第21話 誰が決めるものでもない
ミリア・ベルティナの処遇が決まった翌日。俺は家の食堂で朝食を食べていた。食べていたというより、食べようとしていた。
目の前には焼きたてのパン。湯気の立つスープ。薄く切られた肉。前世なら朝から豪華すぎる品々である。
なのに味がしない。
理由は簡単だ。父上が正面にいる。母上が横にいる。
しかも二人とも、やたら静かだ。こういう時に何も言わない親は胃に悪い。怒鳴られる方がまだわかりやすい。
「アルト」
「はい」
父上が紅茶を置いた。
「今日の午後、レインフォード公爵が来る」
「はい」
「エレオノーラ嬢も来る」
「はい」
「ユリウス殿下も来る」
「はい……はい?」
最後だけおかしい。なぜ第一王子が我が家に来る。
ここは王城ではない。クライゼル公爵家の屋敷だ。いや公爵家だから来られない場所ではないのだろうけど、俺の胃にはよくない。
母上が優雅に微笑む。
「王家の方が屋敷にいらっしゃるのです。きちんとしなさいね」
「はい」
「顔に嫌だと出ています」
「出ていません」
「出ています」
母上にも読まれている。俺の顔はそんなに文字が書いてあるのか。父上が俺を見る。
「話は、お前とエレオノーラ嬢の今後についてだ」
パンを持った手が止まった。
「俺と、エレオノーラの?」
「そうだ」
父上の声はいつも通り低い。ただ、怒っているわけではない。
「ミリア・ベルティナの処分は決まった。レオンハルト殿下たちの処分も下った。だが社交界の連中は黙らん」
「でしょうね」
それはわかる。エレオノーラの名誉は回復された。でも一度広がった噂はすぐには消えない。
それどころか、今度は別の噂が生まれる。
冤罪は晴れた。なら誰が彼女を守るのか。王家はどう責任を取るのか。
レインフォード公爵家はどこと手を結ぶのか。そして、俺である。卒業式の場で王子の剣を受け止めた幼馴染。
その後も彼女のそばに立ち続けたクライゼル公爵家の息子。
噂好きの貴族からすれば、いい餌だろう。俺なら絶対食いつく。いや、前世の俺なら掲示板でスレを追っていたかもしれない。
そう思ってから、少し嫌になった。前世ノリで面白がっていい話ではない。今その噂の中心にいるのは、エレオノーラだ。
「王家に戻すべきだと言う者がいる」
父上が言った。
「戻す?」
「第一王子との婚約を考えるべきだと」
父上のナイフが皿の上で止まった。俺の手からパンが落ちかける。何とか皿の上に置いた。
「……誰がそんなことを」
「王家寄りの一部貴族だ。責任の取り方として最もわかりやすいと思っているのだろう」
「わかりやすい?」
思ったより低い声が出た。父上が俺を見る。
「落ち着け」
「落ち着いてます」
「落ち着いていない」
はい。落ち着いていません。エレオノーラは王家の都合で傷つけられた。
第二王子に信じられず、公衆の面前で罪人にされ、剣まで向けられた。それなのに責任の取り方が、別の王子との婚約。美しい帳尻合わせのつもりか。
貴族社会としては正しいのかもしれない。
でも俺は嫌だった。エレオノーラをまた、誰かの面子を守るための駒にする話だ。母上が音を立てずにカップを置いた。
「アルト」
「はい」
「怒るのは悪いことではありません。でも、怒り方は選びなさい」
「……はい」
「あなたが怒鳴れば、エレオノーラ様の立場が悪くなることもあります」
母上の言葉はやわらかい。でも痛いところを突いてくる。俺が怒ればいいという話ではない。
それで彼女が困るなら意味がない。父上が続けた。
「だから今日話し合う。王家の考え、レインフォード家の考え、我が家の考え。そして本人たちの意思をな」
「本人たち」
「お前とエレオノーラ嬢だ」
俺は黙った。パンの香りだけがやけに強く残る。俺とエレオノーラ。
幼馴染。けれど、昔のままの一言ではもう済まない。
俺は彼女を助けた。彼女は生きている。それで終わりではなかった。
これから先をどうするのか。俺たちはそれを、ちゃんと言わなければならないらしい。
午後。
レインフォード公爵家の馬車が来た。俺は玄関ホールで父上と母上の後ろに控えていた。客を迎える時の公爵家の作法というやつである。
正直、何度習っても面倒だ。でも今日は間違えられない。
馬車からまずオスカー公爵が降りた。相変わらず穏やかな顔だ。だが目は鋭い。
その後ろからエレオノーラが降りてくる。薄い青のドレスだった。派手ではない。
でも彼女にはよく似合っていた。
俺と目が合う。彼女は口元だけをゆるめた。その顔を見ただけで、俺の胃痛が少し軽くなる。
