第7話 涙の使い方
廊下から聞こえた泣き声は、扉の前で止まった。近衛の低い声がする。女の子の細い声もする。
そこに、聞き覚えのありすぎる男の声が混じった。
「ミリアを通せ。彼女は怯えているんだ」
レオンハルト殿下だった。さっき別室へ連れて行かれたばかりなのに、もう戻ってきたらしい。命令を聞く気がない。
王族の行動力って加減がない。昨日の剣でもう十分知っているけど。
ユリウス殿下の眉が少し動いた。
「フェリクス」
「確認してまいります」
フェリクス殿が扉へ向かう。その前に扉が叩かれた。
「失礼いたします」
顔を出した近衛兵は、明らかに困っていた。
「ミリア・ベルティナ嬢が、レオンハルト殿下との面会を求めております。止めましたが、ベルトラム・ガイスラー殿が同行を許したようで」
「ベルトラムか」
ユリウス殿下の声が低くなる。
聞いたことのない名だった。少なくとも、はなはじの攻略対象ではない。
王子付きの近衛。ゲームでは名前も出ないような人間だろう。でも現実では普通に扉を開ける。
これだから現実は困る。
「入れろ」
「殿下」
ラウレンツ宰相が止めた。
「廊下で泣かせ続ける方が面倒だ。ここで聞く」
「承知しました」
宰相は机の上の書類を一枚伏せた。紙を一枚隠すだけで、こちらまで肩がこわばる。文官の怖さってこういうところにあるんだろうな。
扉が開いた。
先に入ってきたのはレオンハルト殿下だった。髪は少し乱れている。顔には焦りと怒りが浮かんでいた。
その後ろにミリア・ベルティナがいる。
桃色の髪。潤んだ目。胸元で重ねた手。
昨日より弱々しく見える。
守りたくなる姿。そう見える姿。俺は黙って彼女を見た。
「兄上。ミリアに何をしているのです」
「何もしていない。まだ話す前だ」
「ではなぜ泣いている」
ユリウス殿下は答えなかった。答える価値がないと思ったのかもしれない。ミリアが一歩前に出る。
「申し訳ありません。私、ただ殿下が心配で……昨日から何もわからなくて……」
「ミリアは悪くない」
レオンハルト殿下がすぐに言った。早い。まだ誰も責めていない。
エレオノーラの指が膝の上で動いた。俺はそれを見た。言葉は喉の奥で止めた。
「レオンハルト」
ユリウス殿下が弟を呼ぶ。
「お前には部屋にいろと命じた」
「ミリアが泣いているのに、部屋で待てと?」
「そうだ」
短い返事だった。レオンハルト殿下が言葉を失う。まさかそのまま肯定されるとは思っていなかった顔だ。
「お前は昨日、婚約者に剣を向けた。今はその責を問われる立場だ。泣く女を見つけて走る立場ではない」
「私は彼女を守ろうとしただけです」
その言葉で、近衛の一人が目だけを動かした。エレオノーラの肩が少し強張る。ミリアが急いで首を横に振った。
「違うんです。殿下は私のために怒ってくださっただけで……私が弱いから。私が泣いてしまったから。だから責めるなら私を」
「責めておりません」
エレオノーラが言った。声は静かだった。でも、よく通った。
「私はあなたを責めておりません。私がしていないことを、したことにしないでいただきたいだけです」
「そんな……私はそんなつもりじゃ」
「つもりの話ではありません」
エレオノーラはミリアをまっすぐ見た。
「昨日、私は人前で罪人にされました。婚約者だった方に剣を向けられました。弁明も聞かれずに」
ミリアの目が揺れる。
「それでも、あなたは自分を責めてくださいと言うのですね」
「だって……私、本当に怖くて」
「怖かったのは、あなただけですか」
ミリアの唇が閉じた。レオンハルト殿下が一歩前へ出る。
「エレオノーラ。ミリアは被害者だ」
「私は何をしたのですか」
「それは……」
「殿下」
エレオノーラは彼を見た。
「私は何度も聞きました。何をしたのか。誰が見たのか。いつ起きたのか。けれど殿下は一度も答えてくださいませんでした」
「証拠はあった」
「その証拠には、私が別の場所にいた日のものが含まれております」
「それは後から」
「撤回しろ」
ユリウス殿下の声だった。低い。さっきまでより、さらに低い。
「王宮の補講記録、学園の門番記録、レインフォード家の馬車記録。お前は今、それらをまとめて偽造だと言いかけた」
「私は……」
「撤回しろ」
二度目は命令だった。レオンハルト殿下は唇を噛む。それでもミリアを見た。
ミリアは涙を浮かべたまま彼を見上げている。レオンハルト殿下の目が揺れた。
「……撤回、します」
かすれた声だった。ラウレンツ宰相が紙に何かを書き留める。ペンの音だけが残った。
「でも私は、ミリアを疑うことはできません」
レオンハルト殿下はまだ言った。
「彼女は何度も泣いていた。怯えていた。私に助けを求めた。だから私は」
「殿下」
エレオノーラが呼んだ。
「あなたは、私が泣けば信じてくださいましたか」
レオンハルト殿下が固まった。
「私が怖いと言えば、剣を下ろしてくださいましたか。私が助けてと言えば、私の話を聞いてくださいましたか」
「それは……」
「聞いてくださらなかったでしょう」
静かな断言だった。俺は息をするのを忘れた。
「殿下が信じたのは真実ではありません。私でもありません。ミリア様ですらなかったのかもしれません」
エレオノーラはそこで一度言葉を切る。
「守る側にいるご自分を、信じたかったのではありませんか」
