第22話(終) 幼馴染はそばにいる
婚約内定という言葉が出てから、俺の日常は少し変わった。
少しというか、かなり変わった。
朝は剣の稽古。昼は礼法。夕方から政務の基礎。夜は父上からありがたい説教。
ありがたすぎて涙が出そうだ。主に疲労で。
「アルト。肩が落ちている」
「はい」
「返事だけはよいな」
「はい」
「そこは反省するところだ」
「はい」
父上の眉間にしわが寄った。
まずい。返事だけする機械になっていた。
公爵家の息子とは大変である。前世の俺は知らなかった。いや、知っていてもやりたくない。
けれど逃げる気はなかった。
エレオノーラが自分で未来を決めた。
なら俺も、そこでみっともない姿は見せられない。そう思っている。
思ってはいる。
だからといって、父上の訓練は相変わらず厳しい。世の中も厳しい。
「聞いているのか」
「聞いております」
「では、今の内容を言ってみろ」
「……クライゼル家としての立場を忘れず、レインフォード家との結びつきを私情だけで扱わないこと」
父上は目を細めた。
「続けろ」
「エレオノーラを守ると言うなら、剣だけでなく立場と責任でも守れ」
「わかっているならよい」
父上はそう言って書類を閉じた。
褒められたのか。怒られたのか。
判断が難しい。
「アルト」
「はい」
「お前はよくやった」
俺は思わず父上を見た。
珍しい。槍が降るかもしれない。
「ただし、よくやったことと、今後もよくやれることは別だ」
「はい」
「浮かれるな」
「はい」
「だが、怯むな」
父上の声は低かった。
「お前が選んだのだろう」
俺は姿勢を正した。
「はい。選びました」
「なら最後まで立て」
「はい」
父上はそれ以上続けなかった。
そのかわり、俺の肩を一度だけ叩いた。
事件は終わった。
王家の文書は出た。レオンハルト殿下たちも、それぞれの処分を受けた。ミリア・ベルティナの名も、もう社交界で軽く口にできるものではない。
では俺の日常も元に戻るのか。
戻らなかった。
なぜなら俺とエレオノーラの婚約内定が正式に進み始めたからである。
いや、嬉しいよ。
もちろん嬉しい。ここで嫌がったら、俺は何のために剣を振っていたのかわからない。
ただし婚約というものは、好きです結婚しましょうで終わらない。
公爵家同士の結びつき。王家との距離。他家との均衡。領地の利害。儀礼。挨拶。書類。
書類。
また書類。
恋愛とは、もっと甘いものではなかったのか。
少なくとも前世の俺が見ていた乙女ゲームでは、告白したら光が差して音楽が流れていた。
現実は父上の説教が流れる。
まったく甘くない。
その日の午後、母上に呼ばれた。
呼ばれた時点で嫌な予感はした。母上は優しい。優しいのだが、断らせない時の笑顔が父上より手強い。
「アルト」
「はい」
「今夜は王城の夜会です」
「はい」
「エレオノーラ様も出席なさいます」
「はい」
「あなたも当然、出席します」
「……はい」
危ない。
今、嫌ですと言いかけた。
夜会。
社交界。
笑顔の戦場である。剣を持った方がまだわかりやすい。笑顔で毒を投げてくる人間を相手にするのは難しい。
母上は俺の表情を読んだのか、扇で口元を隠した。
「目がうるさいです」
「最近そればかり言われます」
「出るからです」
「直します」
「直すのではなく、隠しなさい」
母上はさらっと恐ろしいことを言う。
「今夜はエレオノーラ様が名誉回復後、初めて本格的な社交の場に戻られる日です」
その言葉で、俺の肩が少し上がった。
「あなたが目立つ日ではありません」
「はい」
「でも、離れすぎてもいけません」
「難しくないですか」
「難しいことをするのが貴族です」
貴族って面倒くさい。
