第9話 本来ここにいない人
その夜は眠れなかった。
王城からクライゼル家の屋敷に戻ったのは遅い時間だった。父上は帰ってすぐに書斎へ入った。母上は俺の顔を見るなり何か言いかけたが、結局何も言わず温かい茶を出してくれた。
ありがたい。こういう時の茶は命に効く。
ただ、味はよくわからなかった。
ミリアの声が耳に残っていた。
違うのに。こんなはずじゃなかったのに。
泣いているようで笑っているような声。失敗した人間の声、と言えば近いかもしれない。
けれど、もっと根が深い。決まっていた何かが崩れた時の声だ。
俺は前世で乙女ゲームを知っている。はなはじのシナリオも、断片的には知っている。でも、ミリアのあの声を、攻略を間違えたプレイヤーの落胆とは呼びたくなかった。
もっと嫌なものだ。
実際に何かを失った人間の声に近かった。
「……寝ろよ、俺」
自分で自分に言ってみた。
返事はない。当たり前だ。
窓の外は暗い。屋敷の廊下は静まり返っている。こんな時間に起きているのは、俺と父上くらいだろう。
父上の書斎には、まだ明かりがついていた。
怒られるかな。
いや、昨日から怒られる材料が多すぎて、順番待ちをしている状態だ。王子の剣を止める。王城で事情聴取を受ける。ヒロインに名指しで意識される。
役満では?
そんな馬鹿なことを考えたが、すぐに消えた。
エレオノーラの指の冷たさを思い出したからだ。
彼女は泣かなかった。震えも押さえていた。あの場で顎を上げたまま帰った。
でも、俺の袖を掴んでいた手は冷たかった。
その手を思い出すと、いつもの軽口が喉の奥で止まる。
俺は結局、ほとんど眠れなかった。
翌朝。
父上に呼ばれた。行き先は書斎だ。
嫌な予感しかしない。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けると、父上が机の向こうにいた。服は替えている。だが顔が昨日から寝ていない人のそれだった。
俺は口を閉じた。藪をつつけば父上が出てくる。洒落にならない。
「王城から連絡があった」
「はい」
「ボルマン副学園長が拘束された」
「……早いですね」
「逃亡の準備をしていた」
なるほど。
それは早く捕まる。
「執務室から書類が押収された。燃やされた紙もある。燃え残りもある」
「燃え残りですか」
「ああ」
父上はそこで少し黙った。
机の上に置かれた封筒へ視線を落とす。封筒の赤い封蝋がやけに目立った。
「俺に関係ありますか」
「ある」
即答だった。
朝から心臓に悪い。
「お前の名があった」
「俺の名?」
「アルト・フォン・クライゼル。何度も書かれていたそうだ」
俺は口を閉じた。
筆跡の練習か。それとも名簿か。
どちらにせよ気分はよくない。
名前というのは不思議だ。自分で書く分にはただの文字なのに、知らない相手が何度も書いたと聞くと、急に気味が悪くなる。
「エレオノーラの名もある」
父上の声が少し低くなった。
「レオンハルト殿下の名。ミリア・ベルティナの名。ほかにも数名。だが一枚だけ、妙な紙が混じっていた」
「妙な紙」
「学園の記録でも証拠書類でもない。個人の覚え書きのようなものだ」
父上は封筒を指で押さえた。
「王城で確認する。お前も来い」
「俺もですか」
「お前の名がある」
「ですよね」
逃げ道はなかった。
「エレオノーラも来ますか」
「レインフォード公爵の判断次第だ」
「来そうですね」
「来るだろうな」
父上は立ち上がった。
「アルト」
「はい」
「今日は余計なことを言うな」
「昨日も言われました」
「昨日言われて足りていないから今日も言う」
「はい」
正論は痛い。
でも父上の顔には、怒り以外のものもあった。
