第2話 公爵家の報告は胃に悪い
卒業式の会場を出た俺は、クライゼル公爵家の馬車に放り込まれた。いや。本当に放り込まれたわけではない。
従者たちが両脇を固めて、無言で馬車まで案内してくれただけだ。でも気分としては放り込まれたに近い。
誰も何も言わない。普段なら「アルト様、お疲れさまでした」くらい言ってくれるロランまで黙っている。ロランはうちの執事だ。
四十代半ば。銀の混じった黒髪をきっちり撫でつけた、有能そうな顔の男である。実際有能だ。
俺が子供の頃、廊下を全力疾走して高そうな花瓶を割った時も、父上に見つかる前に破片を片づけてくれた。そしてその日の夕食後、父上にきっちり報告した。有能な裏切り者である。
「ロラン」
「はい」
「父上、怒ってると思う?」
「怒っていない可能性をお考えでしたら、その考えは今すぐお捨てください」
「ですよね」
俺は座席に背中を預けた。馬車が石畳を鳴らして動き出す。
腕がまだ少ししびれていた。レオンハルト殿下の剣を受けた衝撃が残っている。あれは本当に怖かった。
ゲームの画面越しに見る剣と、目の前で振り下ろされる剣はまったく別物だ。でも受け止めなければ、エレオノーラは斬られていた。
その考えが浮かんだ瞬間、手紙を持つ指に力が入った。会場に残った彼女の顔を思い出す。いつもの公爵令嬢の顔に戻っていた。
背筋を伸ばしていた。泣きもせず、取り乱しもしない。
強いなと思った。けど指先の震えまでは消せていなかった。
「アルト様」
ロランが抑えた声で口を開いた。
「お怪我はございませんか」
「腕がしびれてるくらいだな。あと心がしびれてる」
「それはようございました」
「心はよくないと思うんだが」
「生きていればこそでございます」
ロランの声はいつも通りだった。でも視線は俺の手元を見ている。剣を握っていた手だ。
心配はしてくれていたらしい。裏切り者とか思って悪かった。まあ父上に報告するのは間違いないので、やっぱり裏切り者ではある。
窓の外に王都の街並みが流れていく。卒業式の日だからだろう。通りには華やかな服を着た学生や家族の姿があった。
この中の誰が知っているだろうか。ついさっき第二王子が婚約者を斬ろうとして、それを悪役令嬢の幼馴染モブが止めたなんて。いや、すぐに広まるな。
貴族社会の噂は早い。前世のSNSくらい早い。しかも訂正が効かない分たちが悪い。
明日には俺が殿下を叩き伏せたことになっているかもしれない。明後日にはエレオノーラと俺が会場で抱き合ったことになっているかもしれない。抱き合ってはいない。
頬をつまんだだけだ。
……それも大概まずいな。
屋敷に着くと、俺は休む暇もなく父上の執務室へ連れていかれた。扉の前で一度だけ息を吸う。この向こうにいるのは、グラディウス・フォン・クライゼル。
俺の父にしてクライゼル公爵家の当主。元近衛騎士団にも顔が利く武門寄りの公爵で、眉間にしわを寄せるだけで若い騎士を黙らせる男だ。
逃げ場がない。第二王子の剣よりまずいと言ったのは、わりと本気である。
「入れ」
中から声がした。俺がノックする前だった。心臓に悪い。
気配でわかるのかこの人。
「失礼します」
扉を開けると、父上は執務机の向こうに座っていた。灰色の髪を後ろに流し、鋭い目でこちらを見る。その横には母上もいた。
クラリッサ・フォン・クライゼル。柔らかな茶色の髪を持つ、いつも穏やかな人だ。
ただし本気で怒ると父上より逃げ道がない。公爵家というものは、だいたい母親の方が強いのかもしれない。
「アルト」
「はい」
「怪我は」
「ありません。少し腕がしびれた程度です」
「そうか」
父上は一度だけ目を閉じた。次の瞬間、机を叩く音が部屋に響いた。
「この馬鹿者が!」
「はい!」
返事が訓練兵みたいになった。仕方ない。腹に響く声だった。
「王族の剣の前に飛び出すとは何を考えている! 相手が殿下でなければ死んでいたぞ!」
「相手が殿下でも死ぬ可能性はありました」
「屁理屈を言うな!」
「はい!」
怒られている。めちゃくちゃ怒られている。でも少し安心した。
父上は、俺が王子に逆らったことではなく、俺が死ぬかもしれない場所へ飛び込んだことに怒っている。それがわかったからだ。
「あなた」
母上が扇を伏せて言った。
「アルトは戻ったばかりです。まずは話を聞きましょう」
「……わかっている」
父上の眉間がさらに深くなった。母上の一言で止まる。やはり我が家で一番強いのは母上だ。
俺は椅子に座り、卒業式で起きたことを最初から話した。
レオンハルト殿下がエレオノーラを断罪したこと。ミリア・ベルティナへの嫌がらせだとして、いくつもの証拠を出したこと。エレオノーラが否定したこと。
殿下が剣を抜いたこと。俺が割り込んだこと。ミリアが殿下を止めたこと。
その後、殿下が婚約破棄を宣言して会場を出たこと。
