第6話 王子はまだわかっていない
王城の門は大きい。いや、本当に大きい。見上げるだけで首が痛くなる。
この国の威厳とか歴史とか権力とか、そういうものを全部石にして積み上げたような門だ。
できれば一生に何度も来たくない。公爵家の子息が言うことではないけど、来たくないものは来たくない。
馬車が門をくぐると、車輪の音が変わった。学園の石畳より硬い音がする。窓の外には近衛兵が並んでいた。
昨日の卒業式会場にいた騎士たちより、ずっと表情がない。
訓練された人間の顔だ。あれは胃に悪い。怒鳴ってくる父上とはまた別の怖さである。
向かいに座るエレオノーラは、膝の上で手を重ねていた。肩は下がっていない。顔色も悪くない。
公爵令嬢としては完璧だ。ただ、指先だけが少し白かった。
「エレオノーラ」
「なに」
「無理してるだろ」
「しているわ」
即答だった。
「否定しないんだな」
「あなた相手に否定しても仕方ないでしょう」
「俺、そんなにわかりやすいか?」
「昔から変なところだけ勘がいいのよ」
変なところだけ。そこは褒めているのか。褒めてはいない。
でも、少し声がゆるんだ。王城の石壁に圧迫されるよりはましだ。
エレオノーラは窓の外へ視線を向けた。
「昨日、ここへ来るはずだったのは違う形だったわ」
その言葉で、俺は口を閉じた。
昨日。卒業式。断罪。
婚約破棄。剣。
本来なら彼女は王子の婚約者として、祝いの場から王城へ招かれていたかもしれない。それが今は、無実を証明するために来ている。レオンハルト殿下が壊したものは多い。
婚約だけではない。
「アルト」
「ん?」
「私、殿下の顔を見て、平気でいられるかしら」
何か軽いことを言おうとしてやめた。ここで茶化すのは違う。
「平気じゃなくていいだろ」
「公爵令嬢がそんな顔を見せるわけにはいかないわ」
「なら、俺の後ろで一回だけ変な顔していいぞ」
「変な顔ってなに」
「こう、すごく嫌そうな顔とか」
エレオノーラがこちらを見た。少し目を細める。
「あなたを見ていると、たまにそういう顔になるわ」
「練習済みだったか」
「ええ。十分に」
彼女の肩から、ほんの少し力が抜けた。笑ったわけではない。でも指の白さは少し薄くなっていた。
馬車が止まる。
扉が開いた。先に降りた護衛が周囲を確認する。続いて俺が降りた。
そのあとエレオノーラに手を差し出す。
ほんの一瞬、彼女の目が俺の手に止まった。人前だ。未婚の男女だ。
礼法的には微妙な距離感だ。
けれど馬車を降りる補助なら許される。許してほしい。エレオノーラは俺の手に指を添えた。
力はほとんどない。それでも冷たかった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
俺たちは王城の中へ案内された。
長い廊下。高い天井。壁には王族の肖像画。
どこを見ても偉い。偉すぎて逆に落ち着かない。
控えの間には、すでに父上とオスカー公がいた。父上はいつもの無表情。オスカー公は静かな顔。
どちらも怒っている時の顔である。
同じ部屋に置くには圧が強すぎる二人だ。近衛兵が少し気の毒になった。
「遅れはありません」
フェリクス・クロイツ殿が扉の前で礼をした。
「ユリウス殿下がお待ちです。陛下は現在、別件として報告を受けておられます。まずは殿下と宰相閣下の立ち会いで確認を進めます」
「宰相もいるのか」
父上が言った。
「はい。ラウレンツ・ディートリヒ閣下です」
王国宰相ラウレンツ・ディートリヒ。名前だけで書類が山になりそうな人だ。会ったことはない。
できれば会いたくもなかった。けれど今日はそうも言っていられない。
