23 水竜女王と炎竜王
薄く微笑む聖女を前に、制御不能のこの体はようやく動きを止めた。いや、止められた。冷めることなき熱を帯びた右拳は魔力結界に捕らわれ、引き抜くことは敵わない。
眼前の聖女から感じる力は、マリーとは異なる何かだ。俺の力が制御できないように、彼女にも何かしらの異変が起こっている。
だが、彼女は確かに言った。俺の目を見て、炎竜王セルジオンと。
この間にも、体から力が抜けて行くのを感じていた。魔力結界へ生じた波紋と共に、荒ぶる力までもが拡散されて消え失せたように。しかし、感覚を共有する謎の意思が消えることはない。この意思の正体が炎竜王なのか。
「この力。水竜女王プロスクレか」
口から勝手に言葉が漏れる。何者かが、俺の体を通して話すという不思議な感覚。
炎竜王と水竜女王。突然にそんな話を始められても、まるで意味が分からない。
「なぜ、邪魔をする」
心の内に、再び炎が灯るのを感じる。全てを焼き尽くさんとする、激しい恨みの炎が。
「怒りと憎しみに身を任せ、力を振りかざすのはおやめなさい。あなたは既にこの世から失われた存在。目を覚ますのです」
「こうして再び、肉体を手にすることができたというのにか? 人間どもへ復讐を果たす、絶好の機会ではないか!」
強く噛み合わされた奥歯が擦り合わされ、鈍い音を立てる。喉の奥から漏れる唸りは、獣のそれに程近い。
だが、燃え上がる怒りの炎とは対照的に、眼前の聖女は落ち着き払った様相を崩すことはない。それは穏やかな水面のように、どこまでも果てない静寂。
「炎竜王。私たちの時代はとうに終わったのです。この世界の行く末は、人間たちへ委ねられました。今のあなたはその肉体を借り受け、私と話をしているに過ぎません」
「人間が覇権を握るだと? ふざけるな!」
喉がはち切れんばかりに吠える。全てを否定し、打ち砕こうとでもするように。
「あなたのお気持ちも分かりますが、事実です。どうやら気付いていらっしゃらないようですね。そこへ居られる、尊い存在に……」
薄く笑う聖女。胸の内で、怒りと困惑がない交ぜになってゆく。そうして、耳に届いたのは小さな羽ばたき。
「がうっ!」
相棒は、結界に飲まれた俺の右腕へ止まった。
「これは、まさか……」
驚きと動揺が広がり、聖女の声が続いた。
「なぜ、このような御姿になられたのか……恐らく命の危機に瀕し、自らを保護するために力の一部を切り離されたとしか。その上、言語や知性といったものはほぼ失われています。生命活動を続ける心臓のようなものかと」
「どうして、こんな人間を選ばれたのだ」
困惑しているようだが、俺の方こそ知りたい情報だ。この会話から察するに、ラグの正体は彼等より上の立場ということだ。
「この青年。見た所、僅かに混じっているようです。そのような存在に頼らなくてはならないほど切羽詰まっていたのだと」
「人間どもは神竜にまで牙を剥いたのか。我の命が絶えた後、何が起こった!?」
「人間ではありません。現れたのは災厄です。恐ろしい力を持った魔獣が」
「魔獣だと?」
災厄の魔獣。セリーヌが追っているあれか。
「あなたと雷竜王は既にこの世を去り、戦力と呼べる者は僅か。神竜は地竜王と共に立ち向かわれたようですが、善戦空しく……」
「馬鹿な……」
全身から力が抜けていく。膝からくずおれそうになるのをどうにか堪えると、胸の内に宿る怒りの矛先は、再び眼前の聖女へ。
「そしておまえは傍観を決め込んだか。こんな場所で隠遁生活とは」
「私が争いを拒んだことは覚えておいででしょう。そして、『結界』の生成と維持のため、皆の前から姿を消したことも」
聖女の悲痛な表情は、神竜を救えなかったことへの後悔だろうか。
伏せられていた彼女の視線が、不意にこちらへ向けられた。その眼力に、心を掴まれたような錯覚がした。
「炎竜王。実体を失い、あなたの力もだいぶ衰えたようですね。青年と意識を共有されていますが、体を明け渡さなければ彼の意識は行き場を失ってしまいます」
行き場を失うとは、どんな状態なのか。
「構わんだろう。代わりに体を使ってやるのだからな。我の力を引き出す術を掴みかけているようだが、人間に使われるなど以ての外」
「がう、がうっ!」
激しく吠えたラグが、牙を剥き出して唸る。ここまで怒りを露わにするのは珍しい。
「おや。神竜もお怒りのご様子。ここは素直に従うべきかと……それにたとえ拒んだとしても、私の力で追い払うまで」
聖女は口元へ笑みを湛えるが、目は少しも笑っていない。静かな威圧感すら漂う。
「我は既に過去の存在、ということか」
