんですか?」
「シャルロット。黙ってろ」
誇らしげな彼女の声を遮る。
ナルシスは腕輪を見つめたまま、震えるような声を絞り出した。
「ランクA。剣が帯びる光の色……まさか君は、碧色の閃光なのか!?」
その声が響いた瞬間、ギルド内の視線が一斉にこちらへ集まった。





