第8話 逃げた侍女は震えている
臨時侍女ニーアが保護された。そこまではよかった。
捏造された手紙に関わったかもしれない人物が見つかったのだ。これで少しは話が進む。問題は、彼女を逃がした相手の名前だった。
ミリア・ベルティナ。
泣いていたヒロインが裏で侍女を逃がしていた。なかなかすごい。
俺の知っている乙女ゲームでは、ヒロインは木陰で涙を流す側だった。逃亡資金を渡す側ではない。いやまあ、はなはじのヒロインが全員善良とは限らないけど。
それにしても仕事熱心すぎる。
「アルト」
父上の声が飛んできた。
「はい」
「顔」
「顔?」
「考えていることが出ている」
俺は両手で頬を押さえた。貴族に向いてない顔面である。エレオノーラが横で息を漏らした。
笑ったわけではない。けれど、エレオノーラの指から少し力が抜ける。
俺は口を閉じた。
「ニーアは隣室か」
ユリウス殿下が近衛へ確認する。
「はい。女官二名と近衛が付き添っております。抵抗はありません」
「怪我は」
「ございません」
「ならば通せ」
近衛が一礼して出ていった。扉が閉まる。部屋の中で、紙をめくる音が消えた。
レオンハルト殿下は別室へ戻されている。ミリアも客室に移された。
この場にいるのはユリウス殿下、ラウレンツ宰相、父上、オスカー公爵、エレオノーラ、フェリクス殿。あとは俺。
俺だけ場違い感がすごい。でも逃げると父上に首根っこを掴まれそうなので座っている。
「アルト殿」
フェリクス殿がこちらを見た。
「はい」
「ニーアが入ってからは、しばらく発言を控えていただけますか」
「俺、そこまで危ないですか」
「ミリア嬢があなたを強く意識しているように見えます。ニーアにも何か吹き込んでいる可能性があります」
なるほど。俺が口を挟むだけで、ニーアの反応が変わるかもしれないということか。ただの幼馴染だったはずなのに、いつの間にか爆発物扱いである。
まあ王子の剣を止めた時点で、ただの幼馴染ではないか。
「わかりました。黙っています」
「必要があれば声をかけます」
フェリクス殿は真面目にうなずいた。こういう人がいると王城は助かるのだろう。俺みたいなのばかりだと、三日で滅ぶ。
少しして扉が開いた。
女官二人に挟まれて入ってきたのは、まだ若い侍女だった。
茶色の髪を後ろで結んでいる。顔色はひどい。目元は赤く腫れていた。
悪事に慣れた顔ではない。逃げるのにも慣れていない顔だ。ニーアは部屋に入った瞬間、その場に膝をついた。
「も、申し訳ございません……!」
声が震えていた。泣く直前というより、もう何度も泣いた後の声だ。
「顔を上げなさい」
ユリウス殿下の声は静かだった。ニーアは恐る恐る顔を上げた。視線が部屋の中をさまよう。
ユリウス殿下。宰相。父上。オスカー公爵。エレオノーラ。
俺のところで、彼女の肩が跳ねた。
俺は何もしていない。していないはずだ。フェリクス殿が一歩前へ出た。
「ニーア。ここでは事実だけを話しなさい。嘘をつけば罪は重くなる。正直に話せば、その姿勢は考慮される」
「は、はい……」
「お前はなぜ逃げた」
ニーアは両手を握った。指先が白くなる。
「怖くなったんです」
「何が」
「調べが入ると聞いて……私が、全部かぶせられると」
「誰にそう言われた」
ニーアの喉が動いた。名前を出すのをためらっているのだろう。ユリウス殿下は急かさなかった。
ラウレンツ宰相も黙っている。紙をめくる音すらしなかった。
「ミリア様です」
ニーアが言った。その名前が出た瞬間、エレオノーラの指が膝の上で強く握られた。
「いつだ」
「昨日の夜です。学園の使用人棟の裏で」
「一人で来たのか」
「はい。ミリア様お一人でした」