ちょろいな俺。
「クライゼル公爵。本日はお招きいただき感謝する」
「こちらこそ、レインフォード公爵」
父上とオスカー公爵が挨拶を交わす。俺も礼を取った。
「エレオノーラ様」
「アルト様」
公の場なので様付けである。口がむずむずする。エレオノーラも同じだったのか、目を細めた。
その後、少し遅れて王家の馬車も到着した。ユリウス殿下が降りてくる。付き添いはフェリクス殿だ。
第一王子が我が家の玄関にいる。
何度見ても胃に悪い。
「急な訪問を許してくれ」
「殿下をお迎えでき光栄です」
父上が礼を取る。全員が続いた。ユリウス殿下は俺を見た。
「アルト殿。顔が硬いな」
「緊張しておりますので」
「それだけか?」
「それだけです」
嘘である。でも殿下はそれ以上聞かなかった。話し合いは屋敷の応接室で行われた。
王城ほどではないが、我が家の応接室も十分広い。前世の感覚なら落ち着かない広さだ。
席はきれいに整えられている。父上とオスカー公爵。ユリウス殿下。
母上。そして俺とエレオノーラ。ロランが茶を置いて下がった。
扉が閉まる。
ロランの足音が廊下へ遠ざかる。
「先に、王家の考えを伝える」
ユリウス殿下が口を開いた。
「レインフォード公爵令嬢を第一王子の婚約者に、という声があるのは事実だ」
エレオノーラの指が動いた。俺はそれを見た。彼女は膝の上で手を重ねている。
肩は下がっていない。でも指先だけが少し強く握られていた。
「だが、それは王家の正式な意向ではない」
ユリウス殿下が続ける。
「少なくとも、私は望んでいない」
ほっとした。いや、ほっとしていいのかはわからない。でも少なくとも、ここで第一王子がエレオノーラを求める展開にはならないらしい。
乙女ゲームなら追加ルートとかありそうで困る。第一王子ルート。王道ではある。
今はやめろ。俺の胃が死ぬ。
「望まない理由を伺っても?」
オスカー公爵が尋ねた。ユリウス殿下は迷わず答えた。
「責任の名を借りた再利用になるからです」
部屋から声が消える。エレオノーラがユリウス殿下を見た。
「レインフォード公爵令嬢は、王家の失態により傷つけられた。そこで王家がもう一度婚約を結べば、外からは美談に見えるでしょう。だが本人の意思を置き去りにするなら、レオンハルトと同じ過ちを繰り返すだけです」
ユリウス殿下はそこで一度頭を下げた。
「王家の一員として、改めて謝罪する」
「殿下」
エレオノーラが慌てて立ち上がりかける。ユリウス殿下が手で制した。
「座ったままでいい。今日は君の意思を聞くために来た」
君。王族にそう言われて、エレオノーラは膝の上で指を組んだ。オスカー公爵は何も言わない。
父上も黙っている。本人に話させるつもりなのだ。エレオノーラは息を吸った。
「私は、王家との婚約を望みません」
声は静かだった。でもはっきりしていた。
「王家を憎んでいるわけではありません。殿下のお言葉にも感謝しています。けれど、今の私にはできません」
彼女の指が膝の上でほどける。
「また誰かの責任や都合のために、私の未来を決められるのは嫌です」
誰も口を挟まなかった。ユリウス殿下は真剣に聞いている。母上は目を細めていた。
「私は、私の意思で決めたいのです」
その言葉を聞いて、カップを持つ指が止まった。膝の上の手はまだ強張っている。
それでも、声は引かなかった。今のエレオノーラは、誰かに答えを預ける気がない。
「では」
ユリウス殿下が言った。
「君が望む相手はいるのか」
来た。来てしまった。俺は思わず姿勢を正す。
父上の視線が刺さった。
動くな。黙れ。余計な顔をするな。
無茶を言う。エレオノーラが俺を見た。
まっすぐに。逃げ場がない。いや、逃げるつもりはなかった。
なかったはずだ。ただ、こんなに大人たちに見守られながら来るとは思っていなかった。
前世の俺よ。乙女ゲームの告白イベントはもっと綺麗な庭とか夕暮れとかでやるものじゃないのか。公爵家の応接室で父親二人と第一王子の前でやるのは難易度が高すぎる。
「います」
エレオノーラが言った。俺の心臓が変な音を立てた。
「アルト・フォン・クライゼル様です」
終わった。いや、終わってはいない。むしろ始まった。
でも俺の内心は一度死んだ。父上が俺を見た。
「アルト」
「はい」
「お前の意思は」
聞かれると思っていた。でも実際に来ると、喉が詰まる。横を見る。
エレオノーラは俺を見ていなかった。前を向いている。でも耳が少し赤い。
俺はその赤さを見て、少し落ち着いた。
そうだ。俺がここで格好つけすぎても気持ち悪い。いつも通りでいい。