眠れていない顔で、俺を見ている。
「それと」
「はい」
「彼女の前で笑うな」
彼女。
エレオノーラのことだろう。
俺は姿勢を正した。
「承知しました」
父上はうなずいた。それ以上、言葉を足さなかった。
王城の廊下は、昨日より足音が響いた。
廊下を歩く使用人たちの足音が小さい。近衛の顔も硬い。王族の不祥事が一晩で軽くなるわけがない。
案内されたのは、昨日とは別の部屋だった。
広すぎず狭すぎず。机は一つ。椅子は人数分。窓の近くに近衛が二人。
ユリウス殿下が先に来ていた。ラウレンツ宰相もいる。フェリクス殿が壁際に立っていた。
そして、オスカー公爵とエレオノーラもいた。
エレオノーラは昨日より少し顔色が悪い。だが顎は上がっている。
いつもの彼女だ。
いや、いつものように見せようとしている彼女だ。
「おはよう、アルト」
「おはよう。無理してないか」
「していないわ」
即答だった。
嘘だな。俺でもわかる。
でもここで言い返すと彼女の意地を折る。だから黙った。
エレオノーラの視線が一度だけ床へ落ちた。伝わったのかもしれない。
ユリウス殿下が机の上へ木箱を置かせた。
「ボルマンの執務室から押収したものだ」
木箱の中には紙束が入っていた。焦げた紙。端が黒くなった封筒。練習用らしい紙片。それから、革の表紙が半分焦げた小さな手帳。
紙の焦げた匂いがした。
ラウレンツ宰相が一枚を取り出す。
「こちらは偽造用の練習紙です。レインフォード公爵令嬢の署名を真似た跡がございます」
エレオノーラのまつげが少し動いた。
自分の名が勝手に使われた。この時点で、十分気持ちが悪いはずだ。
「こちらにはアルト殿の名が」
「俺の名前まで練習してどうするんですかね」
つい口から出た。
父上の視線が飛ぶ。俺は口を閉じた。
すみません。まだ始まったばかりでした。
ユリウス殿下は咎めなかった。ただ焦げた手帳を見ている。
「問題はこちらだ」
フェリクス殿が手袋をつけたまま手帳を開いた。
焦げて読めない箇所が多い。それでも中央あたりの何枚かは残っていた。
ユリウス殿下が俺たちを見た。
「先に言っておく。これは証拠としては扱いにくい。誰の筆跡かも鑑定中だ。だが内容が看過できない」
俺は息を吐こうとして、うまく吐けなかった。
フェリクス殿が一枚を読み上げる。
「レオンハルト様。正義感が強い。婚約者に不満あり。守るべき相手を見せれば動く」
記録官の羽ペンが紙の上で止まった。
レオンハルト殿下の名前。性格。動かし方。
まるで攻略メモだった。
俺は前世で攻略サイトを見たことがある。
好感度が上がる選択肢。イベントの起こし方。相手の弱点。
ああいうものに似ている。似ているが、紙から受ける感じはもっと嫌だった。
遊びのメモにしては、紙の向こうが冷えすぎていた。
人を動かすためのメモだ。
「続けます」
フェリクス殿の声が少し硬い。
「カイル様。力を認めれば守る。怒りやすい。考える前に動く」
カイル・ローデン。
レオンハルト殿下の取り巻きの一人だ。
「セドリック様。理屈を与える。正当化を好む。間違いを認めない」
セドリック・バルシュミット。
ああ、いたなそんなやつ。昨日から名前だけで胃に悪い。
「ノエル様。寂しさを見せる。味方になってくれる」
エレオノーラの顔がわずかに強ばった。
彼らは人間として書かれていない。
鍵穴と鍵の形だけを書かれているようだった。
どこを押せば動くか。
どこを撫でれば味方になるか。
俺は気づかないうちに拳を握っていた。
ユリウス殿下が低い声で言う。
「次を」
フェリクス殿は少しためらった。
そのためらいで、俺はわかった。
次はエレオノーラだ。
「読まなくていい」
言葉が先に出た。
部屋中の視線がこちらに向く。
