第4話 噂は廊下を走る
学園へ向かう馬車の中で、俺は向かいに座るエレオノーラを見ていた。いや。見ていたというと少し聞こえが悪い。
様子をうかがっていた。これならまだましだろうか。大差ないな。
エレオノーラは窓の外を見ている。姿勢はまっすぐ。表情も乱れていない。
昨日、婚約者に剣を向けられた令嬢には見えなかった。ただ、馬車の中で組んだ指は少し固い。
膝の上に置いた手が、時々きゅっと握られる。それを見るたびに、俺は余計なことを言いそうになった。大丈夫か、とか。
無理するな、とか。そういう言葉は今の彼女には邪魔だ。
だから黙っていた。俺にしてはかなり頑張っている。
「そんなに見られると落ち着かないわ」
エレオノーラが窓を見たまま言った。
「ばれてたか」
「ばれます」
「心配で」
「それもわかります」
彼女はこちらを向いた。少し目の下に疲れがある。それでも笑おうとしていた。
「でも、今は平気な顔をさせて」
「……わかった」
「本当にわかった顔ではないけれど」
「俺の顔に厳しくない?」
「昔からわかりやすいのよ。あなたは」
それは困る。貴族社会で顔がわかりやすいのはかなり不利だ。父上にもよく言われる。
昨日も言われた気がする。
馬車は王立学園へ近づいていく。卒業式の翌日だというのに、門の前には思ったより人がいた。
下級生。教師。使用人。寮に残っていた卒業生。
みんな何かを知っている顔をしている。俺たちの馬車が止まると、視線が一斉に集まった。
ああ、嫌だ。噂の中心にいるとこういう目を向けられるのか。前世で芸能人のスキャンダルを遠目に見ていた自分を少し殴りたい。
これ、当事者は全然楽しくない。
先に降りたのは父上だった。続いて俺。俺はエレオノーラへ手を差し出した。
彼女は一瞬だけ迷った。それから俺の手に指を重ねる。
白い手袋越しでも、力が入っているのがわかった。
「行こう」
「ええ」
彼女は馬車を降りた。その瞬間、ざわめきが大きくなる。
「本当に来たわ」
「レインフォード様よ」
「でも昨日、殿下に……」
「怖いわね。あれほど怒らせるなんて」
小声のつもりなのだろう。でも聞こえている。こういう時のひそひそ声はなぜかよく通る。
エレオノーラの指が、俺の手から離れた。背筋がさらに伸びる。令嬢としての鎧を着た顔だった。
俺は一歩前に出ようとした。その前に、彼女が口を開いた。
「何かご用かしら」
静かな声だった。怒鳴ってはいない。責めてもいない。
それなのに、廊下にいた生徒たちがぴたりと黙った。
「私について話すなら、どうぞ私に聞こえる声でお話しください」
誰も答えない。さっきまで噂していた令嬢が、青い顔で口を閉じた。彼女の隣にいた子息は、急に壁の模様に興味を持ったらしい。
すごい勢いで視線をそらした。
エレオノーラはそのまま歩き出した。俺は慌てて横に並ぶ。
「強いな」
「足は震えているわ」
「見えない」
「見えないようにしています」
「そっか」
「だから、今は笑わせないで」
「努力する」
少し笑いそうになったのだろう。エレオノーラは軽く俺を睨んだ。その顔を見て、俺は少し安心した。
学園長室の前には、ヴェルナー・ハルデン学園長が待っていた。白髪交じりの痩せた男だ。挨拶が長いことで有名だった人である。
式辞の途中で季節が変わるかと思ったことがある。今日はさすがに短かった。
「クライゼル公爵閣下、レインフォード公爵閣下。お待ちしておりました」
学園長は深く頭を下げた。隣には記録係らしい若い女性がいる。栗色の髪をきっちりまとめ、数冊の帳面を抱えていた。
「記録係のリーナ・アーベルです」
彼女は緊張した顔で礼をする。帳面を抱く腕に力が入りすぎている。落としそうだ。
「昨日の件に関する記録を確認したい」
父上が言った。
「すでに用意しております」
学園長はそう答えたが、声に力がない。応接用の部屋へ通されると、机の上に書類が並べられた。
卒業式会場の配置。警備記録。教師の報告。ミリア・ベルティナが訴えた被害の日時。
見るだけで頭が痛い。
でも今日は、全部をじっくり読む必要はなかった。重要なのは一つだ。エレオノーラが本当にやったのか。
