04 帰る場所と、踏み出す理由
住み込みで働かせてもらっている大衆食堂、勇ましき牡鹿亭。二階の端にある小さな部屋が、今の俺の拠点だ。
ベッドと机、それから最低限の荷物しかない。それでも、雨風をしのげて眠れる場所があるだけで、今の俺には充分だった。
夕刻前の店内は少しずつ慌ただしくなっているが、依頼が入れば冒険者活動を優先していいというのが、女将さんとの約束だ。文句を言われたことは一度もない。
返り血で汚れた服を脱ぎ、冒険用の厚手服に着替える。深緑の布地に袖を通すと、自然と気持ちが切り替わった。
ベッドに腰を下ろし、枕元に立てかけてある一本の長剣に目を向ける。
何年も使い込んだ、俺の愛剣だ。
「がうっ」
すると、左肩へ手のひらほどの小さな竜が飛び乗ってきた。
「ラグ。おまえ、どこにいたんだよ」
気まぐれな相棒は、機嫌良さそうに鳴くだけだ。古びた長剣へ顔を向け、短く吠える。
「全部、この剣から始まったんだよな……」
剣へ伸ばした右手。その甲には、あの日から消えない黒ずんだ痣が刻まれている。
あれを境に、俺の人生は大きく変わった。
「この力の謎も……いつか解けるのか?」
古びた長剣。消えた宝玉。そして、右手に刻まれた竜の痣。
「答えを知っているかもしれないのは……行方不明の兄貴だ」
冒険者だった兄は、荷物だけを残して姿を消した。その痕跡を追って、俺はこの街へやって来た。
「絶対に見つける。とはいえ、もうすぐ約束の一年か」
約束を交わした人物が、ふと頭に浮かぶ。
多大な恩がある上に、逃げ切る自信もない。
「再会までには、兄貴を見付けないと……」
不意に、仲間たちの顔まで浮かんできた。
一年離れただけなのに、妙に恋しい。
「って、浸ってる場合じゃねぇな」
意識を現実へ引き戻し、長剣を腰に提げる。革袋を括り付け、最後に黒いバンダナを右の二の腕へ巻いた。
「これで、腕輪は隠せるだろ」
ナルシスに知られると、面倒なことになる。
「がうっ」
「わかってる。ちゃんと連れて行くって」
満足そうに鳴きながら、ラグは左肩に戻ってくる。
俺以外には、姿が見えない。触れることも、声を聞くこともできない小型竜。それでも俺にとっては、世界で最も大切な相棒だ。
「よし。出発だ」
部屋を出ると、廊下の角からやって来た人影とぶつかりそうになった。
「おっと。びっくりしたじゃないか」
「イザベルさん。すみません」
肩までの黒髪に、ふくよかな体格。牡鹿亭の女将、イザベルさんだ。
面倒見がよく、大らかな人柄で、店でも評判がいい。金も行き場もなかった俺を拾い、住む場所と仕事をくれた恩人でもある。
「やっぱり行くんだね。あのエリクって子の頼み、放っておけないよねぇ」
「あの涙を見せられたら、さすがにね」
すべてお見通しだと言わんばかりに、イザベルさんが豪快に笑う。
「それでこそ、あたしの息子だ。ちゃちゃっと片付けてきな」
「ぐはっ」
背中を叩かれ、思わず前のめりになる。
イザベルさんと、店主のクレマンさん。
子どものいないふたりは、俺を実の息子みたいに扱ってくれる。
家を飛び出した俺にとって、ここはもう帰る場所になっていた。
「行ってきます」
「土産話、楽しみにしてるよ」
裏口から街へ出た。
街を覆う半透明の防御壁が夕陽を通し、石畳まで赤く染めている。
「腹も減ってきたな」
「がう、がうっ」
ラグが元気よく同意する。
食べられないくせに、こういう時だけ反応がいい。
街は活気に満ち、夕飯の支度に追われる人々が行き交っていた。
人垣を抜け、中央広場へ向かう。噴水を囲むように、各地へ向かう乗り合い馬車の停留所が並んでいる。
「いたな」
ランクール行きのベンチに、セリーヌが座っていた。
彼女を見つけるなり、ラグが興奮したように鳴き始める。
