第3話 二つの公爵家は声を荒げない
翌朝、俺はいつもより早く起こされた。
いや。正確にはほとんど眠れていなかった。卒業式で第二王子の剣を受け止めた。
エレオノーラに勢いで告白した。帰宅後は父上に怒鳴られた。夜にはレインフォード公爵家から手紙が届いた。
これでぐっすり眠れるやつがいたら、そいつの心臓は鉄でできている。俺の心臓は普通なので無理だった。
「アルト様。お支度を」
ロランがいつも通りの顔で寝室に入ってきた。この男、昨日あれだけの騒ぎがあったというのにまるで変わらない。執事という職業は精神を鋼にするのだろうか。
「今何時だ」
「日の出からしばらくでございます」
「早すぎない?」
「本日はレインフォード公爵閣下がお越しになります」
「それは知ってるけど」
「婚約破棄されたばかりの公爵令嬢と、その場で告白した公爵令息が同席する会合です。寝癖のまま出るおつもりでしたか」
「そこだけ切り取ると俺が完全にまずいやつみたいだな」
「切り取らずとも、かなりまずい立場でございます」
ぐうの音も出ない。俺は大人しく起き上がった。
顔を洗う。髪を整えられる。いつもよりきっちりした服を着せられる。
前世なら寝癖を水で押さえて終わりだったのに、今世では襟の角度ひとつで家の品格がどうこう言われる。
貴族社会は面倒くさい。これは何度でも言っていきたい。
「ロラン」
「はい」
「今日の俺は何をすればいい?」
「まず余計なことを言わないことです」
「いきなり難しいな」
「次に、エレオノーラ様のお顔を見てにやけないことです」
「難易度が上がった」
「最後に、グラディウス様が怖いからといって視線をそらし続けないことです」
「無理では?」
「頑張ってくださいませ」
応援が軽い。支度を終えた俺は応接室へ向かった。昨日のような父上の執務室ではない。
今日は家同士の話し合いだ。俺が怒られる場ではなく、客を迎える場になる。
怒られないはずだ。……はずだ。扉の前に着くと、すでに父上と母上がいた。
父上は昨日よりさらに厳しい顔をしている。母上は穏やかに微笑んでいるが、目だけは笑っていない。
なるほど。今日のクライゼル公爵家はかなり怒っている。
「アルト」
「はい」
「レインフォード公爵の前では言葉を選べ」
「はい」
「エレオノーラ嬢の前でも同じだ」
「はい」
「特に頬をつまむな」
「……はい」
なぜ知っている。会場でやったから誰かが見ていたのだろう。貴族社会の目が多すぎる。
ほどなくして、レインフォード公爵家の馬車が到着したという知らせが入った。
応接室の扉が開く。最初に入ってきたのはオスカー・フォン・レインフォード公爵だった。
落ち着いた金髪に冷静な青い目。柔らかそうな顔立ちなのに、目だけは少しも笑っていない。怒鳴るタイプではない。
声を荒げずに相手の逃げ道を塞いでいくタイプだ。父上とは別方向で、相手を黙らせる人だ。
その後ろにエレオノーラがいた。昨日と同じように、顔は下げていない。歩き方も表情も崩れていない。
でも顔色は悪かった。
当たり前だ。昨日、婚約者に殺されかけたのだ。平気な顔をしている方がおかしい。
彼女は俺と目が合うと、笑おうとして失敗したように唇を動かした。
俺はそこでロランの言葉を思い出す。にやけるな。いや、今にやけたら最低だ。
「クライゼル公爵。急な申し出にもかかわらず、朝から時間をいただき感謝する」
「こちらこそ、レインフォード公爵。昨夜のうちに使者を送っていただき助かった」
父上とオスカー公が礼を交わす。表向きは丁寧だ。だが誰も茶に手を伸ばさない。
卒業式翌朝のさわやかさなど一つもない。俺とエレオノーラもそれぞれ挨拶をした。
「昨日は助けていただき、ありがとうございました。アルト様」
「当然のことをしただけです。エレオノーラ様がご無事で何よりです」
様。敬語。他人行儀。
自分で言っておいて何だこの距離感はと思った。でも両家の親が見ている前で「エレオノーラ、大丈夫か?」などと言えるはずがない。
言ったら父上の眉間が割れる。
エレオノーラもそれはわかっているのだろう。ほんの少し口元を動かした。笑うのをこらえた顔だった。
席に着くと、オスカー公がすぐに口を開いた。
「まず確認させていただきたい。昨日、レオンハルト殿下は娘を断罪し、その場で剣を抜いた。アルト殿が割り込まなければ娘は斬られていた。そう見てよいか」
「はい」
俺は答えた。
