第5話 第一王子は笑っていない
フェリクス・クロイツ殿は、学園長室の前で待っていた。
第一王子ユリウス殿下の近侍。
その肩書きに、廊下のざわめきが細くなる。
学園長は顔色を悪くしているし、さっきまで強がっていた生徒たちは壁際に寄っていた。貴族社会において王族の名は強い。とても強い。
強すぎて胃に悪い。
フェリクス殿は二十代半ばほどの男だった。黒髪をきれいに後ろへ流し、背筋は定規でも入っているのかと思うほどまっすぐ。口調は柔らかい。
けれど目が笑っていない。
あれは仕事ができる人の目だ。そして、仕事ができる人はだいたい逃げ道を作らせない。
「クライゼル公爵閣下。レインフォード公爵閣下。急な訪問をお許しください」
フェリクス殿は深く礼をした。
「第一王子ユリウス殿下より、お二方へお伝えしたいことがございます」
父上が短くうなずく。
「ここでか」
「できれば場所を移したく存じます。学園長室は出入りが多すぎますので」
その言い方で、俺にもわかった。聞かれたくない話だ。フェリクス殿は視線を少し動かした。
その先にミリアがいた。
ミリア・ベルティナ。昨日、レオンハルト殿下の隣で泣いていたヒロイン。今日も泣きそうな顔をしている。
ただ、目だけが時々違う。
可憐な少女の目ではない。何かを測っている目だ。
「ミリア嬢にも後ほど確認をさせていただきます」
フェリクス殿が言った。ミリアは肩を震わせた。
「私、何か悪いことをしたのでしょうか」
震えた声。周囲の教師が一瞬だけ同情しかける。並んでいた教師たちの視線が、そこで揺れた。
うまい。泣き方がうまい。そう思ってしまう時点で、俺もかなり性格が悪くなったのかもしれない。
だが、エレオノーラはミリアを責めなかった。ただ、表情を変えずに見ている。
その横顔はきれいだった。きれいすぎて少し痛々しい。
「悪いことをしたかどうかを確認するために、話を伺うのです」
フェリクス殿の返事は冷静だった。ミリアの表情が固まる。すぐに戻った。
やはり早い。切り替えが早すぎる。
俺たちは学園の奥にある小さな応接室へ移動した。普段は外部の貴族を案内する部屋らしい。窓は一つ。
扉の前には近衛が二人。廊下の先にも学園の警備兵が立たされた。
内密というより軽い封鎖である。部屋に入ると、先客がいた。
金色の髪。青い目。整った顔。
どこからどう見ても王子様だ。悔しいくらい王子様である。
第一王子ユリウス・ラグナ・アルヴァレス殿下。
ゲームでは、レオンハルト殿下の兄として名前だけ出ることが多かったはずだ。攻略対象ではなかった。たしか攻略サイトにも、やたら有能な背景王子みたいな扱いで書かれていた。
背景にしては存在感がありすぎる。
ユリウス殿下は俺たちを見るなり立ち上がった。そして、最初にエレオノーラへ頭を下げた。学園長の喉が鳴った。
「エレオノーラ・フォン・レインフォード嬢。昨日、王家の者があなたに剣を向けた。婚約者でありながら言葉を聞かず、裁きの手続きも踏まなかった。まずは兄として、そして王族として謝罪する」
エレオノーラの指が動いた。ほんの少し。手袋の端をつまむように。
俺は見てしまった。見たからといって何かできるわけではない。半歩近くに立つことくらいしかできない。
「殿下」
エレオノーラは礼を返した。
「お顔をお上げください。第一王子殿下に頭を下げられては、私の方が困ってしまいます」
声は落ち着いていた。でも、少し硬い。ユリウス殿下は顔を上げた。
「あなたは困って当然だ。王家が困らせた」
その一言で、父上の目が少し細くなった。オスカー公は何も言わない。だが学園長の目元がわずかに強張る。
この第一王子は逃げる気がない。少なくとも今のところは。
「座ろう。時間が惜しい」
ユリウス殿下が言った。
全員が席につく。俺はエレオノーラの隣だった。正面にはユリウス殿下。
父上とオスカー公は両側。フェリクス殿は殿下の後ろに控えた。
俺だけ場違い感がすごい。帰りたい。でも帰ったら父上に首根っこを掴まれる。