でも、大事なところは茶化すな。俺は立ち上がった。
「俺も、エレオノーラを望みます」
言った。言ってしまった。顔が熱い。
でももう戻せない。
「幼馴染だからとか、助けた責任があるからとか、そういうのもあります。でも一番は」
エレオノーラの指がまた動いた。
「俺が、彼女のそばにいたいからです」
応接室が静まり返る。母上の扇が、ぱちりと閉じた。恥ずかしさで俺が燃えているだけかもしれない。
母上が扇で口元を隠した。目が笑っている。やめてください。
その反応が一番きついです。
父上は腕を組んだまま俺を見ていた。
「覚悟はあるのか」
「あります」
「二公爵家が結びつく意味を理解しているか」
「……はい」
「本当にか」
「おそらく」
「馬鹿者」
父上の声が落ちた。すみません。でも完全に理解していると言うのは嘘になる。
公爵家同士の婚約は重い。王家に警戒される。他の貴族に利用される。
派閥も動く。
俺はその全部を完璧に把握しているわけではない。でも、それを理由に逃げる気もない。
「全部はわかっていません」
俺は言った。
「でも、わからないからやめますとは言いたくありません。必要なことは学びます。父上にも怒られます。山ほど怒られます」
「そこは確定だ」
「はい」
父上が即答した。ひどい。
「それでも、エレオノーラが望んでくれるなら、俺はそばにいたいです」
今度は茶化さなかった。父上はしばらく俺を見ていた。次にオスカー公爵を見る。
「レインフォード公爵」
「はい」
「私は、息子をまだ未熟だと思っている」
ひどい。いや事実だけど。
「だが、逃げないことだけは認めている」
父上の声が少し柔らかくなった。
「エレオノーラ嬢を軽んじることは許さない。もしこの馬鹿が彼女を泣かせるようなことをしたら、私がまず叩き直す」
「父上」
「黙れ」
「はい」
オスカー公爵が口元だけで笑った。
「頼もしいお言葉です」
そしてエレオノーラを見る。
「エレオノーラ」
「はい、お父様」
「お前は本当にそれでいいのだな」
「はい」
返事は早かった。オスカー公爵の表情が少し揺れる。父親の顔だった。
公爵ではなく、娘を心配する父の顔。
「怖くはないか」
「怖いです」
エレオノーラは正直に答えた。
「噂も、社交界も、王家とのことも、まだ怖いです。でも、怖いからといって誰かに決めてもらうのはもう嫌です」
彼女は俺を見る。
「私は、自分で選びたい。アルトを」
今度こそ俺は何も言えなかった。言葉が消えた。オスカー公爵は長く目を閉じた。
「わかった」
短い言葉だった。エレオノーラの肩から力が抜ける。
「ただし、すぐに婚約を結ぶわけにはいかない」
オスカー公爵の声が公爵に戻る。
「王家への配慮。他の公爵家への説明。社交界の沈静化。必要な手順がある」
「それは我が家も同じだ」
父上が頷く。
「正式な婚約は時期を見て発表する。まずは両家が互いを支えることを示す。婚約内定という形に留めるのが妥当だろう」
婚約内定。内定か。前世の就活みたいな言葉だなと思った。
もちろん口には出さない。今言ったら本当に叩き直される。ユリウス殿下が口を開く。
「王家としても、その形を支持する。二家が急に結びついたと見せるより、今回の事件において互いに協力した段階を踏む方がよい」
「殿下にそう言っていただけるなら心強い」
父上が答える。政治の話が始まった。発表の時期。
社交界への説明。王家がどう支援するか。他家からの反発をどう抑えるか。
必要なのはわかる。わかるが、話が急に難しくなる。俺は黙っていた。
横のエレオノーラも黙っている。でも、さっきとは違う。彼女の指はもう震えていなかった。
話し合いが終わった頃には、日が傾き始めていた。
ユリウス殿下は帰り際、俺にだけ聞こえる声で言った。
「よく言ったな」
「死ぬほど恥ずかしかったです」
「そうか。だが必要だった」
「わかっています」
ユリウス殿下は少し笑った。
「レインフォード公爵令嬢を王家に戻せという声は、私が抑える」
「ありがとうございます」
「その代わり、君は彼女の横に立て。中途半端は許さない」
俺は姿勢を正した。
「はい」
ユリウス殿下は頷き、馬車へ向かった。
第一王子はやはり第一王子だった。
格好いい。
攻略対象だったら人気出そうだ。
いや、やっぱり第一王子ルートはやめてほしい。王家の馬車が出たあと、レインフォード公爵家の馬車の準備が整うまで少し時間ができた。俺とエレオノーラは庭へ出た。