扉が開く。通された部屋は、謁見の間ほど派手ではなかった。だが机も椅子も重そうだ。
窓は高く、光が斜めに差し込んでいる。
奥に第一王子ユリウス殿下がいた。その横に細身の男が座っている。灰色の髪。
薄い唇。こちらを見る目は鋭い。
あれが宰相か。圧が強い。剣を持っていないのに圧が強い。
「クライゼル公爵。レインフォード公爵。朝からすまない」
ユリウス殿下が立ち上がった。
「構いません。娘の名誉に関わることですので」
オスカー公の声は静かだった。物音が少なすぎて落ち着かない。
「ええ。王家の名誉にも関わります」
ユリウス殿下は逃げなかった。
「だからこそ急ぎます。遅れれば遅れるほど、都合の悪いものを消そうとする者が出る」
フェリクス殿が机に書類を置いた。学園の記録。女子寮の出入り帳。
応接室の使用簿。警備詰所の巡回記録。
また紙だ。紙が多い。剣より紙の方が人を傷つける場面というのは本当にあるらしい。
ラウレンツ宰相が一枚を手に取った。紙をめくる音だけが部屋に残る。
誰も余計なことを言わなかった。俺も言わなかった。たまにはできる男である。
「まず確認します」
ラウレンツ宰相が顔を上げた。
「エレオノーラ・フォン・レインフォード嬢が、ミリア・ベルティナ嬢へ直接危害を加えた記録はありません」
エレオノーラの肩が少し下がった。たったそれだけの動きだった。けれど俺には、彼女がずっと息を止めていたように見えた。
「また、訴えの中には日時が合わないものがあります。特に茶会の件。図書室の件。女子寮前の件。この三つは、エレオノーラ嬢が別の場所にいた記録が残っております」
ラウレンツ宰相は淡々と言った。淡々としているからこそ重かった。
「出入り帳に後から加筆された跡もあります。筆跡は複数。臨時侍女ニーアの関与が疑われますが、彼女一人で行えるものではないでしょう」
「ニーアの身柄は」
オスカー公が聞く。
「現在捜索中です」
フェリクス殿が答えた。
「学園から姿を消しました。関係者の話では、昨夜遅くに王都東区へ向かった可能性があります」
「逃げたか」
父上が短く言った。
「逃げたのか、逃がされたのか。そこはまだ」
フェリクス殿は言葉を切った。父上の指が机を一度だけ叩く。低い音だった。
部屋にいた近衛の肩がわずかに動いた。
「ボルマン副学園長は」
「王城内におります」
ユリウス殿下が答えた。
「第二王子派の貴族に呼ばれていました。事情を合わせるよう迫られていた形跡があります」
「名は」
父上の声が低くなる。ユリウス殿下は一度まぶたを下ろした。
「ローデン伯爵家の者です」
ローデン。
カイル・ローデン。レオンハルト殿下の取り巻きの一人だ。騎士科にも顔を出していた。
声が大きく、腕も立つ。そして少し、いやかなり思い込みが激しい。
ゲームでは騎士枠の攻略対象だったはずだ。たしか忠義と不器用さで人気があった。現実で見ると、不器用は時々ただの迷惑になる。
「ローデン伯爵家が殿下を守ろうとしていると?」
オスカー公が言った。
「おそらくは」
ユリウス殿下は否定しなかった。
「レオンハルトを守るため、エレオノーラ嬢を悪人にする。愚かですが、考える者はいるでしょう」
「殿下」
ラウレンツ宰相が短く止めた。
「王家の言葉です」
「わかっている」
ユリウス殿下は吐き捨てるようには言わなかった。けれど苦いものを噛んだような顔をしていた。
「わかっているが、弟が剣を向けた事実は消えない。あれを守るために無実の令嬢を潰す者がいるなら、私はそちらも許さない」
その言葉で、ラウレンツ宰相の肩がわずかに落ちた。王家全体が敵ではない。それはわかる。
でもエレオノーラが王家を信じ直せるかは別だ。
