01 先の見えない闇
思い詰めたように浮かない顔のセリーヌ。その姿が、闇へ溶けるように遠ざかってゆく。
「待て。待ってくれ!」
必死に伸ばす右手。しかし、あいつに届くことはない。先の見えない闇へ突き出されたこの手は、果たして何を掴むのだろう。
「セリーヌ!」
勢いよく飛び起きると、なぜかそこは見覚えのない場所だった。
今まで横になっていたであろうベッドと、側には小さなテーブル。そして洗面台があるだけの簡素な個室。決して粗末というわけじゃない。白を基調にまとめられた小部屋は手入れが行き届き、清潔感が漂っている。
「がうっ!」
目を覚ました俺を迎えるように、ラグが左肩へ飛び乗ってきた。
呆然としていると、部屋の片隅には驚きに目を見開く女性の姿があった。
さほど年も変わらないだろう。美人というより可愛いという言葉が似合う、愛嬌のある顔立ちだ。身につけているのは純白の法衣。それなりに主張した胸元には寺院の刻印が刺繍されている。恐らく助祭か。
「ここは?」
「寺院ですわ……気が付かれて安心しました。運び込まれたこと……覚えていますか?」
「いえ。まったく」
記憶を辿るが曖昧だ。天使の揺り籠亭が襲撃され、セリーヌが攫われたことまでは覚えている。その後、ナルシスを寺院へ運んで。
「あれ? ひょっとして、俺も?」
助祭はエクボを浮かべて優しく微笑む。
「怪我をした冒険者を運び込んだ直後に……寺院の入口で気を失ってしまったそうです。ご立派なことをされた後に……大変でしたわね」
なんだか、彼女の優しさが胸に染み渡る。これが天使だ。わかるか、セリーヌ。
「って、そうだった。こんな所で寝てる場合じゃねぇ! 今、何時だ?」
テーブルに置かれた時計へ目を移す。
「もう昼か!? すぐに行かねぇと」
「大丈夫ですか? 眠っている間も……随分とうなされていましたわ……」
確かに、セリーヌの姿を夢で見るくらいだ。一刻も早く助けに行きたい。
「お持ち帰りしたい……とか、なんとか……」
「またそれかよ!?」
どれだけ欲求不満なんだ。
「あの……そんなに枕を殴り付けるほど……どこか痛みますか? 司祭様をお呼びしますわ……すぐに手当てをしないと……」
「いえ、大丈夫です。すごく繊細で、個人的な問題ですから」
思わず取り乱してしまった。
心を静め、洗顔を済ませて出口へ向かう。
「そうだった! お名前を伺っても?」
「私は……ブリジットです」
「俺はリュシアン=バティストです。一晩ですが、お世話になりました」
この名は絶対に忘れない。もしもまた厄介になる時は、必ず彼女を指名しよう。
受付で退院の手続きを済ませ、陽光きらめく外界へ飛び出した。そのまぶしさに耐えかね、思わず目を細めてしまう。
「セリーヌ……」
いつの間にか自分の中で、あいつの存在が大きくなっていると思い知らされた。セリーヌが攫われたというだけで、こんなにも心を乱されるなんて。必ず助けてみせる。
それにしても街は相変わらずの活気に溢れ、いつもと変わらぬ様相を見せ付けている。彼等にとっては昨晩の事故など日常の一場面。よくある出来事の一つでしかないのだろう。
「まずは、手掛かりと足か」
加護の腕輪には追跡機能がある。ギルドでシャルロットの力を借りれば、セリーヌを探せるはずだ。そして移動。馬車では時間がかかりすぎる。馬を調達するのが得策だろう。
即座に天使の揺り籠亭が浮かんだ。宿では、旅人に貸し出すために必ず馬を飼っている。
そのまま急ぎ足でやってきた天使の揺り籠亭。宿の周囲は封鎖され、辺りには衛兵の姿が見受けられる。その中でも一際目立つ存在が、入口の前で仁王立ちしていた。
「熊さん。昨日の今日でご苦労様です」
「貴様か。何の用だ?」
丁度いいと思っていたが、シモンはいかにも面倒だという顔だ。
「一緒に戦った仲なのに、酷いですね」
「冒険者と馴れ合うつもりはない。昨日はたまたま利害が一致しただけだ」
ムスッとした無愛想な横顔を見ながら、昨晩に、ぽっちゃり女神のイザベルさんから聞いた情報を思い出した。
こいつは衛兵の仕事に誇りを持ち、その日暮らしで適当に暮らす冒険者という存在を蔑んでいる。しかし、それは表向きの理由だ。本当は冒険者に憧れていたが、厳格な家柄である父に猛反対され、泣く泣く諦めたとか。
「用がないのなら、どこかへ消えろ」
「用があるから来たんだ。熊さんも、この宿を調べたなら知ってるはずだ。セリーヌが、ここを襲撃した相手に攫われた」
「セリーヌ? 確か、襲撃された部屋に泊まっていた女性の名だな?」