口には出さなかった。出せば追加の礼法訓練が来る。
母上は少し表情をやわらげた。
「守ろうとして前に出るのは、あなたらしいと思います」
「はい」
「でも今日は、エレオノーラ様がご自分で立つ日です」
母上の声は静かだった。
「あなたは、彼女が立っている姿を見なさい」
俺は黙って頷いた。
夜。
王城の広間は、いつも通りやたら広かった。
天井は高い。灯りは眩しい。楽師の音は優雅。そして人の目が多い。多すぎる。
壁に花でも生えていれば、そこに紛れたい。
モブだった頃の俺ならできた気がする。今は無理だ。
卒業式の場で王子の剣を止めた男。
エレオノーラのそばに立つと噂される公爵家の息子。
その肩書きはなかなか重い。
正直、背中に米俵を背負っている気分だ。
「アルト殿」
声をかけてきたのはユリウス殿下だった。横にはフェリクス殿が控えている。
「殿下」
俺は礼を取る。
「顔が硬い」
「緊張しております」
「正直だな」
「隠す余裕がありません」
ユリウス殿下は少し笑った。
「今日は大きく動く者はいないだろう。王家が正式に立場を示した後だ。だが、目は集まる」
「でしょうね」
「君が何か言われても、まず息を飲め」
「息を飲む」
「返事を急ぐな。君は早い」
バレている。
俺は頷いた。
「肝に銘じます」
「それと」
ユリウス殿下の目が、広間の入口へ向いた。
「主役が来た」
扉が開いた。
エレオノーラが入ってきた。
深い青のドレスだった。
派手すぎない。でも弱くもない。銀の飾りが髪の中で光っていた。
会場の視線が一斉に向き、ざわめきが落ちた。
俺は息をするのを忘れかけた。
綺麗だった。
そう思った。それ以外の言葉が出てこなかった。
彼女は立ち止まらなかった。
顎を上げ、顔を伏せず、広間の中央まで歩く。オスカー公爵が少し後ろにいる。でも彼女は父親の影に隠れていない。
自分の足で歩いていた。
卒業式の日、彼女は大勢の視線に囲まれていた。
今日も同じように見られている。
けれど、広間の灯りの下に立つ横顔は違った。
逃げ場を探すような色は薄かった。
手のひらに力が入った。
母上に言われたことを思い出す。
今日は彼女が立つ日。
俺は、見ていた。
ユリウス殿下が前へ出た。
広間が静まる。
「本日、この場を設けた理由は皆も承知しているだろう」
その声はよく通った。
「レインフォード公爵令嬢エレオノーラ殿は、不当に罪を着せられた。王家はすでに文書をもって、それを認めている」
誰も口を挟まない。
「エレオノーラ殿に向けられた嫌疑は、王家の名において退ける。虚偽の証拠と証言で彼女を貶めることは、今後許さない。事実に反する噂を重ねる者も同じだ。相応の責任を取らせる」
最後の一言で、何人かの顔色が変わった。
噂を楽しんでいた連中だろう。心当たりがある顔はわかりやすい。
ユリウス殿下はエレオノーラに向き直った。
「エレオノーラ殿。王家の一員として、重ねて詫びる」
広間の中央で、第一王子が頭を下げた。
会場が息を飲む。
エレオノーラは一瞬だけ視線を落とした。
でもすぐに顔を上げる。
「ユリウス殿下。王家のお言葉、確かに承りました」
声は震えていなかった。
「私はレインフォード公爵家の娘として、恥じぬよう振る舞ってまいります」
拍手が起きた。
最初は遠慮がちに。それが広がっていく。
俺も拍手した。強めに。
父上が横目で見てきたので、肩の力を抜いた。
挨拶の後、夜会は再開した。
とはいえ、声をかけてくる者は少し増えていた。
エレオノーラへ声をかける者が増えたのだ。
距離を測る者。謝罪する者。取り繕う者。ただ近づきたい者。
人間いろいろである。
貴族は特にいろいろだ。
