05 夜明けの誓い
浜辺では、出立の準備が整いつつあった。
潮の香りを含んだ風が、夜明け前の空気をゆっくりとかき混ぜる。
島はまだ眠っているようで、聞こえるのは波と、竜の羽音だけだった。
セリーヌは数人の島民と短く言葉を交わしている。
何気なく、その輪へ近づいた。
「ラモナ島の見取り図は?」
「こちらに」
「危険な役目、ありがとうございました」
「いえ。セリーヌ様のためなら」
島民は、どこか誇らしげに笑った。
丸められた羊皮紙を受け取ったセリーヌは、軽く微笑みを返し、それを大切そうに抱える。
「見取り図? そんなものを頼んでたのか」
立ち去る島民の背を見送り、問いかける。
「以前に伺っていたではありませんか。訓練期間中に、アンナさんが下見に行ってくださったと。ただ、全容の把握には至らなかった、とのことでしたので」
「ああ。確かに話したな」
本当は、言われてようやく思い出した。
それが顔に出ていたのだろう。
「本当に、思い出されましたか?」
疑わしげな視線に焦る。
責めるというより、拗ねている。
怒った顔もかわいい。
こんな時に、余計なことを考えてしまう。
「飛竜を使い、空から制作して頂きました。上陸作戦の一助になればと」
「ありがとう。助かるよ」
短く返すと、セリーヌは満足したように頷く。
やがて、ユリスと老剣士コームさん、そして長のディカさんが姿を見せた。
「そういえば……」
ディカさんが思い出したように口を開く。
「ここ数日、アダンの姿を見ていないのだ」
一瞬、空気が張り詰める。
潮騒だけが、やけに大きく響いた。
「ユリス同様、儂の片腕として働いてくれていた男だからな。いなければ困る……自宅は綺麗に片付けられ、島の存続に必要なものはすべて残されていたという話だが……」
その言葉に、わずかに反応したのはユリスだった。
「以前から、島を出たいと申していました」
早口で言葉を重ねる。
「誰にも告げず、旅立ったのでしょう」
嘘だな。
そう思ったが、口には出さなかった。
セリーヌとコームさんも何も言わない。ユリスだけが事情を知っているのだろう。
混乱を避けるために必要な嘘もある。
「それはそうと、リュシアンさん」
ユリスが話題を切り替える。
「ガルディア様から言伝です。訓練も途中のままですから、竜の力を操る制御訓練を怠らぬように、と」
「耳に痛いな。ありがたくねぇ言伝だ」
「でしょうね」
硬かった表情が、わずかに緩む。
「ですが、姉さんを守っていただくためにも、さらに強くなってもらわないと」
「わかってる。任せろ」
「それと……姉さんにも思念を送っていたという話だけど。声が届かなかったようだ、と」
「え……それは……その……」
セリーヌは、はっとして俯いた。
耳まで赤くなり、両手の指先を落ち着きなく絡めている。
「申し訳ありませんでした。ガルディア様にもくれぐれもよろしくお伝えください。戦いから戻った後、改めて謝罪に伺います」
胸の奥が、わずかに痛む。
俺と一緒にいた時間に、思念が届いていたのかもしれない。
「ふたりには、もうひとつ」
ユリスの表情が引き締まる。
「必ず無事に戻ってください」
「ああ。心配してくれてありがとう」
「あなたのためというより、姉さんのためですから」
「相変わらず、可愛くねぇな」
軽く言うと、ユリスは小さく肩をすくめた。
「姉さんを……お願いします」
「任せろ。男同士の約束だ」
握手を交わすと、コームさんが一歩前に出る。
「リュシアン殿」
低く、落ち着いた声だ。
「少し、いいか」
浜辺から離れ、岩陰へ移る。
ここでは風の音だけが強い。
「行く前に、ひとつ……丘でのことだ」
一瞬、胸が詰まる。
だが、目は逸らさない。
「私は、誓えなかった側の人間だ」
ぽつりと落とすような声音だった。
「守ると言えず、背中を預けるとも言えず……結果として、役目も友も失った」
「それでも、ユリスを支えるという新たな役目があります」
答えは返ってこない。
だが、墓前で見せた“急に老いたような横顔”と、今の声が重なった。
「だからな」
コームさんは、まっすぐこちらを見据えてきた。
「御主の言葉は軽くなかった。若さの勢いでも、英雄気取りでもない」
一拍置いて、短く続ける。
「継いだ覚悟だ」
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
「証人が必要なら、私は喜んで引き受けよう」
海鳥の羽音が、頭上を過ぎる。
「その代わり……」
少しだけ、口の端が上がった。
「折れるな。誓いは、守り切ってこそ意味を持つ」
「はい」
短く答えると、コームさんはそれ以上何も言わなかった。
しかし、背を向ける直前。
「リュシアン殿」
不意に名を呼ばれた。
「御主が戻る場所は、もう増えている。それを忘れるな」
忠告であり、餞だった。
『いつでも飛べますよ』
風竜王テオファヌの思念が届く。
すでに準備万端という様子だ。
「毎度すみません。竜王を足代わりにしているようで……これでも、申し訳ないと思っているんですよ」
『構わない。僕も飛ぶことは好きだからね。この島でじっとしているより都合が良い』
「そう言ってもらえると、多少は気が楽です」
それでも、後ろめたさは消えない。
島を離れる直前、振り返る。
ここは帰る場所だ。でも、留まる場所じゃない。
六凶星とフェリクス。すべては、この先にある。
「リュシアンさん、これを……」
セリーヌが魔導通話石を差し出してきた。
マルティサン島の結界すら通り抜ける特別製だ。
「結局、俺たちの所に戻ってきたな」
「そうですね。必要な道具であると同時に、長からの信頼の証でもあるのでしょう」
「そうだな」
「そして……わたくしたちを繋ぐ、絆でもあります」
通話石を受け取り、握りしめる。
「絆っていうか……もう、愛で結ばれてるけどな」
半ば冗談めかして言ってみた。
「ええ。愛の絆です」
意外にも真っ直ぐに返され、俺の方が恥ずかしくなってしまう。
見つめ合い、わずかに空気が熱を帯びる。
やがて、出立の刻が訪れた。
島民は、見送りに来ない。
「それでいい……」
誰にともなく呟く。
テオファヌが翼を広げる。
島が、ゆっくりと遠ざかる。
セリーヌは一度だけ振り返った。
手は振らない。声もかけない。
この島は、もう次の世代へ渡された。
風の結界に包まれた背に腰を下ろす。
セリーヌが、自然と左隣に座った。
「リュシアンさんの左側は、わたくしの指定席ですから」
「そうだな」
この距離は、選び取った未来だ。
マルティサン島は、俺たちを送り出す。
このまま王都に戻れば、いよいよ決戦の時が迫ってくる。
だが、迷いはない。





