07 双頭の魔獣と、ふたつの覚醒
「魔力障壁が……破られた……」
ナルシスの腕輪から光が消えた。まさか、命まで失われたのか。
恐怖にも似た想いがこみ上げた時だった。
「うぅっ……」
微かな呻き声が届く。
「まだ、生きてる……」
安堵したのも束の間だった。
すぐ助けに行きたいが、一歩でも視線を外せば、次にやられるのは俺だ。
奥歯を噛み締め、碧色に輝く剣を握り直す。
右の頭が、じっと俺を見据えていた。左の頭は、まだ閃光の影響が残っているらしい。
右の前脚が大きく振り上げられる。
また横薙ぎか。
「単調なんだよ」
腰を落とし、一気に踏み込んだ。
鼻先を掠める爪をかわし、そのまま巨体の腹下へ滑り込む。剣を下から突き上げた。
胸元から腹へ、刃が肉を裂く感触が腕へ伝わる。熱い血が吹き出したが、魔力障壁がそれを弾き、身体には一滴も届かない。
暴れる巨体から転がるように離脱すると、魔獣の足下には血だまりが広がっていた。
深手だ。次で決める。
そう判断して剣を構え直すと、背中を何かが薙ぎ払った。
「がっ!」
凄まじい衝撃とともに身体が宙へ浮き、そのまま地面へ叩きつけられる。肺から空気が抜け、一瞬、息ができなかった。
顔を上げると、太い尾が視界を横切った。
「くそっ……」
どうにか立ち上がる頃には、ふたつの頭が同時に大きく息を吸い込んでいた。
吐息の一斉放射だ。まともに受ければ、今度こそ終わる。
「ラグ、来い」
「がうっ!」
上空を舞っていたラグが、碧色の光を纏って一直線に突っ込んできた。
ラグが右手の紋章へ飛び込むと、碧色の光が腕から全身へ駆け巡った。
腹の底から熱が湧き上がり、全身を巡る。髪が、銀色へ変わっていく。視界が研ぎ澄まされ、世界の動きが遅くなったように感じた。
「待たせたな」
何度使っても、この力の理屈はわからない。普段は魔法を使えない俺でも、ラグを取り込んでいる間だけは、竜の力を借り受けることで魔法のような力を引き出せる。
この姿になれば、身体能力も別物になる。代償があるが、それを考えるのは後だ。
「行くぜ」
立ち上がって魔獣を睨むと、ふたつの口から巨大な風の渦が放たれた。
暴風が地面を削りながら迫ってくる。
「避ける必要もねぇ」
風なら、風で消せる。
「付与、飛竜刃!」
剣に風を纏わせ、一気に振り抜いた。
鋭く白い斬撃が、迫り来る吐息と正面から衝突する。
耳を裂くような高音が響き渡り、激しく渦巻いていた風が弾け飛んだ。
「はぁっ!」
そのまま踏み込み、追撃を叩き込む。
風を纏った刃が魔獣の背を斬り裂き、巨体が苦悶の咆哮を上げた。
「効かねぇよ」
挑発するように告げると、四つの瞳が怒りに染まる。
怒号とともに巨体が突進してきたが、覚醒した今、その動きにさほど脅威は感じない。
「来いよ」
速い。
だが、見える。
前脚の軌道を見切り、横へ回避すると同時に剣を振る。刃が脚を斬り裂き、新たな傷を刻んだ。
左右から爪撃が降り注ぐ。
しかし、必要最小限の動きだけで避け続けることができる。
何度目かの爪をかわした時、左の頭が大きく口を開いた。
「だから効かねぇって……」
言った瞬間、視界が白く染まった。
爆発的な炎が全身を呑み込む。
「ぐぅっ!」
熱と激痛が身体を貫いた。
咄嗟に距離を取り、地面を滑るように後退する。
腕輪を見ると、ラインは赤へ変わっていた。
残り三割。
「二属性かよ……」
背筋に冷たい汗が流れる。今まで戦ってきた魔獣とは、明らかに格が違う。
「だったら……足を潰す」
一気に距離を詰めるが、魔獣は冷静だった。
ふたつの頭が、こちらを見下ろしている。必死に抗う小さな存在を、嘲笑うように。
剣へ込めた風の力が唸る。
次に来るのは風か、炎か。半分は賭けだ。
そして、ふたつの口が同時に開いた。
「おい……」
左から風。右から炎。ふたつの属性が絡み合い、灼熱の暴風となって迫る。
「複合吐息か」
炎を纏った嵐が、夜を昼のように照らした。
「ふざけんな」
突進を諦め、横へ駆ける。
だが、魔獣は吐息を吐きながら、そのまま追ってきた。
大地が一直線に抉られていく。
逃げ切れない。
「それなら……」
覚悟を決め、足を止めた。
風は相殺し、炎は受ける。それしかない。
「うらあぁっ!」
剣を振り抜く。
真空の刃が暴風へ叩き込まれ、荒れ狂う風の力を削り取っていく。
あとは、炎を受けきるだけだ。
両腕で顔を庇い、衝撃に備えた時だった。
「氷竜零結!」
凛とした声が夜に響く。
直後、すべての炎が凍り付いた。
「なんだよ、これ……」
恐る恐る顔を上げる。
暴れ狂っていた炎は、巨大な氷の螺旋へと姿を変えていた。白蒼の氷が月光を反射し、周囲を幻想的に照らしている。