「殿下は剣を振り下ろす直前でした。止めるにはこちらも剣を出すしかありませんでした」
「怖かっただろう」
「かなり」
「それでも前へ出たのだな」
「はい」
オスカー公はしばらく俺を見た。責める目ではなかった。見極める目だ。
「娘を救ってくれたこと、父として礼を言う」
そう言って、オスカー公は頭を下げた。俺は慌てて立ち上がりかけた。父上の視線が飛んでくる。
ぎりぎりで座り直した。危ない。礼儀作法事故を起こすところだった。
「頭をお上げください。私は自分がしたいことをしただけです」
「それでも救われた命がある」
オスカー公の横で、エレオノーラが膝の上の指を見た。その指が膝の上で握られている。白い手袋にしわが寄っていた。
昨日の彼女は、一瞬だけ本気で死を受け入れようとしていた。婚約破棄されるくらいなら家の名誉のために斬られた方がいいと。
今思い出しても腹が立つ。ふざけるな、と。名誉なんて、生きていなければ取り返せない。
「エレオノーラ」
オスカー公が娘の名を呼んだ。
「はい。お父様」
「お前の口からも話しなさい。昨日、何をされたのか。何を言われたのか」
エレオノーラのまつげが揺れた。部屋の中に紙をめくる音もない。誰も急かさなかった。
「レオンハルト殿下は、私がミリア様を害したとおっしゃいました」
声は澄んでいた。でも少し硬い。
「私が否定しても聞いてはいただけませんでした。証拠があると。罪は明白だと。裁判を待つ必要はないと」
エレオノーラはそこで一度だけ息を吸った。
「そのあと剣を抜かれました」
母上が扇を閉じた。ぱちん、と乾いた音が鳴る。それからしばらく、誰も椅子を引く音すら立てなかった。
「怖かったですか」
母上が扇越しに尋ねる。エレオノーラの視線が一度だけ床へ落ちた。
「怖くないと申し上げるのは、嘘になります」
俺は拳を握った。
「ですが、一番怖かったのは剣ではありませんでした」
彼女の声が少し沈む。
「私の言葉が、最初から届いていなかったことです」
誰もすぐには返せなかった。レオンハルト殿下は婚約者だった。好きか嫌いかは別として、何年も同じ席に並んだ相手だ。
その相手に最初から言葉を聞く気がなかった。それが、どれだけ彼女を傷つけたか。
俺は今まで、半分もわかっていなかったのだと思う。
「申し訳ない。エレオノーラ嬢」
父上が低く言った。
「クライゼル家も王家に連なる貴族として、このような事態を止められなかった責任を感じている」
「クライゼル公爵閣下が謝ることではございません」
「いや。謝らせてくれ。少なくとも、我が息子はもっと早く動けたはずだと己を責めている顔をしている」
「父上」
言わないでほしい。図星だから。エレオノーラが俺を見た。
「アルト様」
「はい」
「昨日あなたが来てくださらなければ、私はここにいません。だから、それ以上は責めないでください」
柔らかい声だった。でも逃げ場のない声でもあった。俺は観念した。
「……わかりました」
「よろしい」
エレオノーラが、口元だけで笑った。弱っているのに、俺を気遣って笑うなよ。そう言いかけてやめた。
今言えば怒られる。それに、彼女が笑おうとしているなら奪いたくなかった。
「次に嫌疑についてだ」
オスカー公が手を上げた。後ろに控えていた侍女が数冊の帳面を机に置く。
「こちらは娘の学園内での行動記録だ。正確には護衛と侍女が日々つけていたものになる」
侍女は三十代前半くらいの女性だった。栗色の髪を後ろでまとめ、鋭い目をしている。
「娘付きの侍女、マルタだ。学園内での付き添いも担当していた」
「マルタと申します」
マルタは深く頭を下げた。頼もしい証言役が出てきた。いや、こんな状況で頼もしいと思うのもどうかと思うが、今は記録と証言が必要だ。
「マルタ。短くでよい」
「はい」
オスカー公の言葉に、マルタは一冊目の帳面を開いた。
「ミリア・ベルティナ様の私物が隠されたとされる日、エレオノーラ様は王妃教育のため王宮におられました。馬車記録と王宮の入退出記録で確認可能です」
次の帳面が開かれる。
「階段で突き落とされそうになったとされる時間、エレオノーラ様は学園長室にて進路相談を受けておられました。学園長、担当教師、私が同席しております」
「噂を流したという件は」
父上が尋ねる。
「出所はまだ特定できておりません。ただしエレオノーラ様がミリア様について侮辱的な発言をされた記録はありません。逆に接触を避けていた記録ならあります」