レオンハルト殿下の顔から血の気が引いた。その言葉は叫びではなかった。刃みたいでもなかった。
ただ逃げ道を塞いだ。
「違う」
レオンハルト殿下がかすれた声で言う。
「私は、そんな」
声が続かない。ミリアが急に動いた。
「殿下、違います。殿下は優しい方です。私を守ってくださったんです。いつもそうだったじゃありませんか」
いつも。俺はその言葉に引っかかった。レオンハルト殿下も眉を寄せる。
「いつも?」
「あ……」
ミリアは一瞬だけ口を押さえた。すぐに涙を浮かべ直す。
「いつも、というのは……学園で、です。殿下はいつも私を助けてくださいました」
おかしくはない。言い訳としては通る。
言葉だけなら通る。けれど、口を押さえた一瞬だけ、ミリアの目から涙の色が消えた。
レオンハルト殿下を見上げるまでに、彼女はまばたきを二度した。「学園で」という言葉は、その二度のあとに出てきた。
「ミリア嬢」
ラウレンツ宰相が口を開いた。
「昨日、殿下が示した訴えの中に、あなたの手で書かれたものはありますか」
「ありません。私はただ、つらかったことをお話ししただけです」
「誰に」
「殿下に……それと、カイル様やセドリック様にも」
「ノエル・アストレア殿には」
「少し」
「臨時侍女ニーアについては」
ミリアの指が止まった。小さな動きだ。それでも、今度は部屋の全員が見たと思う。
「ニーア……?」
「学園であなたに接触した臨時侍女です」
「私、よく覚えていません」
答えが早かった。ミリアは困ったように笑う。
「学園にはたくさんの方がいますし、私、身分のある方の顔を覚えるだけでも精いっぱいで」
貴族ではない弱い少女。偉い人に囲まれて怯える被害者。そう見せるのがうまい。
けれど、エレオノーラはもう揺れなかった。
「ミリア様」
「はい」
「あなたは先ほど、殿下はいつも私を助けてくださった、とおっしゃいました」
「学園での話です」
「ええ。では昨日の会場で、殿下が私へ剣を向けた時、あなたは最初から止めようとなさいましたか」
「止めました。私、殿下にやめてくださいと」
「剣が振り下ろされたあとに、です」
ミリアの目が大きくなる。
「最初から止めることもできたはずです。少なくとも、殿下の隣にいたあなたは、私より先に殿下の手を見ることができた」
「そんなの、急で……」
「そうですね。急でした」
エレオノーラはうなずいた。
「だから、あなたが止められなかったことを責めません。ただ、殿下が私を斬りかけたあとも、あなたはまず殿下のそばに行きました」
ミリアが黙る。
「私を見ませんでした」
声が震えた。俺は口を挟まなかった。これはエレオノーラの言葉だ。
俺が横から拾うものじゃない。
「あなたも殿下も、私が傷ついたかどうかを見ませんでした」
レオンハルト殿下が床を見る。ミリアだけが、まだ泣きそうな顔を保っていた。
「そんな……私、そんなつもりじゃありません」
「つもりがなくても、私はそうされました」
そこでエレオノーラは口を閉じた。長くは責めなかった。怒鳴りもしなかった。
だから余計に重かった。レオンハルト殿下の膝が揺れる。
「私は……」
彼はエレオノーラを見た。ようやく、ちゃんと見た。
「私は、君の言葉を聞く気がなかったのか」
誰も答えない。エレオノーラも答えなかった。答えなくてよかった。
レオンハルト殿下は片手で顔を覆う。
「私は、何を……」
ミリアが近づこうとした。
「殿下」
フェリクス殿が間に入る。
「お下がりください」
「私は殿下の」
「お下がりください」
二度目の声は硬かった。ミリアが唇を噛む。その顔から、一瞬だけ可憐さが消えた。
彼女は俺を見た。
まただ。自分の知らない誰かを見るような目。本来はいないはずの幽霊を見るような目。
そして、声を落として言った。
「……どうして、ここにいるの」
聞こえなかったふりをした。今のは聞いていい言葉じゃない。ユリウス殿下が近衛に命じる。
「レオンハルトを部屋へ戻せ。ミリア・ベルティナ嬢は客室へ。面会は禁じる。ベルトラム・ガイスラー殿は命令系統の確認が済むまで外す」
「はっ」
近衛たちが動いた。レオンハルト殿下は抵抗しない。ただ、エレオノーラを見ていた。
謝罪の言葉は出なかった。まだ出せるほど整理できていないのだろう。
ミリアは最後まで泣いていた。けれど扉が閉まる直前、涙の奥の目だけが冷えていた。扉が閉じる。
エレオノーラは顎を上げたままだった。でも膝の上の手が震えている。
俺は自分の袖を少し彼女の方へ寄せた。彼女の指が、そっと布を掴む。布地にしわが寄った。
「失礼いたします」
また扉が叩かれた。入ってきた近衛兵は、さっきよりも顔色が悪い。
「臨時侍女ニーアを保護しました。王都南区の宿に潜んでいたところを確保。本人は逃亡の手引きを受けたと証言しております」
ラウレンツ宰相の目が細くなる。
「誰に」
近衛兵は一瞬だけ迷った。それから答えた。
「ミリア・ベルティナ嬢です」
父上の指が机を一度だけ叩いた。低い音が、部屋の奥まで響く。誰も驚きの声を上げなかった。
ただ、エレオノーラの指が俺の袖を強く掴んだ。ミリア・ベルティナ。
ラウレンツ宰相のペン先だけが、紙の上を動く。
涙で隠れていた名前が、ようやくそこに書かれた。