父上だけは怒らなかった。オスカー公爵もだ。
エレオノーラが俺を見た。
「アルト」
「読まなくていい」
もう一度言った。
俺の声は自分で思ったより低かった。
「君が聞く必要はない」
「私のことなのでしょう」
「だからだ」
「なら、なおさら聞くわ」
エレオノーラは膝の上の手をゆっくり開いた。強く握っていたのか、指先が白くなっていた。
「知らないところで決めつけられたのなら、自分で聞くわ。逃げたら、あの場で俯いたままの私と同じでしょう」
俺は何も言えなくなった。
オスカー公爵が娘を見ている。止めたい顔だった。
だが、止めなかった。
フェリクス殿はユリウス殿下へ視線を向ける。
ユリウス殿下は一度うなずいた。
「読む」
フェリクス殿は焦げたページを押さえた。
「エレオノーラ・レインフォード。悪役令嬢。高慢。婚約者への執着あり。断罪の日に退場」
短い文章だった。
ただの文字だ。
焦げた紙に残った黒い文字。
それだけなのに、部屋の中で何かが落ちた気がした。
エレオノーラは動かなかった。瞬きもしない。
俺は息をするのを忘れかけた。
「……悪役令嬢」
彼女が声を落として言った。
その言葉が、俺の知っている言葉とは違って聞こえた。
俺にとって悪役令嬢は乙女ゲームの役名だ。前世の知識の中にある言葉だ。
だがエレオノーラにとっては違う。
今、自分へ貼られた札だ。
人間扱いされず、札に変えられていた証だ。
「私の名前は、そこにないのね」
エレオノーラの声は震えていなかった。
それが逆に痛かった。
「エレオノーラ」
オスカー公爵が呼ぶ。
彼女は父親を見なかった。机の上の手帳を見ていた。
「高慢。執着。退場。ずいぶん簡単なのね。私という人間は」
俺は立ち上がりかけた。
父上の手が俺の肩を押さえた。力は強くない。
でも止まった。
今、俺が怒鳴っても彼女のためにはならない。
父上はそう言っているのだと思う。
わかっている。
わかっているけど腹は立つ。
フェリクス殿が次の行へ目を落とした。
「アルト・フォン・クライゼル。不要。記載なし。断罪に関与しない。本来ここにいない」
今度は俺の番だった。
不要。記載なし。本来ここにいない。
ひどい言われようである。
いやまあ、ゲームだと本当にほぼ出てこないモブだったので否定しにくい。そこは否定しにくいが、本人を前に不要と書くのはやめてほしい。
でも俺の傷は浅い。
もともと自覚がある。
問題は、その一文をエレオノーラが聞いたことだった。
彼女は俺を見た。
「あなたも」
「俺は大丈夫」
「でも」
「俺は昔から影が薄いし」
「今は影の濃さの話をしていません」
怒られた。
少し安心した。
怒る余裕があるなら、まだ大丈夫だ。
そう思いたかった。
フェリクス殿が手帳を閉じようとした。
その時、焦げたページの間から小さな紙片が落ちた。
床にひらりと落ちる。近衛が拾い上げ、ユリウス殿下へ渡した。
ユリウス殿下の顔が変わった。
「フェリクス」
「はい」
紙片はフェリクス殿に渡る。
彼は目を通し、一瞬だけ口を閉じた。
「読み上げろ」
ユリウス殿下の声は硬かった。
フェリクス殿は短く息を吸った。
「今回は最後。全員を選ぶ。レオンハルト様は断罪で決める。エレオノーラは消す。アルトは邪魔」
記録官の羽ペンが止まり、誰かが椅子の肘掛けを握った。
今回は最後。
全員を選ぶ。
前世の俺なら、隠しルートの文字列として読み流したかもしれない。
だが今は、焦げた紙と机を挟んでエレオノーラが座っている。
彼女は昨日、実際に斬られかけた。
ニーアは脅されて逃がされた。
レオンハルト殿下は剣を抜いた。
全員を選ぶために誰かを消す。
その言葉が紙に残っている。
「消す、ですか」