その中で、ひとりの令嬢が進み出た。
ユーディット・ベッケンバウアー。
侯爵家の令嬢だ。以前、エレオノーラの立場を探るような言葉を口にしたことがある。
俺は少し身構えた。
ユーディットは深く礼をした。
「エレオノーラ様。以前は失礼な物言いをいたしました」
エレオノーラは彼女を見る。
「どの言葉のことかしら」
容赦ない。
周囲の令嬢たちが少し固まった。ユーディットも一瞬だけ詰まる。
それでも、彼女は姿勢を保った。
「婚約破棄によって、あなた様のお立場が弱くなったかのように申したことです」
「そうね。失礼でした」
「申し訳ございません」
ユーディットはもう一度頭を下げた。
エレオノーラはすぐには答えなかった。
近くのグラスが鳴った。
誰かが持つ手に力を入れたのだろう。
「その言葉は受け取ります」
エレオノーラが言った。
「けれど次に同じことを言えば、私はあなたを友人候補から外します」
「友人候補……ですか」
「ええ。あなたは愚かではありませんもの。言葉を間違えたのなら、次は選び直せるでしょう」
ユーディットの目が揺れた。
「ありがとうございます。次は間違えません」
そのやり取りを見て、周囲の令嬢たちが目を見合わせた。
エレオノーラは相手を見て、線を引くところは引く。
でも相手が改めるなら、道は閉ざさない。
強い。
前に出て守りたくなる俺より、よほど大人かもしれない。
いや、それは薄々わかっていた。
俺は壁際で、それを見ていた。
声はかけない。
出しゃばらない。
母上に言われた通りにする。
難しい。
剣で割り込む方が楽だ。
しばらくすると、今度は若い貴族子息がエレオノーラに近づいた。
顔に覚えがある。
卒業式の日、レオンハルト殿下の側で笑っていた連中の一人だ。直接手を出した記録はないが、会場で彼女を見下ろしていた男だ。
彼はぎこちない笑みを浮かべた。
「エレオノーラ様。このたびは災難でしたね」
災難。
俺は一歩出かけた。
出かけて止まる。
エレオノーラがこちらを見たからだ。
ほんの一瞬。
来なくていい、と目で言われた。
俺は奥歯を噛んで止まった。
彼女は子息へ向き直る。
「災難、ですか」
「ええ。その、巻き込まれたというか」
「私は巻き込まれたのではありません」
広間の音が少し遠くなる。
「罪人として扱われました。婚約者に信じられず、剣を向けられました。それを災難と呼ぶのなら、あなたの言葉はずいぶん軽いのですね」
子息の顔が青ざめた。
周囲の声も途切れる。
エレオノーラは声を荒らげていない。笑ってもいない。
ただ、まっすぐ見ている。
「謝罪のつもりなら、言葉を選び直しなさい」
「も、申し訳ございません」
子息は深く頭を下げた。
逃げるように下がる。
その後ろで、彼の父親らしき男が顔を真っ赤にしていた。
帰ったら叱責されるだろう。
いいぞ。もっと怒られろ。
俺は心の中だけで拍手した。
表には出さなかった。
偉い。
今日の俺は偉い。
父上の視線が刺さった。
何もしていないのに怒られた気分になった。
夜会も半ばを過ぎた頃。
エレオノーラがこちらへ歩いてきた。
俺は壁際から姿勢を正す。
「お疲れ」
「ええ。とても疲れたわ」
「休むか?」
「少し」
彼女はそう言って、俺の横に立った。
人の目がある。
近すぎない。でも離れすぎてもいない。
この距離が貴族的に正しいのか、俺にはまだよくわからない。
父上が何も言ってこないから、許容範囲なのだろう。
「大丈夫か」
俺は声を落とした。
「……あまり、大丈夫とは言えないわ」
正直な返事だった。
「怖かった。今も少し怖い。誰かが笑うたび、私のことかと思ってしまう」
「うん」
「でも、下を向いたらもっと悔しいの」
