08 消された記憶
「くそっ」
怒りに任せて、剣を振るう。
風の刃が魔獣の死骸を裂いた。狼の額から黒い体液が溢れ出し、地面へ飛び散る。
終わったはずなのに、胸の奥の苛立ちは消えない。
姿も見せず、魔獣を操り、人の命を弄ぶ。
あの男は、何様のつもりなのか。
「ふざけんじゃねぇ」
何度、剣を振ったのかわからない。
荒い呼吸を繰り返すうち、周囲が静まり返っていることに気付いた。
セリーヌが倒れているナルシスに杖をかざしている。杖の先から放たれる青白い光が、静かに彼の傷を癒やしていた。
やがて魔法の光が消えると、黄金色に染まっていたセリーヌの髪と瞳も、ゆっくりと元の色へ戻っていった。
セリーヌと目が合う。その顔には、力の抜けたような笑みが浮かんでいる。
俺たちはしばらく、何も言えなかった。
「じきに目を覚まされると思います」
「ありがとう。何から何まで悪いな」
戦いは終わったが、残された謎は大きい。
「なあ。この“竜の力”って……」
セリーヌは周囲を見回すと、俺のすぐそばまで歩み寄ってきた。そして、誰かに聞かれないようにそっと口元を隠す。
「見付かれば、大騒ぎになります……私は、できれば使いたくない力なのです」
囁きには、戦闘中にはなかった迷いがある。
「あれだけの力で、戦況をひっくり返して、命まで救えるのにか?」
「だからこそです」
セリーヌは一瞬、視線を伏せる。
「公にすることを、はばかられる力なのです」
俺もつられるように声を潜めていた。
まるで、誰にも知られてはいけない秘密を共有しているようで、妙に落ち着かない。
「ですが、竜眼を使えば問題ありません。今回の対処はお任せください」
「竜眼?」
「ご存じないのですか?」
セリーヌの表情から笑みが消えた。向けられる視線には、さっきまでとは違うものが混じっている。
「あぁ。だから教えてくれ。この力のことを」
「今さら、何を知りたいと仰るのですか」
穏やかな口調だが、その声には俺を探るような響きが混じっている。
「俺がこの力を得たのは二年前だ」
右手の紋章へ視線を落とした。
「説明もなく、突然、一方的に与えられた」
「一方的に……」
セリーヌの瞳に、明らかな疑念が浮かぶ。
さっきまでの困惑ではない。警戒している。
「おかしいか? この力って、生まれつきのものなのか」
このままでは、何も聞き出せない。
「あのさ……」
一瞬、迷ったが、何も知らないままでは終われない。
「記憶をなくしてるみたいなんだ」
セリーヌの表情が、わずかに揺れた。
「それは……お辛いですね」
疑っているはずなのに、まず俺を気遣う。
嘘を重ねている感覚に、胸が少し痛んだ。
でも、今は仕方がない。
「だから教えてほしい。何か思い出せるかもしれない」
祈るような気持ちで、セリーヌを見つめた。
この謎を知る手掛かりは、彼女しかいない。その先に、兄へ繋がる道もあるかもしれない。
「あら? ですが先ほど、二年前に与えられたと仰っていましたよね」
静かな問いだが、逃げ道はなかった。
「それだけは思い出したんだ」
咄嗟のことで機転が利かず、浅い答えしか返せない。
セリーヌの追及はなく、小さく息を吐いた。
「では、どこでその力を?」
胸の奥に、突き刺さるような感覚がある。
「夢だったのか、現実だったのか……それすらもよくわからないんだけどさ……」
一度、息を吐く。
「故郷で、目の前に竜が現れたんだ」
空気が、わずかに張り詰めた。
「故郷……そうですか」
セリーヌは静かに頷く。
「ちなみに、リュシアンさんが信仰されている属性は?」
「信仰している属性?」
何のことだかわからない。
「いや……覚えてないな……」
戸惑っていると、セリーヌの瞳が黄金色に染まった。内側から光を放つ宝石のような、美しく、静かな光だ。
なぜか、逃げなければと思った。
理由はわからない。ただ、本能だけが警鐘を鳴らしている。
その瞳に見つめられ、全身から力が抜けた。
「竜の力に関わる記憶は、消さなければ」
意識が揺らぐ。膝から力が抜け、立っていられない。
「竜術も見られてしまいました……」
遠ざかっていく意識の中で、セリーヌの声だけが聞こえている。
「別の魔法だったことに、すり替えましょう」
視界が、ゆっくりと暗く沈んでいく。
最後に見えたのは、俺を見下ろす、どこか悲しそうなセリーヌの顔だった。
※ ※ ※
温かく、柔らかな感触が頬を包んでいた。
ほんのり甘い香りまで漂ってくる。どう考えても、いつもの枕じゃない。
「きゃっ。あの……あまり触られると、くすぐったいです……」
枕が喋った。
まさかと思いながらも、心地よさに抗えない。腕の中へ抱き寄せ、頬を擦り寄せる。
「あと五分だけ……」
指先へ伝わる柔らかさが妙に生々しく、離す気になれない。
「あの……本当に困ります……」
主人を拒むなんて意味がわからない。
それにしても、素晴らしい枕だ。
後頭部を支える絶妙な弾力。横を向けば耳が自然に収まる柔らかな窪み。まさしく俺のために作られた形状だ。