彼女は黙っていた。膝の上で手を重ねている。爪が白い手袋越しでもわかるほど食い込んでいた。
「エレオノーラ嬢」
ラウレンツ宰相が呼んだ。
「はい」
「つらい確認になります。昨日、レオンハルト殿下が示した嫌疑について、あなたは一切認めない。そう理解してよろしいですか」
「はい」
エレオノーラは迷わなかった。
「私は、ミリア様へ嫌がらせを命じておりません。直接行ったこともありません。彼女を学園から追い出そうとしたこともありません」
声は落ち着いていた。けれど、少し細い。
「ただ」
エレオノーラは続けた。
「私は、ミリア様を避けておりました」
宰相の目が動く。
「理由は」
「殿下の周りが急に変わったからです。ミリア様が現れてから、レオンハルト殿下は私の言葉を聞かなくなりました。側近の方々も同じです」
俺は黙って聞いた。
「私が何かを言えば、嫉妬だと言われました。注意すれば、身分で押さえつけていると言われました。距離を置けば、陰で何かを企んでいると言われました」
エレオノーラの視線が、机の上の書類へ落ちる。
「どうすればよかったのか、今でもわかりません」
誰もすぐには答えなかった。紙が一枚、窓から入る風で少し浮いた。フェリクス殿がそれを押さえる。
ユリウス殿下は目を閉じた。
「それを弟は聞かなかった」
エレオノーラは顔を上げた。
「聞こうとしませんでした」
静かな声だった。でも、刃みたいにまっすぐだった。その時、扉の向こうが騒がしくなった。
近衛の声。押し問答。若い男の荒い足音。
フェリクス殿が扉へ向かうより先に、扉が大きく開いた。
「兄上!」
レオンハルト殿下だった。金髪は乱れ、顔には苛立ちが浮かんでいる。昨日の会場で見た時より、ずっと余裕がない。
後ろには近衛が二人。止めようとしているが、王子相手に強くは出られないらしい。
レオンハルト殿下の視線が、部屋の中を走った。父上。オスカー公。
ユリウス殿下。ラウレンツ宰相。そしてエレオノーラ。
一瞬だけ顔が強張った。すぐにまた怒りの顔へ戻る。
「なぜミリアに会わせないのですか。彼女は怯えている。昨日の件で一番傷ついているのは彼女です」
レオンハルト殿下以外の全員が、言葉を失った。昨日の件で一番傷ついているのは彼女。それを今ここで言うのか。
俺は立ち上がりかけた。父上の視線が刺さる。座った。
座ったが、拳は握った。
エレオノーラは動かなかった。ただ、目だけがほんの少し揺れた。
「レオンハルト」
ユリウス殿下の声は低い。
「ここは正式な確認の場だ。許可なく入るな」
「ですが」
「黙れ」
短い一言だった。レオンハルト殿下の口が止まる。ユリウス殿下は弟をまっすぐ見ていた。
「お前は昨日、婚約者へ剣を向けた。その相手がここにいる。まず言うべきことがあるのではないか」
レオンハルト殿下の視線がエレオノーラへ向く。彼女は立ち上がらなかった。礼もしなかった。
ただ座ったまま、元婚約者を見る。レオンハルト殿下は唇を動かした。
「……エレオノーラ」
「はい」
「昨日のことは、私も少し感情的だった」
少し。俺は奥歯を噛んだ。少し感情的だった。
あれをそう言うのか。エレオノーラは表情を変えなかった。
「そうですか」
ただそれだけ。レオンハルト殿下はその反応に苛立ったようだった。
「だが、君にも原因がある。ミリアが怯えていたのは事実だ。彼女は君に傷つけられたと言っている」
「私はしておりません」
「証拠が」
「殿下は、私の言葉を聞くおつもりがありますか」
そこで、レオンハルト殿下は止まった。エレオノーラの声は大きくない。責めるようでもない。
けれど部屋の中で一番よく通った。