エレオノーラは広間を見る。
「私は何もしていない。なら、堂々としていたい」
その横顔は綺麗だった。
綺麗で、少し痛々しかった。
「無理はするなよ」
「しているわ」
「そこは否定してくれ」
「嘘は嫌いなの」
「知ってる」
彼女の肩から力が抜けた。
それを見て、俺の肩の力も少し抜ける。
「でも、無茶はしないわ」
「本当か?」
「あなたにだけは疑われたくないわね」
「俺の無茶は必要経費だったので」
「便利な言葉ね」
エレオノーラは扇で口元を隠した。
少し間が空く。
「アルト」
「ん?」
「今日は、あなたに守られに来たわけではないの」
「わかってる」
「本当に?」
「母上にも言われた。今日はエレオノーラが立つ日だって」
「クラリッサ様が」
彼女の表情がやわらかくなる。
「そう。なら、ちゃんと見ていた?」
「見てた」
「どうだった?」
「綺麗だった」
即答した。
エレオノーラの動きが止まる。
しまった。
もう少し何かあっただろう。強かったとか、立派だったとか、そういう言葉が。
でも出てきたのがそれだった。
「……そこは、もう少し言い方を考えるところでしょう」
「すまん。頭が働かなかった」
「褒められているのに困るわ」
「困らせるつもりはなかった」
「知っているわ」
エレオノーラは視線だけを横へ逃がした。
俺は見ないふりをした。
見ているけど、見ないふりをした。
すると彼女が一歩だけこちらへ近づいた。
「アルト」
「はい」
「踊ってくださる?」
今度は俺が止まった。
音楽が変わったばかりだった。
広間の中央では、何組かがすでに踊り始めている。
俺とエレオノーラが踊る。
周囲に見せる意味を持つ一曲だ。
彼女はそれをわかった上で、手を差し出している。
「嫌?」
「嫌なわけないだろ」
「では、手を」
俺は彼女の手を取った。
細い手だった。
でも弱くはない。
広間の視線が集まる。
父上がどこかで見ている気がする。母上はきっと笑っている。ユリウス殿下も見ているだろう。
緊張で足が固まりかけた。
「アルト」
エレオノーラが小声で言う。
「私の足を踏んだら怒るわよ」
「急に現実に戻すな」
「大事なことですもの」
「努力します」
「努力ではなく成功して」
やっぱり厳しい。
でもそのおかげで少し落ち着いた。
俺たちは広間の中央へ出た。
音楽に合わせて動き出す。
最初の一歩。
どうにか踏まなかった。
よかった。
俺の命は繋がった。
エレオノーラが近くで笑う。
「今、安心したでしょう」
「顔に出てたか」
「ええ」
「俺の顔は本当に忙しいな」
「見ていて飽きないわ」
「それは褒めてる?」
「おそらく」
彼女の声が楽しそうだった。
広間のざわめきが遠くなる。
灯りの熱も、人の視線も、遠くなった。
目の前にエレオノーラがいる。
足元が、ようやく定まった気がした。
「ねえ、アルト」
「ん?」
「今、私、下を向いていない?」
小さな声だった。
広間の視線は、まだこちらに集まっている。
彼女は笑っている。
でも、手の力は少し強い。
「向いてない」
俺は短く言った。
「ちゃんと前を見てる」
「そう」
「誰よりも」
「言いすぎよ」
「言いすぎじゃない。俺の幼馴染で、俺が好きな人だ」
言ってから、少し後悔した。
ここは広間の真ん中だった。音楽があるとはいえ、距離は近い。周りに聞こえていない保証はない。
エレオノーラの顔が赤くなる。
「……あなた、本当にそういうところが」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
「嬉しいのだから、困るの」
俺は何も言えなくなった。
反則だろ。
こっちの台詞だ。
曲が終わる。