至福に浸っていると、隣で何かが暴れる気配がした。
「ちょっと、ナルシスさん」
「いい加減に起きたまえ」
頬を叩かれ、意識が一気に浮上する。
目を開けると、隣にはナルシスが寝ていた。
「どうして君が姫の膝枕で、僕が上着なんだ。どう考えても逆じゃないか」
奴は、丸められた白い長衣を枕にしている。
「膝枕?」
恐る恐る顔を上げた。
視界に柔らかな双丘が迫り、その向こうでセリーヌが困ったように微笑んでいた。
恥ずかしさが一気に込み上げ、飛び起きる。
「がうっ」
左肩に、ラグが舞い降りてきた。
「あれ……力が消えてる」
目線を上げると、黒い前髪が映り込んだ。
身体を満たしていた高揚感も消え、竜の力を使った代償である、塞ぎ込みたくなるほどの倦怠感が全身にのしかかっている。
それでも、眠ったお陰でいつもような酷さじゃない。竜の力も、普段は三十分ほど続く。それ以上、気を失っていたらしい。
「俺は……どうして倒れてたんだ?」
膝の感触が忘れられず、思考が妙に鈍い。
「何か、大事なことを忘れてる気がする……」
いや、気のせいだ。膝枕以上に大事なことなんて、あるはずがない。
ナルシスは悔しさを隠そうともしない。
実に愉快だ。俺は選ばれたんだ。
長衣を脱いだセリーヌは、身体の線がよくわかる紺色の法衣姿になっていた。
この法衣を手掛けた職人は天才に違いない。
「魔獣を退治した後、それを操っていた男性と話したことは覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん。忘れるわけがねぇ」
怒りが、ゆっくりと腹の底から蘇ってきた。
「あの後、怒りに任せて魔獣の顔を斬りました。ですが、足を滑らせ、頭を打って気を失われてしまったのです」
「そうか……ようやく記憶が繋がった」
セリーヌの援護を受けながら魔獣を追い詰め、竜の力で半身を吹き飛ばした。
残る半身は、セリーヌが使った“爆発属性の魔法”を受けて息絶えた。
それでも、胸の奥には棘が刺さったような違和感だけが残っている。
何か大切なことを思い出しかけるたび、その輪郭だけが霧の中へ溶けていくようだった。
すると、ナルシスが笑い声を上げた。
「君と姫が、あの魔獣を倒したのかい?」
ナルシスが上体を起こし、値踏みするようにこちらを見てくる。
「そんな古びた剣で、どうにかできる相手ではなかっただろう」
視線はそのまま、セリーヌに向いた。
「すべてお見通しだよ。姫の素晴らしい魔法で魔獣を仕留めたんだね。彼のような下民に、みすみす手柄を渡すことはない。そんな奥ゆかしさも実に眩しいね」
魔獣を操っていた男、“終末の担い手”よりも腹立たしい。
「おい。そろそろ殴ってもいいか」
「やめたまえ。怪我人だぞ」
「その割に元気そうだな」
睨むと、ナルシスは大げさに肩を竦めた。
「僕ほどになると、気合いで治るのさ」
「しっかり死にかけてただろうが。吐息を受けて、吹っ飛んだのは誰だ」
軽口を叩き合ううちに、張り詰めていた空気が少しだけ緩んでいく。
その後、街の人々の手も借りながら魔獣の処理を終え、俺たちは宿で一夜を明かした。
※ ※ ※
翌朝、街長への報告を済ませた俺たちは、帰りの馬車乗り場へ向かっていた。
「姫。帰路だけも、びゅんびゅん丸に乗ってみないかい?」
ナルシスが白馬の手綱を引きながら、最後の悪あがきを始める。
「馬車での移動が気に入ってしまったので」
セリーヌは微笑み、やんわりと断った。
「ぐぬぅ……そうですか……」
肩を落とす姿が妙に面白い。
「仕方ない……では、ヴァルネットで」
ナルシスは別れの挨拶を済ませると、すぐに俺を睨んできた。
「くれぐれも、姫に失礼のないようにな」
「わかった、わかった。さっさと行け」
落ち込むナルシスを見送り、ほくそ笑む。
これでようやく、セリーヌとふたりきりだ。
意気揚々と馬車に乗り込み、向かい合わせの木製ベンチに並んで腰を下ろす。
「そうだ。セリーヌの目的は果たせたのか?」
「はい。お陰様で滞りなく」
魔獣のリーダーだけじゃなく、事件の黒幕まで取り逃がした。
俺にとっては中途半端な結果だが、依頼を解決するための手は打ってある。彼女が満足しているなら、今回はそれでいい。
「でも、なんであの依頼にこだわったんだ?」
「今は、まだお話しできません。この依頼が完全に終わった後に」
人差し指を唇へ当てる仕草に、思わず笑みが零れた。
「なんだよ、それ」
「内緒事も、たまには必要なのです」
窓の外では、朝の陽射しが草原を照らす。
依頼も終わった。命も助かった。隣には、美人で不思議な魔導師までいる。
悪くない帰り道だ。
もっと親しくなる絶好の機会だと思っていたのに、強烈な眠気が押し寄せてきた。
「悪い……ちょっと眠い……」
「ふふっ。お疲れだったのでしょう」
視界がゆっくり霞んでいく。
揺れる馬車の振動。暖かな陽射し。そして、どこか安心する彼女の声。
夢が待っている。
なぜか、そんな予感があった。