話している間、父上は黙っていた。母上も口を挟まない。ただ父上の指が、机を一度だけ叩いた。
レオンハルト殿下が剣を抜いたと話した時だ。
「裁きもなく、公爵令嬢に剣を向けたか」
父上の声が低くなる。
「はい」
「証人は」
「会場にいた者のほとんどです。学生も教師も貴族も王宮関係者もいました」
「多すぎるな」
「多い方がよくないですか?」
「話がまとまる前に噂が走る」
「ああ……」
納得したくないが納得した。噂は走る。しかも勝手に服を着替えて帰ってくる。
「アルト」
「はい」
「お前はレインフォード公爵令嬢が無実だと考えているのだな」
「はい」
そこは迷わなかった。
「彼女はミリア嬢にほとんど近づいていません。幼い頃からそうしろと言ってありました。本人も記録を残しているはずです」
「幼い頃から、か」
父上の目が細くなった。来た。面倒なところに来た。
「お前は五歳の頃から、エレオノーラ嬢にレオンハルト殿下へ深入りするな、桃色の髪の少女に気をつけろと言っていたな」
「はい」
「なぜだ」
言えるわけがない。ここは乙女ゲーム『花の乙女の恥じらい』の世界で、エレオノーラは悪役令嬢として断罪される立場だからです。などと言ったら医者を呼ばれる。
母上に泣かれる。ロランに精神に効く薬草茶を出される。
「……悪い夢を見たんです」
「夢?」
「はい。エレオノーラが卒業式の日に断罪されて、最悪の場合は殺される夢です。五歳の頃から何度も見ました」
嘘ではない。おそらく。前世の記憶なんて、今の俺からすれば長い夢みたいなものだ。
かなり苦しい理屈なのはわかっている。
「それを信じて十三年、剣を振ったのか」
「はい」
「馬鹿げている」
「自分でもそう思います」
「だが現実になった」
父上はそれきり黙った。窓の外で馬車の音が通り過ぎる。執務室の中はやけに静かだった。
「アルト」
「はい」
「その夢について、今は深く聞かない」
「よろしいのですか」
「聞いたところで答えられぬ顔をしている」
ばれている。父親、容赦がない。
「だが覚えておけ。クライゼル公爵家の嫡男として動く以上、お前の言葉はお前だけのものではない。家を背負う」
「はい」
「それでもレインフォード公爵令嬢を助けると言うのか」
父上の目が俺を見た。逃げる場所はなかった。
「助けます」
声は勝手に出た。
「あいつは悪役令嬢なんかじゃありません。高飛車で、真面目で、口うるさくて、でも陰で誰かをいじめて喜ぶようなやつじゃない」
「ただの幼馴染だからか」
「はい。俺にとっては、ただのエレオノーラです」
母上が口元だけで笑った。
「アルトは昔からエレオノーラ様のことになるとまっすぐね」
「母上」
「会場で告白したという話も、そろそろ届くかしら」
「なぜそれを」
変な声が出た。母上はにこりと笑う。
「母ですから」
母、強すぎる。父上がこめかみを押さえた。
「……告白?」
「あー、その、流れで少し」
「婚約破棄直後の会場でか」
「はい」
「貴族たちの前でか」
「はい」
「この馬鹿者が」
「本日二度目いただきました」
「反省しろ」
「はい」
父上は本当に頭が痛そうだった。申し訳ないとは思う。後悔はしていない。
その時、母上が扇を膝に伏せた。笑みがすっと薄くなる。
「アルト。エレオノーラ様は、平気そうでしたか」
俺はすぐに答えられなかった。平気そうには見えた。いつものように背筋を伸ばしていた。
泣かなかった。声も震えていなかった。
でも。
「平気な顔をしていました」
「そう」
「平気な顔はしていました。けど、あの場で殿下に罪人みたいに呼ばれて、誰にも信じてもらえなくて、最後は剣まで向けられたんです。……平気なはず、ないです」
言葉にしたら、腹の底が熱くなった。レオンハルト殿下は何を見ていたのだろう。何年も婚約者として同じ場にいた相手だろうに。
何も聞かず、何も確かめず、あの場で斬ろうとした。握った手に力が入る。
「アルト」
父上が低く呼んだ。
「怒るなとは言わん。だが怒りだけで動くな」
「……はい」
「剣で守った命は、これから言葉と証拠で守ることになる」
父上は立ち上がった。仕事の顔になっていた。
「ロラン」
「はい」
いつの間にか部屋の端に控えていたロランが返事をする。気配を消すのがうますぎる。忍者か。
「レインフォード公爵へ使者を出せ。こちらはアルトから話を聞いた。今夜中に情報をすり合わせたいと伝えろ。公爵が望むなら私が向かう」
「承知いたしました」
「王宮にも文を出す。第二王子殿下の卒業式での振る舞いについて、正式な説明を求める」
「文面はいかがいたしますか」
「丁寧に書け。丁寧であればあるほど怒っていると伝わる」
「承知いたしました」
貴族こわい。丁寧なほど怒っているとか、本当に面倒な文化である。