俺たちは礼をした。
拍手が起きた。
どこまでが礼儀で、どこまでが好奇心なのかはわからない。
エレオノーラは視線を下げなかった。
俺は半歩横で立ち止まる。
俺の横で、彼女は自分で背筋を伸ばしていた。手の力はまだ残っている。それで十分だった。
夜会の終わり際。
エレオノーラはもう一度だけ俺のそばに来た。
人目の少ない柱の陰だった。
近くには必ず目がある。
貴族の夜会でそんな不用心なことをすれば、父上とオスカー公爵が同時に飛んでくる。
「今日はありがとう」
「俺は見てただけだ」
「それでよかったの」
エレオノーラは少し疲れた顔で笑った。
「ちゃんと立てていたかしら」
「立ってた」
「本当に?」
「広間の誰よりも」
「言いすぎよ」
「言いすぎじゃない」
彼女は視線を落とした。
窓の外で馬車の音が遠ざかった。
嫌な静けさではなかった。
「アルト」
「ん」
「今度は、私があなたの手を取ってもいいかしら」
俺は息を止めた。
あの日、俺は彼女の前に出た。卒業式の会場で剣を受け止めた。
でもそれは、俺が勝手にやったことだ。
今度は彼女が、自分の意思で手を伸ばしている。
俺はその意味を間違えたくなかった。
「もう選ばれてると思ってた」
「そういう返しをするところが、あなたらしいわ」
「駄目だったか?」
「いいえ」
エレオノーラの口元がゆるんだ。
「それなら、何度でも選ぶわ」
指先まで熱が移った気がした。
俺は彼女の手をそっと取った。
「俺も何度でも選ぶ」
彼女の指が、少し俺の指を握り返した。
会場の外から夜風が入ってくる。
遠くで楽師が最後の曲を奏でていた。
その夜、エレオノーラは最後まで顔を伏せなかった。
俺は半歩横で、彼女が差し出した手の温度をしばらく覚えていた。
それから数日が過ぎた。
平穏を取り戻した、と言いたいところだが、そんなことはなかった。
婚約内定の手続きは進み、両公爵家の間では正式な調整が始まった。
母上は準備を楽しんでいる。楽しみにされすぎて、俺の胃が重い。
父上は相変わらず厳しい。でも時々、俺を見る目がやわらかくなった。
気のせいかもしれない。
気のせいではないと思いたい。
ユリウス殿下は王家の立て直しに忙しいようだった。
たまに顔を合わせると、俺に向かって疲れた笑みを浮かべる。
君もこちら側へ来い。
そんな目だ。
嫌です。
俺は心の中で全力で断っている。
とはいえ逃げられないのだろう。
公爵家の人間として、エレオノーラの横に立つ者として、俺もいつか色々背負うことになる。
嫌だ。
面倒だ。
逃げたい。
でも、彼女の横に立てるなら悪くない。
これを本人に言うとまた困らせるので、今は黙っておく。
エレオノーラと会えるようになったのは、それからさらに数日後だった。
場所はレインフォード公爵邸の庭。
俺が子どもの頃から何度も来た場所だ。
昔はここで追いかけっこをした。
花壇の端で転んだこともある。エレオノーラに土まみれだと怒られたこともある。
懐かしい。
そして少し気まずい。
なぜなら今の俺は、婚約内定者として招かれているからだ。
同じ庭なのに、立場が違う。
人間、成長すると面倒が増える。
「難しい顔をしているわね」
声がした。
振り向くとエレオノーラが立っていた。
今日は淡い色のドレスだった。
夜会の時のような強さはない。でも穏やかだった。
俺は返事を忘れた。
「どうしたの?」
「いや、なんか平和だなと思って」
「平和で悪いことはないでしょう」
「悪くない。最高だ」
俺がそう言うと、エレオノーラの口元がゆるんだ。
その笑い方を見て、朝から詰まっていた息がようやく戻った。
この顔を守りたかった。
そう思った。
