26 高貴なる血と力
「ゆっくり話をしている暇がない? マリーの身体を使えば、いつでも会えるんですよね?」
マリーの姿を借りた水竜女王は、わずかに視線を逸らした。霧の向こうに潜む何かを窺うような横顔には、どこか物悲しい色が漂っている。
「残念ながら、私の力は遠くまで及びません。この土地でなければ不可能です」
静かな声でそう答えると、水竜女王は自分の手を見つめた。
「この身体を借り受けられるのも、彼女が眠っている時か、心身ともに弱っている時に限られます」
「じゃあ、これから先は……」
「後日、この娘と共に再びおいでなさい。あなたへ託さねばならないものがあります」
「託す?」
気になる言葉だった。
「でも、どうしてマリーが?」
「彼女は過去、この付近で魔獣に襲われ、瀕死の傷を負いました」
水竜女王の視線が、眠るように静かなマリーの姿へ落ちる。
「私はその時、彼女が宿す魔力に気付きました。そして力を分け与え、その命を救ったのです。そうして彼女は竜術に目覚め、その身体を通じて私の意識を送り込むこともできるようになりました。本人は、それを知りませんがね」
悪戯めいた笑みが浮かぶ。中身は別人だが、落ち着いた物腰とマリーの美しさは、奇妙なほどよく似合っていた。
「私と対話をするには、マリーと離れてはなりません。彼女こそが鍵なのです」
そして、水竜女王は胸元へ視線を向けた。セリーヌから渡された首飾りに触れる。
「魔導装飾具ですか。古い意匠ですが、並々ならぬ魔力を秘めていますね」
指先で装飾をなぞる。
「これは恐らく、一族の至宝。これほどのものを彼女へ与えるとは大胆不敵ですね。私の力に気付いていらしたのですか?」
咄嗟に、セリーヌと老剣士コームの顔が脳裏を過ぎった。
「俺の物じゃありません。竜術を使う魔導師が持っていて……彼らは、何者なんですか」
セリーヌはマリーの力を見抜いていたのだろうか。救出にこだわったのも、そのためだったのか。
しかし、水竜女王は不思議そうに首を傾げた。
「ご存じないのですね。あなたもその一族と無関係ではないようなので、てっきり……」
「どういうことですか?」
「今、私の口から詳細を伝えることはできません。ただ、彼らには高貴なる血と力が、今もなお受け継がれている。とだけ言っておきましょう」
「高貴なる血と力……」
「この話は他言無用です」
静かな声だが、その瞳には明確な警告が宿っている。
「他者へ漏らせば、命すら危ういと思ってください」
水竜女王の目は本気だ。コームから感じた圧力も含め、限られた者しか知らない情報なのだろう。
「がう、がうっ!」
その時、左肩の上でラグが鋭く吠えた。
水竜女王も素早く周囲へ視線を巡らせる。
「詳しい話は、次の機会に。あなたが訪れるのを、いつまでも待っています」
マリーの身体が淡い水色の光に包まれる。直後、その光は霧の中へ溶け込むように弾けた。それと同時に、彼女の身体が大きくふらついた。
「おっと」
慌てて抱き留めたが、昨晩の二の舞になっては敵わない。近くに立つ大木まで歩き、その身体を預けるようにそっと寄り掛からせた。
「誰かと思えば、碧色だったか」
霧の間を縫うように、人影が現れた。姿を現したのは、険しい表情をしたレオンだ。
水竜女王が逃げるように去ったのは、こいつが近付いてきたせいか。
「どうした?」
マリーを座らせていた俺は、かがんだまま自然と見上げる形になった。レオンは眉間に皺を寄せ、こちらを見下ろしている。
細く鋭い目をしているが、顔立ちは整っている。何を考えているのかわからないところもある。その陰のある雰囲気が、一部の女性には受けるのだろう。
「彼女の姿が見えたから」
レオンはマリーに視線を向けた。
「気になって様子を見に来たけど、先客とはね。何かあった?」
ぐったりとしたマリーを伺い、細身の長剣を鞘に収めた。
「考えることはみんな同じか」
俺は立ち上がり、軽く身体を伸ばす。
「散歩に出たら、マリーのことを聞いてさ。様子を見に来たら急に倒れたんだ。疲れが溜まってるんだろ」
適当に誤魔化したものの、レオンの様子がどこかおかしい。
「マリーに興味があるのか? この子に会ってから、様子が変だよな」
何気なく尋ねると、レオンは鼻から短く息を抜いた。
次の瞬間、鋭い剣幕で睨まれる。
「誤解されたままっていうのも癪だし、はっきり言っておくよ」
その声には、苛立ちが滲んでいた。
「マリーの顔が、死んだ知り合いにそっくりなだけだ。ただ、それだけ」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。その人物が、レオンにとって特別な感情を抱いていたことがはっきりとわかった。
「悪かった。余計な質問だったな」
「別に構わない。もう、過去のことだし」
俺もそれ以上は何も言えず、周囲へ視線を彷徨わせる。この深い霧が、俺たちの心の傷まで隠してくれたら、どんなに楽だろう。
「あれ? 私……」
気まずい空気を払うように、ちょうどマリーが目を覚ましてくれた。その整った顔を覗き込むと、意識はしっかりしているようだ。
「大丈夫か? 急にふらついたから驚いたよ」
マリーは腑に落ちない様子で、辺りを見回している。