「昨日も、今も。殿下はまずミリア様のお名前を出されました。私に剣を向けたことよりも、私の名誉を傷つけたことよりも、ミリア様が怯えていることを先におっしゃいました」
レオンハルト殿下の顔から血の気が引いていく。
「私は、殿下に何度も申し上げました。話を聞いてくださいと。確認してくださいと。けれど殿下は一度も私の言葉を選びませんでした」
選びませんでした。その言い方に、レオンハルト殿下の眉がかすかに動いた。
昨日の会場でもそうだった。ミリアが震えれば、殿下はそちらを見る。エレオノーラが口を開けば、言い訳だと切る。
今も順番は変わっていない。彼女が何を言うかより先に、ミリアが泣いた顔を思い出している。
「ち、違う。私は……私は君を正そうと」
「剣でですか」
短い一言だった。レオンハルト殿下の声がそこで切れた。
誰も助けなかった。ユリウス殿下も、ラウレンツ宰相も、父上も、オスカー公も。エレオノーラは一度だけまばたきをした。
「殿下。私は昨日、死ぬかもしれないと思いました」
俺は息を止めた。
「アルトが前に出なければ、私はあの場で斬られていたかもしれません。裁きもなく、弁明もなく、婚約者だった方の手で」
レオンハルト殿下の膝が少し揺れた。
「それでも殿下は、まずミリア様を心配なさるのですね」
部屋が静まり返る。レオンハルト殿下は、何か言おうとした。だが声にならない。
視線が、自分の右手へ落ちた。昨日、剣を握っていた手だ。
指が一度曲がり、すぐに開く。その顔からようやく怒りが抜けた。遅れて、自分の刃がどこへ向かっていたのか思い出したような顔だった。ユリウス殿下が立ち上がった。
「レオンハルト。お前には別室で正式に聴取を受けてもらう」
「兄上、私は」
「言い訳はそこで聞く」
「ミリアに会わせてください。彼女なら、彼女なら誤解を」
「まだ言うか」
ユリウス殿下の声が低くなった。レオンハルト殿下がびくりと肩を震わせる。
「お前が今、最初に謝るべき相手は誰だ」
返事はない。ユリウス殿下は近衛に視線を向けた。
「連れて行け。ミリア・ベルティナ嬢との接触は禁じる。私の許可なく誰も通すな」
「はっ」
近衛がレオンハルト殿下の左右に立つ。彼は抵抗しなかった。ただ、エレオノーラを見ていた。
その目に、ようやく迷いが浮かんでいる。遅い。
あまりにも遅い。扉が閉まる。音は小さかった。
なのに、その声は耳の奥に残った。
エレオノーラはまだ座ったままだった。肩は下がっていない。表情も崩れていない。
でも、手が震えていた。
俺は何も言わず、机の下で自分の手を少し彼女の近くへ置いた。触れはしない。ただ、そこに置いた。
少しして、エレオノーラの指が俺の袖に触れた。今度は掴んだ。
ラウレンツ宰相が紙を一枚置いた。
「確認を続けます」
その声で、止まっていた時間が動き出した。王城の外では、何事もなかったように朝が過ぎているのだろう。でもこの部屋では、昨日から続いていたものが一つ崩れた。
レオンハルト殿下はまだ全部をわかっていない。だが少なくとも、自分が振り下ろしかけた剣の重さだけは見え始めたはずだ。
問題はミリアだった。あの子は今、別室にいる。レオンハルト殿下に会えなくなったと知れば、次に何をする。
俺は扉の方を見た。嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。当たらなくていい時ほど、よく当たる。そして数分後。
廊下から、女性の泣き声が聞こえた。高く、弱く、助けを求めるような声。
誰もが一瞬だけ動きを止める。俺には、それが本当に怯えた声には聞こえなかった。ミリア・ベルティナは、まだ終わらせる気がないらしい。