マルタの目が俺をちらりと見た。
「アルト様から以前よりご忠告を受けておりましたので」
「ええ。アルト様は、少々うるさいくらいにおっしゃっていました」
エレオノーラがさらりと言った。少々。うるさい。
まあ事実である。反論できない。
「だが、そのおかげで記録が残った」
オスカー公が言う。
「娘はミリア嬢との接触を可能な限り避けていた。どうしても同席する必要がある場では侍女か教師を近くに置いた。それでも嫌疑が出た」
父上の指が机を一度だけ叩いた。
「証拠を作る側は、記録を確認していないか。あるいは確認できないと思ったか」
「おそらく後者でしょう」
オスカー公の声は冷たい。
「公爵令嬢が王子に断罪されれば、周囲はまず王子を信じる。まして相手は泣いている少女だ。娘の記録など、その場で出す余裕はない」
その通りだった。昨日の会場では、誰も彼女の帳面なんか見ようとしていなかった。
エレオノーラが口を開けば言い訳に聞こえ、ミリアが震えれば証拠みたいに扱われる。レオンハルト殿下が剣を抜いても、止める声は遅かった。
俺も、前世で画面越しに見ていた頃は、彼女の名前より先に悪役令嬢という言葉を思い浮かべていた気がする。
けれど昨日、彼女の白い手袋にしわが寄るのを見た。
怖いのを飲み込んで、背筋だけは崩さず立っていた。あれを見たあとで、同じ言葉では片づけられない。
だから余計に腹が立つ。
「王家がどう出るかだな」
父上が言った。
「まずはレオンハルト殿下の独断として収めたいはずだ。だがそれだけでは済まない。剣を抜いた件はもちろん、嫌疑そのものが捏造なら王家はなぜ見抜けなかったのかという話になる」
「それを避けるために、娘にも非があったことにする者が出る」
オスカー公が続けた。エレオノーラの肩が動いた。足がすくむのだろう。
また、そうされるのが。
「させません」
声が出ていた。全員の視線が俺に向く。やばい。
余計なことを言うなとロランに言われたばかりなのに。でも引っ込める気はなかった。
「エレオノーラに非があるように話を曲げるなら、私は証言します。会場で何を見たかも、彼女がこれまでどう避けてきたかも」
「アルト」
父上が俺を止めかけた。だがその前に、エレオノーラが口を開いた。
「私も証言いたします」
その声はさっきより少し強かった。
「守られるだけでは終われません。私の名誉です。私自身の口で守ります」
オスカー公が娘を見る。心配する父親の顔だった。
「エレオノーラ。無理をするな」
「無理はします」
彼女はきっぱり言った。
「ですが、無茶はいたしません。アルト様に叱られますので」
「俺?」
「昔からあなたはそうでした。危ないことをするな。記録を残せ。ミリア様に近づくな。話す時は誰かを同席させろ。うるさいくらいに」
「うるさい二回目……」
「でも、聞いておいてよかったと初めて思いました」
それは少しずるい。そんな顔で言われたら何も返せない。オスカー公の表情がわずかに緩んだ。
父上も息を吐く。父上の指が、机から離れた。
「よかろう」
父上が言った。
「両家で足並みを揃える。王家には正式に説明を求める。まずは学園の記録を押さえるべきだ」
「学園長室の記録、教師の証言、馬車記録。あとは卒業式会場にいた者の証言ですね」
俺が言うと、父上が頷いた。
「ただし騒ぎを大きくしすぎるな。噂はすでに広がっている。こちらが先に怒鳴れば、かえって娘に泥を塗る者が出る」
「面倒ですね」
「貴族とはそういうものだ」
「知れば知るほど嫌になります」
「私もだ」
父上が真顔で返した。この人、本当に貴族社会が好きではないらしい。
「アルト殿」
オスカー公が俺を見る。
「はい」
「娘を守るためとはいえ、君にも危険が及ぶ。レオンハルト殿下に恥をかかせた男として見る者もいるだろう」
「覚悟しています」
「その顔はあまり覚悟している顔ではないな」
「正直に言うと怖いです」
父上の眉が動いた。でも俺は続けた。
「王族と揉めるのは怖いです。父上にも怒られますし、貴族社会は面倒ですし、俺は本当なら平和に卒業したかったです」
エレオノーラが目を瞬かせる。
「でも昨日、前に出なかった方がずっと怖かったと思います」
部屋から話し声が消えた。
「だからやります」
オスカー公は俺を見たまま、しばらく黙った。やがて頷く。