「父上。王家はどう動くと思いますか」
「まずは火を広げぬよう動くだろう。レオンハルト殿下の独断。若さゆえの過ち。ミリア嬢を案じた末の一時の激情。そのあたりに落とし込みたいはずだ」
「エレオノーラに非があったことにする可能性は」
「ある」
父上は即答した。
「王家が最も避けたいのは、第二王子が無実の公爵令嬢を殺そうとした事実が固まることだ。ならばエレオノーラ嬢にも何かしらの非があったことにしたい者は出る」
「ふざけた話ですね」
「政治とはそういうものだ」
「嫌いです」
「私も好きではない」
少し意外だった。父上は政治を当たり前にこなす人だ。でも好きでやっているわけではないらしい。
「ミリア・ベルティナについて調べられますか」
俺がそう言うと、父上と母上の視線がこちらに向いた。
「なぜだ」
「彼女の反応が気になりました。殿下を止めた時、俺を見ていたんです。怖がっているというより、知らないものを見たみたいな顔でした」
「王子の剣を止める男など、誰が見ても驚く」
「それはそうなんですが」
うまく言えない。あの目は単なる驚きではなかった。もっと、根の深い何かがある気がした。
「それに、証拠が彼女を中心に作られているなら彼女の周辺を調べる必要があります。家柄。交友関係。学園での行動。殿下たちとの接点も」
父上はしばらく俺を見ていた。
「お前は昔から妙なところで勘が働く」
「自分では常識的なつもりです」
「五歳で桃色髪の少女を警戒しろと言い出した男が常識を語るな」
「はい」
「だが調べる価値はある。ロラン、ミリア・ベルティナについても可能な範囲で調べろ。目立つな」
「承知いたしました」
ロランが一礼して部屋を出ていく。これで公爵家として動くことになる。俺一人ではできることに限りがある。
でも家が動けば話は別だ。
当然、相手も本気になる。胃が痛い。
「アルト」
母上が俺を見た。
「あなたは彼女が悪役令嬢と呼ばれても、彼女自身を見ることができる?」
その呼び名を聞くたび、前世で見た画面の記憶が頭をよぎる。断罪される側。物語を進めるために嫌われる女。
だが俺の知るエレオノーラは、そんな一言に押し込むには近すぎた。
川辺で一緒に遊び、礼儀作法で俺を怒り、困った時には真面目な顔で考えてくれる幼馴染だった。
「見ます」
俺は答えた。
「あいつは悪役令嬢じゃありません。エレオノーラです」
母上は満足そうにうなずいた。
「なら大丈夫ね」
「大丈夫でしょうか」
「少なくとも、今の言葉を聞けて母は少し安心しました」
母上はそう言って笑った。その時、扉がノックされた。戻ってきたのはロランではなく若い侍女だった。
「失礼いたします。レインフォード公爵家より早馬が到着いたしました」
椅子の脚が床を擦る音がした。父上が立ち上がった。
「通せ」
すぐにレインフォード家の従者が入ってきた。彼は丁寧に礼をして、二通の封書を差し出す。
「オスカー・フォン・レインフォード公爵閣下より、クライゼル公爵閣下へ。またアルト様へも一通お預かりしております」
「俺に?」
小さな封書を受け取る。白い封筒。レインフォード家の封蝋。
表には整った字で、俺の名前が書かれていた。アルト・フォン・クライゼル様へ。
その文字を見ただけで、少し胸が落ち着いた。同時に妙に緊張する。父上が公爵宛の文を開く。
俺も許可を得て、自分宛の封を切った。中には短い言葉があった。
『今日は助けてくれてありがとう。私は大丈夫です。だからあなたも無茶をしすぎないで。あと、会場で言ったことについては、落ち着いてから改めて聞きます』
最後の一文で固まった。改めて聞く。聞かれる。
告白の返事というやつだろうか。
いや今はそんな場合じゃない。ないのだが、心臓だけは勝手に騒いでいる。うるさいぞ俺の心臓。
けれど手紙を折り直そうとして、俺は指を止めた。
文字はいつものように綺麗だった。でも最後の方だけ、ほんの少し線が乱れている。大丈夫です。
その文字の横に、薄くにじんだ跡があった。
涙なのか。インクが落ちただけなのか。俺にはわからない。
わからないが、手紙を折る指先が熱を持った。父上が文を読み終え、低く言う。
「レインフォード公爵は明朝こちらへ来るそうだ」
「オスカー公が?」
「ああ。娘の名誉を守るため、王家へ正式に異議を申し立てる。その前に我が家と足並みを揃えたいとな」
始まる。断罪イベントは止めた。エレオノーラは生きている。
でもこれで終わりではない。むしろここからが、俺の知っているゲームにはなかった本番だ。
俺は手紙を丁寧に折り直し、胸元にしまった。悪役令嬢の幼馴染モブに転生した俺は、どうやら剣を振るだけでは済まないらしい。
剣の次は、証拠と言葉と公爵家の面倒くさい作法で戦うことになる。
……やっぱり剣で殴る方が楽だったかもしれない。