「先程はありがとうございました」
俺に気付いたセリーヌが立ち上がり、丁寧に頭を下げてきた。
穏やかな雰囲気だ。戦闘時に見せた鋭い表情との落差に、少しだけ戸惑う。
「そんなに畏まらなくていい。座っててくれ」
隣へ腰掛けながら、荷物に目を向けた。
「荷物、それだけか?」
昼と同じ服装に、杖が一本。俺より軽装だ。
「宿へ置いてまいりました。着替えも、お風呂も、一晩くらいなら我慢できます」
「いや、そういう話じゃなくてさ」
思わず頭を抱える。
「傷薬とか、野営道具とか、魔獣避けとか。最低限いるだろ」
「なるほど……依頼へ向かうとなると、そのような物まで持ち歩くのですね」
本当に知らなかったらしい。
「何しに行くつもりなんだよ」
「すみません……」
しょんぼりと項垂れる。
そのたびに深い胸の谷間が視界へ入り込み、どうにも目のやり場に困る。
昔、仲間にムッツリスケベ扱いされた記憶が蘇った。
するとセリーヌは、革袋から茶色い塊を取り出し、口へ運んだ。
「それ、何を食べてるんだ?」
「故郷のおやつです。よろしければどうぞ」
親指ほどの茶色い固まりだ。
セリーヌが美味しそうに頬張っているので、少し興味が湧く。
ラグまで身を乗り出してきた。
恐る恐る齧ると、軽い歯触りと甘辛い風味が口の中へ広がった。
「意外と美味いな。これ、なんていうおやつなんだ?」
「甘辛ボンゴ虫です」
「ぶっ!」
思い切り吹き出した。
「きゃあぁっ!?」
食べかすが飛び散り、セリーヌが慌てる。
「悪い」
「顔に吹きかけるだなんて、あんまりです」
頬を膨らませながら、服や髪についた食べかすを払っている。
「せめて、吹き出す前に教えてください」
「本当に悪い。虫だなんて聞いてなかったからな……ボンゴ虫って、森の中で木の根元にいる芋虫だろ?」
「油で揚げて味付けした定番のおやつです。村では人気なのですよ。母も、よく作ってくれました」
美人で、世間知らずで、金持ちっぽくて、虫を食べる。
頭の中で、人物像がどんどん迷子になっていく。
「お風呂に入りたいです……」
「悪かったって。これ、使ってくれ」
手拭きを差し出すが、セリーヌは首を振った。そのまま道端へ移動する。
両手を合わせると、その間から澄んだ水が湧き出した。その水で顔を洗い、風魔法で髪を乾かしていく。
「魔法か。便利だよな……」
思わず感心してしまう。
「魔導師って、冒険者の間じゃ取り合いになるくらいなんだぜ」
独り言のように呟いていると、馬の蹄の音が近づいてきた。
「やあ、ご両人」
不快な声が割り込み、白馬に乗っていたナルシスが颯爽と下馬する。
「姫、探したよ。突然いなくなってしまったから心配していたんだ」
相変わらず鬱陶しい。
いなくなったんじゃない。まかれただけだろう。
「こいつが、僕の愛馬。びゅんびゅん丸さ」
「名付けの感覚……最悪だな」
「え? 可愛い名前だと思いますが」
意外にも、セリーヌには好評だった。
柔らかな笑みを浮かべる彼女へ、白馬が甘えるように擦り寄る。
「優しい目をした、良い子ですね」
馬も嬉しそうに鼻を鳴らした。
動物に好かれる人に悪人はいない。そんな言葉を思い出した。
もっとも、ナルシスは対象外だ。
「びゅんびゅん丸も、姫を気に入ったみたいだ。こいつに乗って、ランクールまで走り抜けないか?」
おまえだけ、地平の彼方へ消えてくれ。
念が通じたのか、セリーヌが口を開く。
「申し訳ありません。今回は馬車で向かうことにします」
彼女は丁寧に言葉を選びながら続ける。
「初めて訪れる地ですし、風景や、他の方との会話も楽しみたいのです」
「そうですか。とても残念だよ……」
うなだれるナルシスと目が合い、勝ち誇った笑みを向けてやる。
やがて馬車が到着し、俺たちは他の利用客と共に乗り込んだ。