「先ほどの記録は確認した。エレオノーラ嬢にかけられた嫌疑のうち、少なくとも複数は成立しない」
ユリウス殿下は机に一枚の紙を置いた。
「加えて、女子寮の出入り記録に改ざんの疑いがある。臨時侍女ニーアの所在も不明。副学園長ボルマンは、第二王子派の者に呼ばれて王宮へ向かった」
「第二王子派」
オスカー公が低く繰り返す。その声だけで、学園長の手が机の上で止まった。
「ええ」
ユリウス殿下は逃げなかった。
「レオンハルトを守ろうとする者たちです。弟本人のためではなく、弟を担いで自分の立場を守りたい者たちですが」
言い方が容赦ない。王子様ってもっときらきらした言葉を使うものではないのか。いや、今はきらきらしている場合ではないか。
「殿下は、なぜこちらへ」
父上が尋ねた。
「王城で話せばよろしいのでは」
「王城で待てば、先に記録を握られると思いました」
ユリウス殿下はそう答えた。
「昨夜から、レオンハルトの周辺が動いています。父上……陛下はまだ正式な聴取を命じておりません。ですが、周囲はもう処理を始めている」
「処理」
父上の声が低くなる。
「言葉を選ばずに申せば、都合の悪いものを消す動きです」
フェリクス殿が間を置いて補足した。学園長が隣にいなくてよかった。いたら倒れていたかもしれない。
「それで殿下ご自身が学園へ来られたと」
オスカー公が言った。
「はい。王城の中で誰が動いているか見えない以上、私が直接来た方が早い」
有能。めちゃくちゃ有能。弟と同じ王家とは思えない。
いや、口に出したら即死なので黙っておく。ユリウス殿下の視線が俺へ向いた。
「アルト・フォン・クライゼル殿」
「はい」
「昨日、あなたが剣を受け止めたと聞いた。礼を言う」
「いえ。俺はエレオノーラを助けただけです」
王家を助けたつもりはない。そう言いそうになって、ぎりぎり飲み込んだ。俺も少しは成長している。
ユリウス殿下は口元だけで笑った。
「それで十分だ。あなたが止めなければ、弟は王族である前に殺人者になっていた」
笑ったが、目は笑っていない。王家の焦りがそこにあった。エレオノーラは膝の上で指を重ねている。
白い手袋にしわが寄っていた。
「ユリウス殿下」
彼女が口を開いた。
「なんだろうか」
「私は、王家にどう扱われるのでしょう」
まっすぐな声だった。部屋の誰もすぐには答えない。
「昨日、私は……殿下に、せめて一度くらい聞いていただけると思っていました。何をしたのかと。なぜそうしたのかと。でも、最初に向けられたのは問いではありませんでした。罪の名前と、剣でした。今日になって記録を見れば、私がそこにいなかったことはわかります。けれど、それは斬られる前に確かめていただきたかったのです」
エレオノーラの声は震えていない。だから余計に重かった。
「私はこの国の王家に、何を信じればよいのでしょう」
ユリウス殿下の顔から表情が消えた。謝罪だけでは足りない。そんなことは誰でもわかる。
でも、それを本人の口から聞かされるのは別だ。
レオンハルト殿下は、これを聞くべきだった。剣を振り上げる前に。断罪を叫ぶ前に。
せめて一度くらい、彼女の声を聞くべきだった。
ユリウス殿下は深く頭を下げた。今度はさっきより深く。
「信じてくれとは言えない。王家はそれを失った」
エレオノーラは何も言わなかった。
「だから行動で示す。レオンハルトを守るためにあなたを切り捨てることはしない。証拠を消す者も許さない。私の名にかけて約束する」
軽い言葉ではなかった。王子が名にかける。それは社交辞令では済まない。
少なくとも俺でもわかるくらいには重い。エレオノーラは乱れのない礼をした。
「お言葉、承りました」
エレオノーラは何も言わず、もう一度だけ礼をした。指先は揃っているのに、手袋の布がかすかに引きつれている。あれが彼女の答えだった。
その時、廊下が騒がしくなった。近衛の声。急ぐ足音。
扉の外で何か短いやり取りがあった。
フェリクス殿が扉へ向かう。少しして戻ってきた。