「何を言われた」
ニーアは膝の上の手を見る。
「このままだと、あなたは公爵家に切り捨てられると。エレオノーラ様は自分を守るためなら、使用人一人くらい平気で差し出すと」
エレオノーラの顔が曇った。怒りではない。もっと痛そうな顔だった。
俺は口を閉じた。フェリクス殿に止められているからではない。今ここで俺が何か言えば、エレオノーラが飲み込んだものを横から奪う。
彼女は息を吸った。
「ニーア」
「は、はい……!」
「私はあなたを切り捨てるつもりはありません」
ニーアの目が揺れた。
「けれど、あなたが私の名を使った手紙を運んだのなら、事実を話していただきます」
「……はい」
「私は、していないことまで背負えません」
静かな声だった。静かすぎて、ニーアは余計に泣きそうな顔になった。
「申し訳ございません……私、本当に……本当に、エレオノーラ様のご命令だと」
「誰に言われた」
オスカー公爵が低く問う。ニーアは肩を震わせた。
「ボルマン副学園長です」
やっぱりそこか。あの副学園長、見た目からしていかにも小細工しそうだった。こういう感想を口に出すと父上に怒られるので黙っておく。
「ボルマンは何と」
「公爵令嬢からの内密な頼みだと。余計なことを聞くなと言われました。身分の低い者が貴族の事情に口を挟めば、家族にも迷惑がかかると」
ニーアの声が尻すぼみになる。
「私は臨時です。正式な侍女でもありません。断れませんでした」
ラウレンツ宰相がペンを置いた。
「運んだ手紙は何通だ」
「三通です。いえ……四通かもしれません。一通は封筒だけ受け取りました。中身は入っていたのか覚えていません」
「宛先は」
「すべてミリア様です」
「中身は見たか」
「見ておりません。ただ、一度だけ封が甘いものがありました。紙の端が見えて……中庭で待つようにと書かれていました」
「筆跡はわかるか」
ニーアは首を横に振る。
「わかりません。エレオノーラ様の字を存じ上げません。ただ、副学園長はそうだと言いました」
オスカー公爵は目を閉じた。怒鳴らない。机も叩かない。
それが逆に落ち着かない。
自分の娘の名前を使われた父親が黙っている。父上の指が、机を一度だけ叩いた。後で誰かが払うことになる。
「逃亡資金は渡されたのか」
ラウレンツ宰相が話を戻した。
「はい」
「誰に」
「ミリア様に」
「直接か」
「はい。小袋を渡されました。王都を出て、しばらく身を隠すようにと」
近衛が革袋を差し出した。銀貨が入っているらしい。ラウレンツ宰相が中を確認して、机の上に置いた。
「多すぎず、少なすぎず。王都を出るには足りる額ですな」
「追手を考えなければ、ですね」
フェリクス殿が言う。
「ええ。捕まる前提なら、もっと多く渡すでしょう」
淡々としている。でもその淡々さが、かえってミリアの手慣れた感じを浮かび上がらせていた。
「ニーア」
ユリウス殿下が呼ぶ。
「ミリア嬢は、お前の家族について何か言ったか」
ニーアの顔色が変わった。今までで一番、はっきりと。
「……言いました」
「何を」
「弟のことを」
記録官の羽ペンが紙の上で止まった。ニーアは震える手を胸元に当てる。
「私の弟は病気で、薬代がかかります。だから私は臨時でも学園で働きたくて……でも、そのことは学園の事務方にしか話していません。ミリア様には、一度も」
「ミリア嬢は何と言った」
「弟さんの薬代がなくなるのは困るでしょう、と」
ニーアの声がかすれる。
「逃げればしばらく暮らせる。捕まれば家族まで罪に問われるかもしれない。だから私の言う通りにした方がいいと」
エレオノーラが息をのんだ。俺も思わずミリアのいない方を見た。もちろんそこには誰もいない。