「どうして、こんな所にいるんだろう? ここに来なくちゃいけないっていう、強い想いがあったのは確かなんだけど……」
「何だそれ? 寝ぼけたのか」
切れ長の目を何度もしばたかせる姿に、思わず苦笑が漏れる。本人に自覚がない上、レオンもいる。ここは誤魔化すのが賢明だ。
「失礼ね」
マリーは不満そうに頬を膨らませた。
「私はこの通り、いつもきちんとしているつもりだけど」
そう言って立ち上がると、純白の法衣に付いた汚れを払う。
「さすが聖女様だ。もう大丈夫そうだな」
安堵して腰を上げると、今度はマリーにまで睨まれた。
「私のこと、バカにしてるの? 命は助けてもらったけど、大司教様へ暴力を振るったあなたを許していないし、認めたわけでもないのよ。寺院の暴れん坊さん」
「そんなつもりはねぇよ。気に障ったなら謝る」
事件の詳細を知らない彼女にしてみれば、俺は単なる暴力男だ。軽蔑されても仕方ない。
でも、嫌われれば水竜女王に会えなくなる。それだけは避けなければならない。
「きゅうぅん……」
顔の前で両手を合わせると、左肩の上で、ラグまで情けない声を漏らした。
唐突に、レオンが隣に踏み出てきた。
「彼は口が悪くて、配慮に欠ける男なんだ」
何を言うかと思えば、俺の悪口だ。
「品行方正の君には理解できない生物かもしれないけど、許してあげて欲しい」
「レオン。おまえは何様だ。こういう時は俺を庇うもんだろ」
「あんたの、ありのままの姿を伝えただけだけど」
「へぇ。ありのままの姿ねぇ……おまえごときが、俺の何を知ってんだ」
「大層な二つ名を持つ割に、それほど優秀じゃないってことかな」
どこまでも頭にくる奴だ。
「今日は随分とおしゃべりだな。Gに負けた腹いせに、不満をぶつけてるわけか? それほど優秀じゃないって言葉、そっくり返してやるよ」
「受けて立つよ。どちらが上か、決めるか?」
距離を詰めてきたレオンと睨み合う。もう、引く気はない。
「がう、がう、がうっ!」
仲裁するつもりなのか、ラグが耳元で必死に吠える。
「もう、何なのよ! やっぱり冒険者の男なんて、野蛮な人ばっかり」
マリーは不機嫌そうに言い放った。その言葉で、レオンの空気が変わる。
「喧嘩するなら、私の目に付かない所で勝手にやってよね。でも、この霧の中じゃ、どこも同じね」
深い霧を見渡し、消え入るような声で呟く。そして、寂しげに笑った。
「でも、良かった……この霧のお陰で、変わり果てた街を見なくて済んだから」
マリーは霧の向こうへ目を向ける。
「街の全景なんて見たら、きっと泣いちゃう……」
「ひょっとして、街が襲われた後で来たのは初めてか?」
この際、レオンとの口論はどうでもいい。
「ううん。街が襲われた直後に、大司教様と一度だけ。それが最初で最後。その後は、ずっと寺院でふさぎ込んでいたから」
遠い目をしているが、当時のことを思い出しているのだろう。
「どうして私だけが助かってしまったのか……苦悩と後悔の連続だった。私も一緒に死んでしまえば良かったって……何度思ったか……」
涙を湛えた瞳が、俺へ向けられた。
「そんな私を救ってくださったのが、大司教様だった。みんなの分も生きて、ひとりでも多くの方の助けになってあげなさい、って」
そして、マリーは微笑んだ。
「それで私は、生きる意味を見つけられたの」
彼女の笑顔はあまりにも魅力的で、生きる力に満ちている。この深い霧さえ吹き飛ばしてしまいそうなほどだ。
「あなたが寺院へ乗り込んできた時は、本当に驚いたんだから。両親は生きていたんじゃないかって、勝手に期待して、混乱して……」
自嘲するように、視線を伏せた。
「落ち着いて考えれば、すぐにわかったことなのにね。焼けただれた両親の遺体らしきものも、自分の目で確認したんだから」
「君は強いよ」
気付けば、言葉が口をついていた。
「心が壊れてもおかしくなかった状況で自分を取り戻して、今、ここにいる。レオンも少しは見習え」
隣にいる男へ言い放った。
「え? どういう意味?」
マリーは不思議そうな顔をしている。
「レオンも、生まれ育った街を魔獣に滅ぼされたらしい。生き残りのひとりって話だ」
「碧色。余計なことは言わなくていいから」
レオンは深く息を吐く。
「俺は、求める強さの根本が違う。誰にも負けない強さが欲しいんだ。彼女のように、綺麗で純粋な気持ちで動いているわけじゃない」
その声には、これまでとは違う重さがあった。
「強さを手に入れて、どうするつもりなの?」
マリーの瞳が、不安げに揺れた。
「単純だよ。すべての魔獣を駆逐する。この怒りの根本を、絶つんだ」
奥歯を強く噛み締めたレオンは、そのまま背を向けた。
これ以上、話を続けるつもりはないということだ。
「そういえば、魔導師の女性はどこ?」
マリーが話題を変えるように、霧の中を見回した。
「あの方には、ぜひ御礼を言いたかったの」
「魔導師って、セリーヌのことか」
『レオンさん。聞こえますか』
その時だ。レオンの腰元から、アルバンの声が聞こえてきた。
レオンは革袋を探り、取り出した魔導通話石を口元へ運ぶ。
「何かあった?」
『馬に乗ったふたり組が、付近を窺っているんです。手を貸してください』
アルバンの声には、明らかな緊張が混じっていた。
新手の出現に、胸の奥がざわつく。