「わかった。君を信じよう」
「ありがとうございます」
「ただし娘の頬をつまむのはやめてくれ」
「はい」
本日二度目の注意である。もうやりません。できるだけ。
その後、両家の話し合いは早かった。
王家へ正式な文を出す。学園には記録保全を求める。卒業式にいた教師と関係者を確認する。
ミリア・ベルティナと取り巻きの行動も調べる。
ひとつひとつは地味だ。剣を抜いて派手に戦う方がよほどわかりやすい。けれどエレオノーラの名誉を取り戻すには、この地味な作業がいる。
話し合いが終わる頃には昼前になっていた。
オスカー公と父上は、すぐに王家へ向けた文面の調整に入るという。母上とマルタはエレオノーラを別室で休ませようとした。だがエレオノーラは少し首を振った。
「アルト様と、少し話してもよろしいでしょうか」
父上とオスカー公の視線が俺に刺さる。俺は何もしていない。今はまだ。
「近くに人を置く」
オスカー公が言った。
「はい。お父様」
そんなわけで、俺たちは庭へ出た。少し離れたところにマルタとロランがいる。完全な二人きりではない。
貴族としては正しい。気分としては監視付き散歩である。
庭の風は冷たかった。昨日の熱が嘘みたいだった。
「アルト」
人目が離れたところで、エレオノーラはようやく俺をいつものように呼んだ。
「大丈夫か」
「その質問、昨日から何度もされています」
「何度でもする」
「では、大丈夫ではありません」
あっさり言われて、俺は言葉に詰まった。エレオノーラは庭の花壇を見ていた。季節の花が並んでいる。
卒業式の日に飾られていた花とは違う。
「怖かったです。悔しかったです。恥ずかしかった。あの場の全員に、私が罪人だと思われている気がしました」
「……うん」
「レオンハルト殿下のことを、恋人として愛していたわけではありません。けれど婚約者として、認めてもらえるよう努力してきたつもりでした」
彼女の指がスカートを握る。
「それが何も届いていなかったのだと、昨日わかりました」
俺は軽口を飲み込んだ。ここで何か言えば、それは逃げになる。
「でも、あなたは来てくれた」
エレオノーラが俺を見た。
「どうしてそこまでするのですか」
「昨日も言っただろ」
「聞きました。ですが、もう一度聞きたいのです。昨日は混乱していましたから」
逃げ道が消えた。マルタとロランは聞こえない距離にいる。聞こえないはずだ。
ロランは聞こえていそうだが。
「好きだからだよ」
俺は言った。
「昔から。前世の記憶なんか思い出す前から。だから死んでほしくなかった。悪役令嬢なんて役で終わってほしくなかった。俺にとっては、エレオノーラはエレオノーラだから」
エレオノーラの顔が少し赤くなった。でも目はそらさなかった。
「ずるいです」
「何が」
「そんな言い方をされたら、怒れません」
「怒る予定だったのか」
「ありました。頬をつままれたことと、人前であのようなことを言ったことと、無茶をしたことと」
「多いな」
「多いです」
エレオノーラはそこで口元だけをゆるめた。昨日から初めて見る、少し力の抜けた笑みだった。それを見ただけで、俺は少し救われた気がした。
「私はまだ、何も終わっていません」
「うん」
「泣いているだけでは終わりません。悪役令嬢と呼ばれたままでも終わりません。私の名前は、私が取り戻します」
「手伝う」
「ええ。手伝ってください」
彼女はそう言って、ほんの少し俺の袖を掴んだ。すぐに離す。指の跡が残った気がした。
俺は気づかないふりをした。今はそれが正解だ。
その時、屋敷の方からロランが近づいてきた。
「アルト様。グラディウス様がお呼びです」
「何かあったのか」
「学園より返答がございました。記録保全には応じるとのことです。ただし、すでに一部の学生が昨日の件について噂を広めているようでございます」
早い。やっぱり貴族社会の噂は早い。エレオノーラの指がまたスカートを握った。
「行こう」
俺は言った。
「まずは学園だ。あそこで決められた悪役令嬢の顔を、こっちから剥がしに行こう」
エレオノーラは少し驚いたあと、顎を引いた。
「ええ。参りましょう」
こうして二つの公爵家は動き出した。怒鳴らない。騒がない。
でも声を荒げずに、逃げ道を塞いでいく。相手が王子だろうとヒロインだろうと関係ない。
俺たちはエレオノーラの名を取り戻す。そのために、まずは学園へ向かうことになった。