「殿下」
「何があった」
「王宮より使者です。レオンハルト殿下がミリア・ベルティナ嬢との面会を求めておられます。かなり強く」
かなり強く。その表現がもう嫌だ。ユリウス殿下は目を閉じた。
次に目を開けた時、その青い瞳はさっきよりずっと冷えていた。
「弟は、まだ自分が何をしたか理解していないらしい」
低い声だった。俺は姿勢を正した。さっきまで浮かんでいた言葉が喉の奥へ引っ込む。
エレオノーラの指が、俺の袖に触れた。掴んだわけではない。確かめるように触れただけ。
俺は気づかないふりをした。でも、少し腕の位置を変えた。彼女が触れやすいように。
「王城へ戻る」
ユリウス殿下が立ち上がった。
「レオンハルトの聴取を前倒しする。ボルマン副学園長も王城で保護する。保護という名目で囲われる前に、こちらで押さえる」
「ミリア嬢は」
父上が聞いた。
「学園内で隔離する。女性教師と近衛をつける。誰にも会わせない。もちろんレオンハルトにも」
ユリウス殿下の判断は早かった。俺は少し見直した。いや、かなり見直した。
この人が次の王なら国はまだ何とかなるかもしれない。だが、安心するには早い。
レオンハルト殿下はミリアに会いたがっている。ミリアは俺を見るたび、予定外のものを見る目をする。そして王城では、誰かがもう証拠を消そうとしている。
昨日、俺が止めたのは剣だけだった。
今度は言葉と書類と保身が飛んでくる。剣より面倒かもしれない。
「アルト殿」
ユリウス殿下が俺を見る。
「あなたにも王城へ来てもらう。昨日の場にいた者として、そして剣を止めた者として」
「わかりました」
父上の視線が横から刺さる。断れない。断ったら家に帰ってから死ぬ。
エレオノーラが息を吸った。
「私も参ります」
オスカー公がすぐに娘を見た。
「エレオノーラ」
「お父様。私は昨日、あの場にいました。私の名前を取り戻す話なら、私がいないところで進めたくありません」
その声は静かだった。でも、折れない声だった。オスカー公はしばらく娘を見ていた。
やがて目を閉じた。
「無理はするな」
「はい」
無理はするな。無理だろう。でも止めても彼女は来る。
俺はエレオノーラを見た。彼女もこちらを見る。
「何か言いたそうね」
「いや。強いなと思って」
「強く見せているだけよ」
「それでもだ」
エレオノーラは手袋の端を直した。
「……ありがとう」
小さな声だった。俺にしか聞こえないくらいの。こういう時、気の利いた言葉が出ればいいのにと思う。
でも出ない。だから俺はうなずくだけにした。
余計なことを言わない方がいい時もある。たまには俺も学ぶのだ。部屋を出る前、俺は廊下の奥を見た。
女性教師に付き添われたミリアが、別室へ移されていくところだった。彼女は一度だけこちらを振り返った。
目が合う。泣いていない。怯えてもいない。
なぜ、と言いたげな目だった。
なぜここにいるの。なぜ邪魔をするの。なぜ同じにならないの。
そんな声が聞こえた気がした。俺は何も言わない。
ミリアはすぐに顔を伏せ、また弱々しい少女に戻った。
王城へ向かう馬車が用意される。父上とオスカー公は別の馬車へ。俺とエレオノーラは同じ馬車に乗ることになった。
もちろん護衛もいる。貴族社会はそういうところが面倒だ。
馬車が動き出す。学園の門が遠ざかっていく。昨日まで当たり前だった場所が、急に遠いものに見えた。
「アルト」
エレオノーラが呼んだ。
「ん?」
「さっき、袖に触れたことは忘れて」
「何のことだ?」
彼女は少し目を丸くした。それから、口元だけで笑った。
「そういうところ、昔から少しずるいわ」
「褒められた?」
「褒めていないわ」
「はい」
張りつめていた肩がほどける。そのやり取りで、次へ進めた。次に向かうのは王城。
そこには、まだ自分が被害者だと思っている王子がいる。最初に剣を抜いたのはレオンハルト殿下だ。
今度はその殿下が、逃げられない言葉の前に立たされる番だった。