おい。あんたの脳は正常か。
「あぁ、そういうことですか。あんたにわかるように言うなら、ドンブリ娘か」
「ドンブリっ!?」
なぜか赤面しながら後ずさる。
さては、熊殺しを思い出したな。
「今からあいつを助けに行くつもりです。でも足がない。馬が必要なんです。それに丸腰じゃ、戦うなんて無理だ」
「何が言いたい?」
察したのか、顔付きが途端に強張った。
「この宿にいる馬を借りに来た。それから、あなたが昨日、ナルシスから取り上げた細身剣を貸して欲しいんです」
すると、溜め息と共に首を横へ振るう。
「馬小屋はすべて惨殺。恐らく追跡を避けるためだろう。細身剣も兵舎の倉庫へ放り込んでしまった。どこにあるかは見当も付かん」
「そこを何とか。魔法剣が絶対に必要なんです。人の命が懸かってるんですよ」
熊男はあきらめたように深い溜め息をつき、俺を正面から見つめ返してきた。
「剣を貸すことはできんが、馬なら貸してやらんこともない。そこに私が乗ってきた馬が繋いである。好きに使え」
「馬のついでに、剣も」
「ダメだ。街の武器屋で工面しろ」
「並の武器屋で、魔法剣があるわけないじゃないですか。わかってるでしょ?」
魔力が込められた武具は非常に希少な存在だ。仮に売られていたとしても、通常の武具と比べたら一桁は売値に差が出るほどだ。
愛用の剣がないことが非常に悔やまれる。アレニエに対しての恨みが強くなってゆく。
「普通の剣で我慢すればいいだろう」
「それがダメだから頼んでるんです。今日、一日だけでいいですから」
「何が何でもダメだ。これ以上、騒ぎ立てるなら、馬も貸さん!」
これは見込みなしだ。馬を借りられただけでも良しとするしかない。
手綱持ち、馬を引き連れ通りを進む。
こうなれば、適当な武器を探すだけだ。こんな所で時間を無駄にはできない。それこそセリーヌは今頃、賊というケダモノたちに酷いことをされているかもしれない。
あいつに何かあれば、賊は八つ裂きだ。人を斬った経験はないが、今なら平気で出来る気がする。あの慈愛に満ちた笑顔を守るためなら、この手が血に染まっても構わない。
自分の両手を眺めていたら、セリーヌの顔と胸の感触を思い出し、なぜか悶々としてきた。
「よお、牡鹿の!」
すれ違いざまに肩を叩かれた。セリーヌのことに夢中で、意識が飛んでいたらしい。
「どうした、ボサッとしやがって。これからおまえの店へ、一杯やりに行く所だったんだ」
「一発やりに行く?」
腰に剣があれば迷わず抜いている所だ。
ルノーさんを前に、ケダモノに怯えるセリーヌの顔が過ぎった。
「こんな昼間っから、なに言ってんだ。欲求不満か? 若い奴は歓楽街で発散してこい。溜め込んだって、ろくなこたぁねぇ」
欲求不満。やはりそうなんだろうか。
「昼間からって、人のこと言えないじゃないですか。これから酒を飲むつもりなんですよね?」
「別に構わんだろうが。こんなジジイの楽しみを奪うつもりか?」
そんな悲しげな目を向けないで欲しい。
「いえ。好きにしてください……俺は急いでるんで、ここで失礼します」
「牡鹿の。剣はどうした?」
その言葉に、思わず振り返ってしまう。
「今、剣を抜くような仕草を見てな。あれは取り返したはずじゃなかったか?」
「え? 何を言ってるんですか? あの剣はなくなったままじゃないですか」
「おまえさん、大丈夫か?」
なぜか不思議そうな顔で目をしばたいている。その言葉を、そっくりそのまま返してやりたい気分だ。
「とにかく今は急いでるんで。これから、代わりの剣を調達しないといけないんです」
すると今度は眉根を寄せた。
「良く分からねぇが、剣を探してるのか? 仕方ねぇ。儂の取って置きをくれてやる」
「え?」
まさかルノーさんが。信じられない。
すると俺の手を取り、取って置きとやらを力強く握らせてきた。
「昨日の礼だ。金ならいらんぞ」
手の中にあったのは、Y字型の棹にゴム紐が張られたもの。
「って、スリング・ショットじゃないですか! こんなので戦えますか!?」
「こんなのって、バカか!?」
なぜか物凄い剣幕で怒られた。
頭に来たので、今すぐこれを投げ捨てたい。
「なんだ、不満か?」
「当たり前じゃないですか! それに、俺だって剣士ですから」
なぜか困ったように頭を掻いている。
「仕方ねぇ、付いてこい……おまえさんに、取って置きの男を紹介してやる」
「は?」
なにがなんだか良くわからない。この人は既に酔っているんじゃないだろうか。
とりあえず半信半疑のまま、後へ付いていくことにした。