父上とオスカー公爵は屋敷の中でまだ話している。母上は何も言わずに送り出してくれた。気を遣ってくれたのだろう。
庭には夕方の風が吹いていた。花壇の花が揺れている。エレオノーラは少し前を歩く。
俺はその横に並んだ。
「疲れたな」
「ええ」
「俺、今日だけで寿命が三年くらい縮んだ気がする」
「では長生きできるように、これから鍛え直しなさい」
「父上みたいなこと言うなよ」
「必要なことですもの」
エレオノーラの口元がゆるんだ。こういう時間が戻ってきた。それが嬉しかった。
「アルト」
「ん?」
「先ほどの言葉」
「先ほど?」
「私のそばにいたいと」
俺は足を止めそうになった。やめてほしい。本人から掘り返されるときつい。
「あれは、その」
「嫌だったの?」
「嫌なわけないだろ」
即答してしまった。エレオノーラがこちらを見る。しまった。
また早すぎた。彼女の頬に赤みが差した。
「そう」
「そうです」
「敬語になっているわ」
「動揺してるんだよ」
「知っています」
彼女が楽しそうに言った。悔しい。でも、そんな顔をされると何も言えない。
エレオノーラは庭の端で立ち止まった。小さな噴水がある場所だ。子供の頃、二人で屋敷の大人たちに隠れて水遊びをして怒られたことがある。
彼女も思い出したのか、噴水を見て少し笑った。
「懐かしいわね」
「このあと二人ともびしょ濡れになって、父上に怒られた場所だな」
「あなたが先に水をかけたのよ」
「エレオノーラが澄ました顔で命令してきたからだろ」
「命令ではありません。お願いです」
「水をすくって差し出せっていうお願いは、だいぶ命令に近いと思う」
彼女が笑う。今度ははっきり笑った。その笑顔を見て、胸が詰まる。
推しだとか、ゲームのシナリオだとか、そんな言葉は急に遠くなった。
噴水の前で笑っているエレオノーラが、今は何より大事だった。
「アルト」
「ん」
「私は、まだ怖いわ」
「ああ」
「噂を聞いたら胸が冷えると思う。王城に行けば、あの日の廊下や剣の音を思い出すかもしれない」
「うん」
「それでも」
彼女の指先が、迷うように俺の袖口へ触れた。ほんの少し。でも、はっきりと。
「そばにいてくれる?」
俺は彼女を見た。茶化す場面ではない。
「いるよ」
短く答えた。
「何度でも言う。俺はエレオノーラのそばにいる」
彼女は視線を落とした。触れていた指先に少し力が入る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「それと」
「まだあるのか」
「ええ」
エレオノーラが顔を上げる。
「これからは、私もあなたの横に立つわ」
風が吹いた。庭の花が揺れる。俺は一瞬だけ言葉を失った。
助けるとか守るとか、そんなことばかり考えていた。でも彼女はもう、ただ守られる場所に戻る気はないらしい。それが嬉しかった。
胸の端に、寂しさもあった。
いや、寂しいは違うか。誇らしいのだろう。
「頼りにしてる」
「ええ。頼りにしなさい」
「頼もしいな」
「当然です。私はレインフォード公爵令嬢ですもの」
「そこは格好いいのに、手は近いままなんだな」
エレオノーラの指が止まる。そして、ぱっと離れた。
「……見ないで」
「見てない」
「見ていたわ」
「見てました」
「正直すぎるのも考えものね」
彼女はそっぽを向いた。返事の代わりに、視線だけが庭の端へ逃げる。俺は笑いそうになって、何とかこらえた。
笑ったら怒られる。でも、怒られてもいいかもしれない。そんなことを思えるくらいには、世界が明るく見えた。
レインフォード公爵家の馬車が出る時、エレオノーラは窓からこちらを見た。
俺は軽く手を上げる。彼女も手を上げた。それだけのことだ。
でも屋敷の前にいた使用人たちが、なぜか全員見なかったふりをした。やめてほしい。見なかったふりをされる方が恥ずかしい。
馬車が遠ざかる。
俺はそれを見送った。横に父上が立つ。
「浮かれるなよ」
「浮かれてません」
「顔が浮かれている」
「俺の顔は忙しいですね」
「明日から礼法と政務の勉強を増やす」
「急に地獄」
「彼女の横に立つと言ったのはお前だ」
何も言い返せなかった。そうだ。俺が言った。
ならやるしかない。父上が屋敷へ戻る。
俺もその後に続いた。明日から地獄の勉強が待っている。父上は容赦しないだろう。
母上も笑顔で逃がしてくれない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。エレオノーラが自分で選んだ未来に、俺もついていく。それが、俺たちの次の戦いになる。




