16 奪い返したもの、零れ落ちる理性
「待ってくれ。わかったから!」
奥へ引っ込んだジャコブさんが、革袋と首飾りを抱えて戻ってきた。
息は荒く、顔色も悪い。必死なのが一目でわかる。
「宝石には手を付けていない。これで許してくれ、頼む!」
「で、部屋が直り次第、何事もなかったように営業再開か。随分と都合のいい話だな」
「これ以上、何が目的だっていうんだ」
吐き捨てるような声を聞きながら、胸の奥が妙に冷えた。
今日ここまで戦ってきたのは、この街を守るためでもあったはずだ。なのに、その内側にこんな連中が潜んでいる。
「あんたたちの、微塵も反省しない態度が気に入らねぇんだよ」
感情を抑えたまま、淡々と告げる。
「衛兵に突き出せば、人生終わりだぜ」
沈黙が落ちた。やがて、ジャコブさんが力なく口を開く。
「わかった……店を畳んで街を出る」
「ふざけるな。見張りは付けてある。逃げられると思うなよ」
「見張りだって?」
問い返す声に、頭の中で思考を巡らせる。
逃がさず、潰し、使う。
今の状況で最も効率がいい形を組み立てる。
「衛兵に引き渡すのは勘弁してやる。その代わり……」
わざと間を置いた。
「この宿の二階、十部屋。全部明け渡せ。今日から俺が使う」
「そんな……」
「牢獄行きと平穏な生活、どっちがいい? 馬鹿でもわかるだろ」
そのまま、バルバラさんに視線を向ける。
「それに奥さん、セリーヌから宝石をひとつ貰ってただろ。あれがあれば、当面は困らねぇはずだ」
「わかりました……従います」
「ちょっと、あなた!」
声を荒げるバルバラさんに、冷たい視線を向ける。
「文句があるのか? 宝石を取り上げてもいいんだぜ」
その一言で、完全に黙り込んだ。短剣を収め、革袋と首飾りを受け取る。
「俺を始末しようとか、街から逃げようとか、余計な考えは捨てろ。俺に何かあれば、同じ書類を持った仲間が衛兵のところに駆け込む算段になってる」
はったりだが、効果は十分だった。
「改装は急げ。明日には引っ越す」
背を向け、宿を出る。
拠点を得られたのは大きい。勢い任せとはいえ、結果としては悪くない。
それでも、腹の底には妙な重さが残っている。
引き返せない線を、またひとつ越えた気がした。
外に出ると、セリーヌは屋台のカウンターで店主と談笑していた。木製カップを片手に、やけに機嫌がいい。
嫌な予感しかしない。
「遅かったですねぇ〜」
「セリーヌ……大丈夫か?」
引き寄せると、カップの中で赤黒い液体が揺れた。
「おい。これ、酒だろ」
果実酒の甘い香り。それも、かなり強い。
「どれだけ飲んだんだ」
「なんだ、リュシアンの連れか」
「マチアスさん!?」
移動屋台の店主は顔見知りだった。
「悪いことをしたな……美味い酒が欲しいって言うから、女性に人気の果実酒を出したら止まらなくてな」
「えへへ〜。この若鶏のモモ肉も美味しいですよ〜。はい、あ〜ん……」
無理やり押し込まれた串焼きは、悔しいほど美味かった。
香ばしい皮の食感と、肉汁の甘みが口いっぱいに広がる。
「確かに美味いけど、そうじゃなくてさ……」
勝利の余韻は、完全に吹き飛んだ。
「リュシアンの彼女だったのか……とびきりの美人だし、その服装だ。てっきり歓楽街で働く女性かと思ってたよ。こうして見ると、お似合いだな」
「それは聞き捨てなりません」
頬を赤くしたセリーヌが、びしっと指を突き付ける。
「私は彼女ではありませんし、清廉潔白な生娘です」
