07 届かない手
「だめだ。我慢できねぇ!」
その叫びは、理性が焼き切れる音だった。
賊のひとりが、セリーヌを目掛けて駆け出す。
目に宿るのは欲望だけ。考えることを放棄した獣の目だ。
「おまえ、ずるいぞ」
それを合図に、さらにふたりが飛び出した。
薄皮一枚で保たれていた秩序が、一瞬で崩壊する。
「きゃあぁっ!」
三人が辿り着くより早く、横合いから巨大な塊が伸びた。
ベルヴィッチアの本体から伸びた捕食器官がセリーヌの身体を掴み上げ、そのまま宙へ攫う。
助かった、とは思えなかった。別の地獄へ運ばれただけだと、すぐに理解した。
「彼女を汚すことは許さない。約束を忘れたか?」
仮面の男の声には、苛立ちが混じっていた。
獣の群れが、たちまち理性を取り戻す。
「遊びは終了。今晩、街で楽しめ」
野獣どもが一斉に落胆の息を漏らした。先走った三人は仲間から怒鳴られ、渋々と引き下がる。
「ドミニク君、ここまでだ」
「へい。異論はありやせん」
仮面の男は薄く笑い、こちらへ視線を向けてきた。
「これは、君が選択を誤った結果だ」
その言葉の意味を理解した瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜ける。
次に何が起きるのか。考えたくないのに、理解してしまった。
必死に頭を振り、口を縛っていた布を歯で引き裂いた。唾液に混じって血の味が広がる。
「セリーヌは約束を守った。てめぇも守れ」
「先ほどの交渉はドミニク君だ。私は無関係」
冷え切った声に、絶望感だけが積み上がる。
「リュシアンさん、逃げてください」
遥か頭上から、セリーヌの声が降ってくる。
震えているはずなのに、不思議なほど真っ直ぐだった。
「セリーヌ!」
腕を伸ばしかけたところで、後ろ手に縛られていることを思い知らされた。
胸の奥に、黒い穴が開いていく。
怒りとも恐怖とも違う。何もできないという無力感だけが、重く沈んでいった。
「ふざけんな……やめろ」
声が震えた。
捕食器官は止まらない。セリーヌを包み込んだまま、ゆっくりと巨大な口へ運んでいく。
空中へ放り出された身体が、一瞬だけ宙に留まった。
時間が引き延ばされたように感じる中、真紅の口が大きく開く。
そして、閉じた。
「くそっ……」
喉が焼けるように痛んだ。
それでも、もう一度名前を呼ぶことはできなかった。
守れなかった。助けると誓ったはずなのに、何ひとつ届かなかった。
あの笑顔を、もう二度と見ることはできない。そう理解した途端、胸の奥が引き裂かれた。
仮面の男でも、ドミニクでもない。今、一番許せないのは自分自身だった。
もっと力があれば。ほんの少しでも強ければ。
拳を握り締める。掌に爪が食い込んでも、痛みすら感じなかった。
「心配無用。後を追い、ベルヴィッチアの血肉となって私に尽くせ」
下卑た笑い声が洞窟へ響き渡る。
殴りつけてやりたい。斬り伏せてやりたい。
それなのに、身体は動かない。
怒りさえ、今は何の役にも立たなかった。
魔獣も、仮面の男も異常だ。それでも今は、それを理解する余裕もない。
視線を彷徨わせた先で、仮面の男の隣に立つドミニクと目が合った。
「あんたたちの目的は金か? 報酬さえ貰えれば、こんな危険な奴を野放しにするのか?」
「愚問だねぇ……金がすべてさ。大金を落としてくれる相手が、どこで何をしようと関係ないんだわ」
ドミニクが曲刀を振り上げる。
「今は、あんたたちの方が危ないねぇ」
刃が闇を裂いた。呻き声と共に、何かが倒れる。
さすがにドミニクには通用しなかった。抜け目のない奴だ。
「お頭、どうしたんです?」
手下たちの間に困惑が走る。
ドミニクは舌打ちし、苛立ちを隠そうともしない。
「見張れって言ったよねぇ。後でお仕置きだわ」
賊のひとりが怯えた顔で、洞窟の奥に目をやった。
「おい、おまえら。甘えん坊剣士が逃げようとしてたぞ。どこ見てんだ」
セリーヌに意識が向いた隙を突き、ナルシスを武器の入った籠に走らせたが、失敗に終わった。
「武器を取り返そうとしたの? 浅はかだよねぇ」
捕食器官が、今度はナルシスに迫る。
すると、ドミニクが捕食器官を追い越し、ナルシスに刺さった曲刀を引き抜いた。
「そいつまで手に掛けるつもりか?」
「部下を五人も殺された恨みがあるんだわ。わかってくれるよねぇ?」
曲刀がナルシスの右太腿へ突き立った。
「ぐっ……」
苦悶の声を上げるナルシス。引き抜かれた刃から、血が滴り落ちる。
「本当なら八つ裂きにしたいけどねぇ……魔獣のエサにしろって、導師様の命令なんだわ」
巨大な捕食器官が、じりじりと近付いていく。