「そうとも限りません。実体は失われましたが、力までもが失われたわけではありません。神竜と共にこの者へ寄り添い、共に戦う道はあります」
「がっはっはっ!」
胸の内へ広がっていた困惑。それを吹き飛ばそうとするように、豪快な笑いが漏れた。
「くだらん。何を言うかと思えば、人間へ力を貸すだと。ふざけるな!」
すると、ラグが大きな声で吠え立てた。
「神竜はご立腹ですよ。曲がり形にも全てを託した存在。信ずる価値はあると見受けますが。あなたも、このまま消えてしまうよりは良いでしょうに」
ラグを前に、心へ灯った怒りの炎は急速に萎んでいた。戸惑い、不安、混乱という感情が渦を巻いて荒れ狂う。だが、そんな負の感情も、諦めと覚悟という力へ形を変えていた。
「ふむ。我ら竜が魔獣に劣るなど以ての外。いいか。我は神竜へ御力添えするのだ。断じて人間のためではない!」
直後、胸の辺りから紅蓮の火球が飛び出した。体は自由を取り戻し、目の前に浮かんだ火球は、ラグの体内へと消えた。
「どうなってるんだ?」
魔力結界から腕を引き抜き、両手を眺めて開閉を繰り返す。ようやく自由になったが、まるで全てが夢でも見ているようで。
「炎竜王は、神竜の力と同化されたのです」
「神竜……ラグのことなんですか?」
聖女の様子を伺っていると、俺の左肩へ着地してきた相棒が一声鳴いた。
「うふふふ。ラグですか……可愛らしい名を授けて頂きありがとうございます。代わって御礼を申し上げます」
「あの……あなたは水竜女王と呼ばれていましたよね。聞きたいことがたくさんあります。何から聞いていいのか分からないほど」
聖女は全てを見透かしたように、ひとつ頷く。
「あなたの混乱は手に取るように伝わってきます。神竜の状態から察するに、全てを伝えることは叶わなかったのでしょう」
「そうなんです! 突然に現れて、一方的に力を渡されて! もう、何がなんだか……」
まくしたてた直後、聖女は右手を持ち上げ、会話を遮る仕草を見せた。
「詳しい話は後ほど改めて。この娘の力も不安定な状態です。まずは必要な措置を」
祈るように両手を組み、瞳を閉じて詠唱を始めている。竜術を使うつもりだ。
「水竜癒命!」
聖女の体が青白い光に包まれた。それは水面へ広がる波紋のように、周囲へ拡散した。
「傷が……」
光が通り過ぎた直後、湯船に浸かったような温もりと心地よさが全身を包んだ。そして、切り傷やかすり傷だけでなく、Gに刺された腹部の傷までもが瞬く間に塞がった。
癒やしの術。それも、かなり高度な治癒魔法だ。光が拡散したということは、この場にいる全員の傷を癒やしたのだろう。だが、この場の全員ということは。
「ご安心なさい」
Gの姿を探して振り返ると、聖女の声が。
「あの者の命も無事です。傷は塞ぎましたが、両目、両手足の傷はそのままにしてあります。逃げることも抵抗することも不可能です」
「何から何まで、ありがとうございます」
彼女へ深々と頭を下げた。
Gから引き出すべき情報はまだまだ多い上、俺の潔白証明には欠かせない人物だ。
「仲間たちも直に意識を取り戻すでしょう。私がこうして出て来たのも、あなたが一人で居たからに他なりません。私と言葉を交わしたければ、明朝、再びこの場を訪れなさい」
「は? 待ってください! 聞きたいことがたくさんあるんだ」
慌てて駆け寄ると、聖女の体が力を失ったように倒れ込んできた。それを正面から抱き留めながらも、支えきれずに地面へ倒れた。
「いててて……ったく、どうなってんだ。何が何だか分からねぇ……」
「ちょっと。なに? なんなの!?」
突然に意識を取り戻したマリーから、思い切り突き飛ばされた。
「私が気を失っている間に、何かしようとしたわけ? 最低! ほんっとうに最低!」
「違うって! おまえが倒れそうになったから、抱き留めた拍子に転んだだけだ!」
「嘘よ。嘘! あなたの言葉なんて、何ひとつ信じるに値しないんだから!」
慌てて立ち上がり、距離を取るマリー。
寺院で会った時は気の小さい女性なのだとばかり思っていたが、随分と印象が違う。
「マリー。どうかしたのかね?」
奥の薄闇から聞こえたのはジョフロワの声だった。次々と目を覚まし始めたらしい。
「大司教様! 何でもありません。お怪我はございませんか? どこか痛む所があれば、すぐに癒やして差し上げますから」
急に声の調子が下がり、落ち着き払った淑女のような物腰へ変貌した。
「別人だな……」
つぶやきはしっかり拾われていたらしい。マリーは俺の腕を叩くと、大司教の側へ駆け出していった。
もう一度、水竜女王に会う。目を覚ました仲間たちへ夜の移動は危険だと提案し、ジュネイソンの廃墟で一夜を明かすことにした。