「あり得ねぇ……」
視線の先では、セリーヌが杖を掲げていた。
先ほどまで震えていた姿は、もうない。静かで、凛としていて、神秘的ですらある。
「取り乱してしまい、申し訳ありません」
駆け寄ってきたセリーヌの瞳には、もう迷いがなかった。
魔獣へ視線を戻すと、氷に包まれた身体を大きく振っていた。全身にまとわりついた霜が払い落とされていく。
今なら、動きが鈍っている。
「セリーヌ。もう一撃だ」
「はい」
再び駆け出すと、背後でセリーヌの詠唱が始まった。空気が震える。
魔力を持たない俺でもわかるほど、濃密な力が周囲へ集まり始めていた。
恵みの証、母なる大地。
生命の証、静寂の水。
躍動の証、猛るは炎。
自由の証、蒼駆ける風。
澄み切った詠唱が、静かな夜へ溶けていく。
剣を握る手が、一瞬だけ止まった。
力の証、蒼を裂き、
轟く雷、我照らす。
詠唱が終わると同時に、背後から感じる力が爆発的に膨れ上がった。
「地竜裂破!」
大地が裂けた。一直線に走る亀裂が魔獣の前脚を呑み込み、巨体が大きく体勢を崩す。
「今だ!」
剣を水平に構えると、碧色の光が刃へ集まり、剣先に魔力の球が生まれる。
それは脈打つように震え、荒れ狂う力を内側へ押し込めていた。
「くらいやがれ……」
剣先へ、さらに力が集まっていく。まるで竜そのものが牙を剥いているかのような、暴力的な力だった。
狙うのは、右側の頭だ。
「竜牙天穿!」
突き出した刃の先から、碧色の魔力球が放たれた。空気を震わせ、一直線に突き進む。
疲弊した魔獣に、避ける余裕はない。魔力球が、右側の頭へ直撃した。
一瞬遅れて、轟音が夜を揺らす。
巨大な頭部が爆ぜ、血肉が夜空へ飛び散った。巨体が大きく揺らぐ。
「まだだ」
残った左側の頭が牙を剥き、こちらへ突進してくる。
その進路へ、セリーヌが割って入った。
「光竜滅却!」
眩い閃光が炸裂し、思わず腕で目を庇う。
耳を爆音がつんざく。凄まじい衝撃に足が浮きかけたが、どうにか踏みとどまった。
やがて光が収まり、恐る恐る腕を下ろす。
そこにあったのは、左半身ごと消し飛んだ魔獣の残骸だった。
砕けた肉片。飛び散った内臓。あまりにも圧倒的な破壊だ。
「なんだよ、これ……」
こんな力は、見たことがない。
美しく、澄み切っていて。それでいて、底知れなく恐ろしい。
「お怪我はありませんか?」
駆け寄ってくるセリーヌを見て、そこで初めて気付いた。
髪と瞳が、黄金色に変わっている。
「まさか、あなたも竜臨活性を使えるだなんて。驚きました」
「竜臨活性?」
聞き慣れない言葉に眉をひそめると、セリーヌは目を見開いた。
「知らずに使って……」
言葉が途中で止まった。
「この力を知ってるのか!?」
思わず身を乗り出したが、セリーヌは答えない。険しい顔で、魔獣の死骸を見ている。
つられて視線を向けた瞬間、背筋が凍った。
絶命したはずの左側の頭が、こちらを見ている。
「見事だ」
低い男の声が、魔獣の口から漏れた。死肉の奥から滲み出るような、不快な声だ。
「どうなってやがる……」
「何者かが操っています」
セリーヌの声音も鋭い。
「てめぇは誰だ。出て来い」
怒りを込めて剣を向ける。
「引きずり出して、ぶった斬ってやる」
狼の口から、くぐもった笑い声が漏れた。
「名など不要。君たちは私を、終末の担い手と呼べばいい」
「あなたの目的は何なのですか」
セリーヌも杖を握り締め、鋭く睨み据える。
「いい力試しになった。感謝する。君たちの力、ぜひ欲しい」
男の声が愉快そうに歪んだ。
ぞわりと背筋が粟立ち、嫌悪感が胸の奥を掻き回した。
意味がわからない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
こいつは許せない。
「てめぇの勝手で、この街の人がどれだけ苦しんだと思ってんだ」
街で見た光景が脳裏に浮かぶ。
泣きじゃくる子ども。その子を抱き締める母親。瓦礫を片付ける人々。疲れ切った顔で炊き出しを続けていた大人たち。
不意に、兄の言葉が脳裏をよぎった。
『魔獣に苦しめられている人たちもたくさんいる。みんなが手を取り合うべき時に、人同士が争うなんて悲しいじゃないか』
あの街の苦しみが、こいつにとっては遊びだと言うのか。
「てめぇだけは……絶対に許さねぇ」
「んふっ。冷静が肝要」
狼の赤い瞳が妖しく揺れる。
「次はもっと面白いものを見せよう。“蜘蛛に囚われた森”を探せ」
その言葉を最後に、赤い光が消えた。
まるで糸が切れた操り人形のように、巨体が地面へ崩れ落ちる。
「魔力が消えました……逃げられたようです」
セリーヌの声が、夜風へ静かに溶けてゆく。