リーナが最初の帳面を開いた。
「ミリア様の教本が隠されたとされる日です。この時間、エレオノーラ様は王妃教育のため王宮に入られています。馬車記録と王宮の入退出記録が一致します」
次の紙が出される。
「階段で突き落とされそうになったという件は、放課後の鐘から間もない時間です。同じ時間、エレオノーラ様は進路相談で学園長室におられました。私も廊下でお姿を確認しております」
リーナの声は震えていた。だが内容ははっきりしている。エレオノーラは机の上の紙を見ていた。
指先が、紙の端へ触れる。
自分がやっていない証拠を見て、安心する。普通ならそうなのかもしれない。けれど彼女の顔は少し違った。
こんなものがなければ信じてもらえない。そう言われたような顔だった。
「では、昨日レオンハルト殿下が示した証拠とは何だ」
オスカー公の声が低い。学園長が汗を拭った。
「殿下がお持ちだったものは、こちらで正式に保管していた記録ではございません。ミリア様の証言と、数名の生徒による申告書です」
「その数名を呼べるか」
「すでに待機させております」
待機させられていたのは三人だった。令嬢が二人。子息が一人。
昨日の会場でミリアの近くにいた顔だ。
部屋に入ってきた時は、まだ少し強気だった。だが父上とオスカー公を見た瞬間、その強気は床に落ちた。拾う気配もない。
「君たちは、エレオノーラ嬢がミリア嬢へ嫌がらせをしていたと申告した」
父上が淡々と尋ねる。
「は、はい」
令嬢の一人が答えた。
「見たのか」
「え?」
「エレオノーラ嬢が直接行ったところを見たのか」
令嬢は口を開けた。すぐには声が出ない。
「それは、その……ミリア様がそうおっしゃっていて」
「君は見ていない」
「ですが、ミリア様は泣いておられましたし」
父上の指が机を一度叩いた。令嬢の肩が跳ねる。
「涙だけで、公爵令嬢を罪に問うつもりか」
誰かの椅子が軋んだ。別の子息が慌てて口を挟む。
「で、ですが、エレオノーラ様は以前からミリア様をよく思っていなかったと」
「誰から聞いた」
今度はオスカー公が尋ねた。
「それは……周囲で、そのように」
「周囲とは誰だ」
「……覚えておりません」
「便利な周囲だな」
オスカー公は声の高さを変えずに言った。子息は黙り込む。
喉の奥でため息を押し殺した。誰も見ていない。
聞いた。泣いていた。そうらしい。
その雑な話で、公爵令嬢が断罪され、剣を向けられた。ふざけている。
でもここで怒鳴るのは違う。俺が怒鳴れば、また話が俺の方へずれる。エレオノーラの名を取り戻す場だ。
そう思った時、エレオノーラが立ち上がった。
「一つだけ、よろしいかしら」
三人がびくりとする。
「あなた方は、私がミリア様を害したところを見ていないのですね」
誰も答えない。
「見ていないなら、それで結構です。責める言葉はいくらでもあります。けれど今は不要です」
エレオノーラはまっすぐ三人を見た。
「次に誰かの涙を証拠にする時は、その涙の後ろに誰がいるのかを考えてくださいませ」
令嬢の一人が泣きそうな顔になった。エレオノーラはそれ以上言わなかった。怒鳴らない。
泣き返さない。ただ、線を引いた。
俺はその横顔を見ていた。背筋は伸びているのに、膝の上の指だけが少し遅れて震えていた。
それを見なかったことにしたら駄目だ。証言者たちが下がったあと、リーナが別の帳面を差し出した。
「こちらが女子寮の出入り記録です。ただ……」
そこで言葉が切れた。
「どうした」
父上が促す。リーナは帳面の一ページを開いた。見た瞬間、俺でもわかった。
紙の色が違う。
前後のページより新しい。綴じ直した跡もある。インクの乾き方も妙だった。
「差し替えられているのか」
オスカー公が言った。
「断定はできません。ですが昨夜、記録保管室に出入りした者がいます」
「誰だ」
「ニーアという臨時侍女です。ミリア・ベルティナ様の身の回りを手伝っていた者で、今朝から姿が見えません」
父上が書類をめくる手を止めた。ミリア。またその名前に近づく。
「臨時侍女は誰が雇った」