「自分で生娘とか言うな……」
「にしたって勿体ない。その顔と体付きで男を知らないなんてさ。人生、損してるよ?」
マチアスさんの視線が胸元に吸い寄せられる。
「また胸を見て……なぜこの街の男性は、いやらしい方ばかりなのですか」
「俺を巻き込むな」
言い返すと、マチアスさんが楽しそうに笑った。
「それが自分にないものだからさ。胸と母性……男の心を惹き付けてやまない宝は、新たな探究へと駆り立てるのさ……」
遠い目で語るその姿は、無駄に格好いい。
「そうだ。そういうことだ! だから俺が胸に惹かれるのも自然なんだ!」
思わず力説すると、セリーヌが不思議そうに首を傾げた。
「つまり男性は、女性の胸が好きなのですか?」
『間違いない!』
声が綺麗に重なった。
※ ※ ※
「歩けるか?」
支払いを済ませ、牡鹿亭に向かう。
だが、セリーヌは相当酔っていた。飲みかけのカップを片手に、足取りは完全にふらついている。
結局、通りのベンチに座らせて、休憩を取ることにした。
「きゃっ」
腰を下ろした拍子に、酒がこぼれる。
「冷たい……」
「は?」
「濡れたんです……ここが……」
「ぶっ」
法衣の胸元を引っ張り、下着ごと露わになりかける。
「おい、ちょっと待て」
慌てて両手を押さえ込む。
「服が張り付いて気持ち悪いです〜。脱がせてくださいよ〜」
無理だ。こんな場所で出来るわけがない。
「我慢しろ。着替えたいなら、牡鹿亭まで歩いてくれ」
「もう歩けないです〜」
「ったく、なんなんだよ……」
どうして、こんな目に遭うんだ。
泥酔美女なんて、本気で勘弁してほしい。
※ ※ ※
「リュシアン、どうしたんだい!?」
牡鹿亭の裏口へ辿り着くと、イザベルさんが目を丸くした。
「話は後だね。早く上に運びな。どうせあんたは、みんなと飲むんだろ。今夜はベッドを貸しておやり」
「突然連れてきて、すみません……」
部屋へ戻り、セリーヌをベッドに寝かせる。
初めて女性を入れた空間に、妙な緊張を覚えた。
「せめて、上着だけでも……」
純白の長衣を脱がせて、椅子に掛ける。
「びしょ濡れで、気持ち悪いです〜」
突然起き上がり、法衣を脱ぎ捨てて、そのまま倒れ込んだ。
下着姿を晒しているが、本当に見事としか言いようのない体付きだ。
「だめだ。冷静になれ……」
ここに長居するのは危険すぎる。
天使の揺り籠亭から回収した鞄には、彼女の軽装も入っていた。綺麗に折り畳まれた服を枕元へ置いておく。
「右腕の治療はお預けだな……」
最悪の流れだが、彼女が潰れてくれたおかげで、ある意味助かったとも言える。
このまま明日の夜までやり過ごせば、記憶は守れる。
「ずいぶん変貌するもんだな……」
寝顔をひと目だけ見て、掛け布団を整えて部屋を出た。
扉を閉めた瞬間、大きく息を吐く。
「今頃、下は悪魔の宴か……」
二階を抜け、階段を降りる。
「あれ? なんで?」
聞こえてきたのは、賑やかな笑い声だった。
そこにいたのは、シルヴィさんとレオンだけじゃない。
「あっ、リュー兄!」
飛び込んできたのはアンナだ。
「なんで、おまえとエドモンまで?」
エドモンはカウンター席で料理を頬張りながら、寡黙なクレマンさんに愚痴をこぼしている。
北方出身者特有の金髪と色白の肌。普段から室内で魔導書ばかり読んでいるせいか、肌の白さは病的なほどだ。
「痩せろ。真理の探究者って二つ名が泣いてるぞ……」
以前より、明らかに丸くなっている。