エレオノーラが言った。
静かだった。静かすぎて怖かった。
「私は退場では足りず、消される予定だったのですね」
「エレオノーラ様」
ラウレンツ宰相が声をかける。
彼女は首を振った。
「申し訳ありません。少し、廊下へ出させてください」
オスカー公爵が立ち上がる。
「私が」
「父様」
エレオノーラは父親を見た。
「アルトと行ってもよろしいですか」
オスカー公爵の眉がわずかに動いた。
父上も俺を見る。
俺は口を閉じた。
言えば変なことを言いそうだった。
少しの沈黙のあと、オスカー公爵がうなずく。
「遠くへは行くな」
「はい」
俺も一礼して立ち上がった。
廊下を出てすぐの小さな中庭へ向かった。
王城の中にある庭だ。白い石畳と低い生け垣。花は咲いているが、色は抑えられている。
こういうところまで品がいい。
王城ってやつは油断ならない。
エレオノーラは石畳の端で立ち止まった。
風が彼女の髪を揺らす。
俺は少し後ろに立った。
「アルト」
「うん」
「私は、そんなに嫌な人間だったのかしら」
喉の奥が詰まった。
いつもの言葉は出てこなかった。
「違う」
短く言った。
「でも、あの紙にはそう書いてあったわ」
「紙が勝手に決めただけだ」
「レオンハルト殿下も、他の方たちも、きっとそう見ていたのでしょうね」
「全員じゃない」
「そうね」
エレオノーラは振り返らなかった。
「あなたは違った」
その声が少し揺れた。
「あなたは、私を名前で呼んでくれたわ」
「当たり前だろ」
「今は、そう言い切れないのよ」
彼女の手がドレスの布を握る。
「私は公爵令嬢だから、強くなければいけないと思っていた。王子の婚約者だから、隙を見せてはいけないとも思っていた」
エレオノーラは唇を一度閉じた。
「少しきつく言えば高慢と言われる。黙れば冷たいと言われる。笑えば媚びていると言われる。それでも仕方ないと思っていたわ」
風が止んだ。
「でも、知らないところで悪役令嬢なんて名前を付けられていたのは……こたえるわね」
語尾が消えかけた。
そんな軽さで済むはずがない。
俺は一歩だけ近づいた。
「エレオノーラ」
「何?」
「俺はお前が好きだよ」
彼女の肩が跳ねた。
しまった。
今言うことだったか。
いやでも言ってしまった。戻せない。
俺は咳払いした。
「変な意味じゃなく」
「変な意味はないの?」
振り返ったエレオノーラの目が少し赤い。
でも口元は、少し意地悪だった。
戻ってきた。
俺の知っている彼女が少し戻ってきた。
「いや、変な意味もあるかもしれない」
「そこははっきりしなさい」
「今は真面目な話をしているので」
「あなたが始めたのでしょう」
その通りです。
俺は頭をかいた。
「とにかく。悪役令嬢とか退場とか消すとか、そんな紙切れの言葉より、俺は俺の知っているお前を信じる」
エレオノーラは黙った。
「川辺で転んだ俺を見て慌てたお前も。俺の忠告を話半分に聞きつつ一応守ってくれたお前も。今日みたいに傷ついても背筋を伸ばすお前も。全部知ってる」
逃げ道はなかった。
「だから、勝手に決められるな」
エレオノーラの目が揺れる。
「勝手に負け役にされるな。勝手に消されるな。そんなもの、俺が許さない」
「……あなたは」
「うん」
「時々、とてもずるいわ」
「ほめてる?」
「半分くらい」
「半分か」
エレオノーラの口元がわずかにゆるんだ。
今度はちゃんと笑えていた。
その笑みを見て、俺はようやく息ができた気がした。
「戻りましょう」
「ああ」
エレオノーラは歩き出した。
彼女の指先が、俺の袖にかすった。掴むまではいかない。
ただ指先が布をつまむだけ。
俺は気づかないふりをした。
今はそれでよかった。