父上が聞く。
「副学園長のボルマンです。女子寮の人手不足を理由に、一月ほど前から」
「ボルマン副学園長はどこにいる」
学園長が机の上に視線を落とした。
「今朝、王宮へ向かいました。レオンハルト殿下に近い方から呼び出しがあったと」
ああ。面倒な匂いがしてきた。証拠を確認しに来たら、証拠を触った人間は消えた。
雇った人間は王宮へ呼ばれた。そしてその先には第二王子を守りたい連中がいるかもしれない。
きれいすぎる。嫌になるくらいに。
「アルト」
エレオノーラが俺を呼んだ。
「何?」
「ミリア様は、私が王妃教育で不在にする日をよくご存じでした」
「予定って外に出るものなのか?」
「一部は学園に共有されます。でも細かな時間までは限られた者しか知りません」
「その時間に騒ぎが起きた」
「ええ」
エレオノーラの声は落ち着いていた。怒りを飲み込んだ声だった。
「私がいない時に何かが起きる。そして私がやったことになる。今までは偶然だと思っていました」
「偶然にしては出来が良すぎるな」
俺はそう言ってから、ミリアの顔を思い出した。昨日、俺を見た目。知らない相手を見る目ではなかった。
かといって、知り合いを見る目でもない。本来いないものを見たような目。
あれは何だったのか。その時、廊下の方が少し騒がしくなった。学園長が顔を上げる。
「何事です」
扉が叩かれ、教師の一人が入ってきた。
「申し訳ございません。ミリア・ベルティナ嬢が、こちらへ来ております」
エレオノーラの表情が固まった。俺は椅子の肘掛けに手をかける。父上の視線が飛んだ。
手を戻す。危ない。
「通せ」
オスカー公が言った。少しして、ミリア・ベルティナが入ってきた。
桃色の髪。大きな瞳。守ってあげたくなるような小さな肩。
いかにも乙女ゲームのヒロインという姿だった。彼女は部屋にいる面々を見て、怯えたように身を縮めた。
「わ、私……呼ばれたと聞いて……」
震える声。潤んだ瞳。昨日までなら、周囲の男たちはこれだけで味方になったのかもしれない。
でもここにいるのは公爵二人と学園長だ。さすがに誰も反応しない。
ミリアの目がエレオノーラに向いた。次に俺を見る。そこで、ほんの一瞬だけ表情が消えた。
本当に一瞬だ。すぐに怯えた少女の顔へ戻った。
けれど俺は見た。彼女は俺を怖がっていない。驚いている。
腹を立てている。そして、わからないものを見る目をしている。
「アルト様」
ミリアがか細い声で言った。
「どうして、あなたがここに……」
「昨日の件で確認があるからです」
俺は普通に答えた。ミリアの指がドレスを握る。
「昨日も……どうして……」
声が小さすぎて、聞き取れない者もいただろう。でも俺には聞こえた。どうして。
それは、事件を起こした相手に向ける言葉ではなかった。予定と違うものを見た人間の声だった。
背中が冷えた。
「ミリア嬢」
父上が低く呼んだ。
「あなたには確認したいことがある」
ミリアははっとしたように顔を上げた。そして、また可憐な少女の顔になる。
「はい。私に答えられることでしたら」
その切り替わりが早すぎた。俺はエレオノーラを見た。彼女も俺を見ていた。
同じものを見たのだと思う。震える声と潤んだ瞳だけを信じるには、さっきの顔が一瞬、冷たすぎた。
その時、再び扉が叩かれた。今度は別の教師が慌てた顔で入ってくる。
「失礼いたします。第一王子ユリウス殿下の近侍、フェリクス・クロイツ殿が学園へ到着されました。両公爵家へ内密にお伝えしたいことがあるとのことです」
王子様の兄まで来た。昨日から王族関係の予定が詰まりすぎている。普通の卒業後生活はどこへ消えた。
だが、今は文句を言っている場合ではない。
ミリアはフェリクス殿の名を聞いた瞬間、目を細めた。それもすぐ消えた。でも、もう見逃さない。
学園の廊下を走っていた噂は、ここで形を変え始めた。
悪役令嬢が本当に悪だったのか。かわいそうなヒロインは本当に泣いていただけなのか。答えはまだ出ていない。
けれど、昨日まで一方に傾いていた視線が、少しずつ別のものを探し始めていた。