弟の病気。薬代。学園の事務方にしか話していない事情。
それをミリアが知っていた。
偶然。調べた。誰かに聞いた。
説明はいくつかある。でも、彼女のこれまでの言動を並べると、どれも少しずつ気持ち悪い。
ミリアはレオンハルト殿下の弱いところを知っていた。ニーアの弱いところも知っていた。なら、カイルやセドリックやノエルの弱いところも知っているのか。
知っているのだろう。そう思えてしまうのが嫌だった。
「事務方に確認を」
ユリウス殿下が短く命じた。
「すでに手配しております」
フェリクス殿が答える。仕事が早い。この人が味方でよかった。
「ミリア嬢は他に何か言ったか」
ニーアはうつむいた。言うべきか迷っている顔だった。
「申せ」
父上が言った。低い一言だった。ニーアの肩が跳ねる。
「ミリア様は……アルト様に気をつけなさいと」
視線が俺に集まった。やめて。俺も知らない話です。
黙っていろと言われているので、俺は口を閉じたまま両手を軽く上げた。
「続けなさい」
ユリウス殿下が言う。
「アルト様は、本来なら何もできないはずなのに、今回はおかしいと。近づかれたら全部崩れるから、その前に逃げなさいと」
今回は。まただ。ミリアの言葉には、時々おかしな棘が混じる。
今だけを見ている人間の言葉ではない。
俺は前世の記憶がある。この世界がはなはじに似ていることも知っている。だから未来を少し知っているつもりだった。
けれどミリアは、俺とは違うものを見ている。
「その言葉を聞いて、お前はどう思った」
ラウレンツ宰相が尋ねた。
「怖かったです」
ニーアは即答した。
「ミリア様は優しく笑っているのに、何を言っているのかわからなくて……でも、弟のことを知っていて……逆らったら、弟までどうにかされる気がして」
そこでニーアは泣き崩れた。
「申し訳ございません。私、怖くて……本当に怖くて……」
女官がそっとニーアの背に手を添える。誰もすぐには責めなかった。ニーアは罪を犯した。
手紙を運び、逃げた。それは消えない。
でも、目の前の彼女は悪党には見えなかった。弱いところを押され、怖がらされ、逃げ道を一つにされた人間の顔をしていた。エレオノーラが立ち上がった。
「エレオノーラ」
オスカー公爵が名を呼ぶ。
「お父様。少し」
彼女はニーアの前へ進んだ。ニーアが怯えたように身を縮める。エレオノーラは膝をつかなかった。
立ったまま、彼女を見下ろす形になった。
冷たく見えるかもしれない。でも違う。彼女は今、自分を保つので精いっぱいなのだと思う。
「ニーア」
「はい……」
「あなたが怖かったことは、理解します」
ニーアの肩が震える。
「怖かったからといって、私の名前を使われていい理由にはなりません。私は書いていない手紙で呼び出され、言ってもいない言葉で人を動かされました」
「申し訳、ございません……」
「謝罪の言葉は聞きました」
エレオノーラは一度だけまばたきをした。
「許すかどうかは、今は言えません」
ニーアは泣きながら何度も頭を下げた。エレオノーラの手が震えている。袖口に隠れている。
それでも俺には見えた。
助けに行きたい。でも行かない。彼女が自分の足で立っているところだから。
「ニーアを下げろ」
ユリウス殿下が命じた。
「罪状の確認が済むまで保護下に置く。弟の件も調べろ。必要なら医師を送れ」
「はっ」
ニーアは女官たちに支えられて立ち上がった。部屋を出る前に、もう一度エレオノーラへ頭を下げる。扉が閉まった。
しばらく誰も話さなかった。
エレオノーラはまだ立っている。肩に力が入っていた。
「エレオノーラ」
俺は声を落として呼んだ。彼女が振り返る。