「お父様から聞いたわ。あなた、グラディウス様にかなり鍛え直されているそうね」
「聞いたのか」
「ええ。オスカーお父様が楽しそうに話していたわ」
「楽しむところじゃないだろ」
「ふふ。大変ね」
「他人事みたいに言うなよ。エレオノーラの横に立つためにやってるんだから」
言ってから気づいた。
また余計なことを言ったかもしれない。
エレオノーラは目を瞬かせた。
それから頬に赤みが差す。
「そういうことを、急に言わないで」
「すまん」
「謝らなくていいわ。困るだけだから」
「じゃあ困らせないようにする」
「それはそれで寂しいわ」
難しい。
女性の心は攻略サイトに載っていない。載っていても俺は理解できない気がする。
俺たちは庭を歩いた。
少し離れた場所に侍女のマルタがいる。貴族の男女として当然だ。
でもマルタは距離を測っている。
さすがである。
「ねえ、アルト」
「ん?」
「あなたは、怖くなかったの?」
エレオノーラは足を止めずに聞いた。
「どれの話だ?」
「あの日。レオンハルト殿下の剣を受けた時」
「怖かった」
即答した。
ここで格好をつけても意味がない。
「本物の剣だぞ。前世の俺はそんなもの、映像かゲームでしか見たことがなかった。こっちに来てから鍛えたけど、怖いものは怖い」
「なら、どうして前に出たの」
「エレオノーラが死ぬ方が怖かったから」
彼女の足が止まった。
俺も止まる。
庭の噴水の音が聞こえた。
風が枝を揺らす。
「……あなたは時々、ずるいわ」
「ずるいか?」
「ええ。そんな言い方をされたら、怒れないもの」
「怒る予定だったのか」
「少し。無茶をしたことに」
「それは本当にすまん」
「でも、助けてくれてありがとう」
エレオノーラは真正面から俺を見た。
「私を生かしてくれて、ありがとう」
その言葉は軽くなかった。
俺は何かを返そうとした。けれど、うまく言葉が出てこない。
こういう時、気の利いた台詞が出ればいいのに。
俺は主人公らしくない。
いや、モブだったわ。
それでも今は彼女の前にいる。
「どういたしまして」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。
エレオノーラは一瞬きょとんとした。
それから肩を揺らして笑う。
「本当にあなたらしいわ」
「褒めてる?」
「ええ。今のは褒めているわ」
よかった。
庭の奥にある東屋で、俺たちは少し休んだ。
紅茶が置かれる。焼き菓子もある。
昔なら遠慮なく食べていた。今は礼儀を意識する。
人は成長するものだ。
ただし腹は減る。
「食べていいわよ」
「顔に出てたか」
「ええ」
「俺の顔、仕事しすぎだろ」
エレオノーラは楽しそうに笑った。
俺は焼き菓子を一つ取った。
うまい。
レインフォード家の菓子は昔からうまい。
「アルト」
「ん」
「私はまだ、完全に平気とは言えないわ」
彼女の声が低くなる。
「人の視線が怖い時がある。笑い声を聞くと、あの日の会場を思い出すこともある。夢に見ることもあるわ」
俺は焼き菓子を置いた。
何か言おうとして、やめた。
大丈夫だとか、もう終わったとか。
そのどれも、今の彼女に向けるには軽すぎた。
「でもね」
エレオノーラはカップに指を添えた。
「前より、自分の足で立てている気がするの」
「うん」
「あなたが私の前に出てくれた。お父様も守ってくれた。たくさんの人が動いてくれた。それは忘れないわ」
彼女は顔を上げる。
「でも最後は、私が私を信じなければ駄目なのね」
風が吹いた。
エレオノーラの髪が少し揺れる。
強いなと思った。
傷を抱えたまま席を立たなかった。その姿が、俺には強く見えた。
「エレオノーラ」
「なに?」