痺れはかなり薄れてきているが、動くのは今じゃない。下手に動けば、間違いなく全滅だ。
「ラグ、出てきやがれ!」
喉が裂けそうなほど叫んだ。
返事はない。最後の希望すら沈黙した。
「どうしたの、碧色の閃光様? ついに気が触れちゃったのかい?」
ドミニクは笑みを崩さないが、その目だけは、鋭く俺を観察していた。
「怖いねぇ……警戒しろ。まだ奥の手がありそうだわ。洞窟の外と広間を見張れ。それから、あの女の服も籠に入れとけ」
八人の手下が二手に分かれ、広間には四人が残った。
ドミニクは呻くナルシスを見下ろし、血塗れの刃で上着を裂いた。左肩の傷口が露わになる。
「とどめを刺せないのが残念だわ。贄は鮮度が命らしいからねぇ」
血止めの湿布を剥がし、傷口へ親指を押し込む。
「がぁぁぁっ」
耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴が響く。
「ナルシス」
思わず身体が前へ出た瞬間、背後から手下に蹴り倒された。
床へ叩きつけられ、肺から息が抜ける。立ち上がろうとしたが、背中を踏みつけられた。
「五人だ。おまえは俺の家族を五人殺した。五回殺してやりたい気分だわ」
ドミニクが傷口から指を抜いた。顔から笑みが消え、怒りを押し殺した目でナルシスを見ている。
「さっさと食われちまいな」
捕食器官が、再びナルシスに迫る。ここが決断の時だ。
俺だけなら逃げられるが、ナルシスを連れては無理だ。
見捨てるのか。それとも、ここで終わるのか。
セリーヌの姿が脳裏に浮かんだ。
彼女は俺たちを生かそうとした。そして今、ナルシスの命が奪われようとしている。
ふたりで無駄死にするわけにはいかない。答えは、最初から決まっていた。
生き延びて知らせる。そして、この地獄を終わらせる。
「ナルシス……すまない……」
捕食器官が彼の上半身を包み込み、巨大な口へ運んでいく。
「リュシアン・バティスト……」
不意にナルシスの声が聞こえ、咄嗟に顔を上げた。
捕食器官に包まれたまま、それでもナルシスは俺を見ていた。
何かを言おうとしている。
だが、その声を聞き取る前に、巨大な口が閉じた。
「ナルシス……」
セリーヌと同じ運命を見せられ、瞼の裏に、ふたりの顔が浮かんだ。
もう二度と会えない。
そう思った瞬間、足元から力が抜けそうになった。
「ドミニク……正々堂々、勝負しろ」
「ふはっ。賊を相手に正々堂々? 笑わせるねぇ」
手下どもから失笑が漏れる。
「さて、最後はあんただ。言い残すことはあるかい?」
鼻歌交じりに曲刀を振り回し、ドミニクが近付いてくる。
上機嫌のドミニクは、俺の背中を踏んでいた賊に、下がるよう命じた。
襟を掴まれたまま引き起こされ、膝立ちの姿勢でドミニクを睨む。
「てめぇだけは、許さねぇ」
身体が震え、怒りで視界が滲む。それでも、さっきまでとは違った。
もう、ただの怒りだけじゃない。この男を倒すために、生き残ってみせる。
「おぉ、怖い。勇ましいのは結構だけどねぇ。恨む相手が違うんじゃないの? とどめを刺したのは俺じゃないんだけどねぇ」
「誤魔化すな。追い詰めたのは、てめぇだ」
「何とでも言いなよ。どうせ終わりだ。今夜の宴が楽しみだよねぇ」
肩を揺らし、天井を仰ぐ。
「そうそう。手下がヴァルネットの冒険者ギルドで、あんたの情報を調べた時さぁ。可愛い娘を見つけたって言ってねぇ……シャルロット、とか言ったか?」
「は?」
心臓が大きく跳ねた。
その名前だけは、聞き流せなかった。
「あんたのこと、嬉しそうに色々教えてくれたらしいよぉ。手下がすっかり気に入っちまってねぇ。攫ってこようかと思ってるんだわ」
「街の人に手を出すな」
怒りに身体中を支配され、声が低くなる。
「女がひとり減ったところで、大した騒ぎにならんでしょ。たっぷり可愛がってやるから安心しなって。奴らもだいぶ溜まっちゃってるんだわ……」
全身が熱くなり、理性が吹き飛びそうになった。
こいつらを外へ出せば、次に犠牲になるのは街の人たちだ。
「あんた、食堂で働いてるらしいねぇ。冒険者ってのも大変だ……店の名前、何だっけ? 思い出せないなぁ……」
「勇ましき牡鹿亭です」
手下の声に、ドミニクは舌打ちする。
「興を削ぐんじゃねぇ」
情報は筒抜けだ。このままでは終わる。何もかも、奪われる。
「あ~ぁ。完全にシラけちまったわ……碧色の閃光様、そろそろお別れの時間だ。今夜の宴は、勇ましき牡鹿亭を貸し切り。シャルロットに酌をさせて、酒池肉林の大騒ぎだ」
ドミニクが大きく伸びをして、背を向けた。
今だ。狙うなら、この瞬間しかない。
痺れの消えた指を、きつく握り締めた。