「戻ってこい」
それだけ言った。エレオノーラは一度だけ目を瞬かせた。それから、椅子の背に手をかけて席へ戻る。
俺の隣に座ると、彼女の指がまた俺の袖を掴んだ。さっきよりも強い。
今度は誰にも見えないように、俺は手を少し動かした。袖を掴みやすいように。それ以上はしない。
人前だし。あと父上の視線が刺さるし。
「ニーアの弱みを知り、逃がす金まで渡した」
ラウレンツ宰相がペンを置いた。
「ここまで来れば、ミリア・ベルティナ嬢の聴取は扱いを変えるべきでしょう」
「加えて、アルト殿の件だ」
ユリウス殿下が机の上に視線を落とす。
「本来なら何もできないはず。今回はおかしい。彼女はそう言ったのだな」
全員の視線が俺に向く。今度は俺も黙っていられなかった。
「俺にも意味はわかりません。ただ、ミリア嬢は俺を見ると一瞬止まるんです。初対面の相手に向ける驚きとは少し違います」
「知っている相手として見ていると?」
「いえ」
俺は首を横に振った。
「帳面の数字が合わなかった時みたいな顔です。あるはずのない数字が、目の前に出てきたみたいな」
部屋の奥で、父上が目を細める。
「どういう意味だ」
「昨日の会場でも同じでした。俺が剣を受け止めた瞬間、ミリア嬢の顔が止まったんです。今日もニーアの話で、また同じ言葉が出ました。今回は、と」
変な説明になった。でも俺には、それが一番近かった。
ミリアは俺を怖がっているというより、予定を崩したものとして見ている気がした。
「調査を広げる」
ユリウス殿下が言った。
「ミリア嬢と接触のあった者を洗い直す。レオンハルトだけでは足りない。カイル、セドリック、ノエル。学園の使用人。事務方。ボルマン副学園長もだ」
「承知しました」
フェリクス殿がうなずく。
「ただし、ミリア嬢本人への再聴取は急ぐべきではございません」
ラウレンツ宰相が言った。
「今の状態で問い詰めれば、また泣いて周囲を動かそうとするでしょう」
「泣くのが武器か」
父上が低く言う。
「武器として扱っているか、無意識に使っているか。そこはまだ」
「どちらでも同じだ」
父上はそこで言葉を切った。
「斬られかけた者にはな」
エレオノーラの指が、俺の袖を握ったまま動かなくなる。俺は彼女を見なかった。見たら、何か言ってしまいそうだった。
ユリウス殿下が立ち上がる。
「今日はここまでにする。レインフォード公爵令嬢をこれ以上この場に置くべきではない」
「お気遣い感謝いたします」
エレオノーラは立ち上がり、礼をした。姿勢は崩れていなかった。見事なくらいに。
でも、俺の袖は最後まで離さなかった。部屋を出る直前、廊下の向こうからかすかな声が聞こえた。
女の声。泣いているようで、笑っているような声。
「違うのに」
ミリアの声だった。
「こんなはずじゃなかったのに」
近衛がすぐに扉を閉めた。声は途切れた。エレオノーラが俺の袖を離す。
その手は少し冷たかった。
「アルト」
「なんだ?」
「彼女は、私を見ていなかったのね」
俺は答えられなかった。見ていなかった。そうだろう。
ミリア・ベルティナの目は、エレオノーラ本人を追っていなかった。そこにいる令嬢ではなく、倒せば終わる相手として見ていたのかもしれない。
でもそんな言葉を、今のエレオノーラに言えるわけがなかった。
「帰ろう」
俺はそれだけ言った。
「ええ」
エレオノーラは短く答えた。廊下の奥で、また声がした。今度は聞き取れない。
ただ、背中にまとわりつくような声だった。
廊下の向こうで聞こえる声は、もう昨日と同じ響きには聞こえなかった。
涙の奥に何が混じっているのか。俺たちはまだ、知らなかった。