「俺は、エレオノーラのそういうところが好きだ」
また言った。
今回はわざとだ。
エレオノーラは庭へ視線を逃がした。
睫毛が揺れて、返事まで少し間が空いた。
「……慣れないわね」
「俺も慣れてない」
「言っている本人が?」
「心臓がすごいことになってる」
「そう」
彼女は扇で口元を隠した。
「なら、お互い様ね」
それは反則だろう。
俺は紅茶を飲んだ。
味がよくわからなかった。
それからの話は、拍子抜けするほど普通に進んだ。
王家からの正式な書状。
両公爵家の婚約に関する調整。
社交界への挨拶。
領地からの祝いの品。
忙しい。
とても忙しい。
でも、悪くない忙しさだった。
エレオノーラは以前より少し笑うようになった。
気を許した相手にだけだ。
ユーディット嬢とは少しずつ話すようになったらしい。最初はぎこちなかったが、エレオノーラは約束通り友人候補から外さなかった。
レインフォード公爵家の侍女たちは、エレオノーラの様子を見てほっとしていた。
マルタなどは俺を見るたびに、口を開くなという目をしてくる。
信頼されているのだろう。
たぶん。
季節が少し進んだ頃。
俺はまたレインフォード公爵邸を訪れた。
婚約内定の儀に向けた打ち合わせだった。
俺が理解できる範囲は少ない。
父上とオスカー公爵と母上とレインフォード公爵夫人が話すと、だいたい俺は置いていかれる。
エレオノーラも似たようなものらしい。
気づけば俺たちは庭へ出されていた。
いや、出されたというより逃がされた。
大人たちの配慮である。
ありがたい。
夕暮れの庭は静かだった。
赤い光が花壇に落ちている。
噴水の水音が小さい。
マルタは少し離れた場所にいる。この距離感にも慣れてきた。
「ねえ、アルト」
「ん?」
「あなた、昔ここで転んだわよね」
「覚えてるのか」
「ええ。派手に泣いたもの」
「泣いてない」
「泣いたわ」
「前世の記憶が戻った衝撃で混乱していただけだ」
「それは泣いたと言うのではなくて?」
反論できない。
エレオノーラは楽しそうだった。
「その時のあなた、変なことを言っていたわ」
「何を?」
「ここははなはじの世界だ、とか。王子には近づくな、とか。桃色の髪には気をつけろ、とか」
「俺、そんなに言ってたのか」
「ええ。かなり変だったわ」
五歳児としてはだいぶ危ない。
よく家に報告されなかったものだ。
「でも、覚えていてくれたんだな」
「話半分だけれどね」
「半分でも助かった」
「そうね」
エレオノーラは空を見た。
「あの時の言葉がなかったら、私はもっとミリア嬢に近づいていたかもしれない。もっと隙を見せていたかもしれない」
「それでも俺は助けたよ」
「でしょうね」
「信頼があるな」
「無茶をするという信頼ならあるわ」
「それは信用では?」
「似たようなものよ」
似ているだろうか。
違う気がする。
でもエレオノーラが笑っているなら、細かいことはいい。
「アルト」
「ん」
「あなたはまだ、逃げたいと思っている?」
不意に聞かれた。
俺は少し考える。
父上に怒られる。母上に笑顔で追い詰められる。ユリウス殿下に巻き込まれる。オスカー公爵に試される。マルタに目で注意される。
この先に待っているものを考えると、正直、背中は重い。
「思う時はある」
俺は答えた。
「でも、前ほどじゃない」
「どうして?」
「エレオノーラがここにいるから」
彼女が瞬きをした。
「逃げたら、今の顔を見られなくなるだろ」
自分で言って少し照れた。
でも今度は誤魔化さない。
「俺はエレオノーラのそばにいる」
エレオノーラは目元を和らげた。
「ええ。いてちょうだい」
「いいのか?」
「今さら聞くの?」
「確認は大事だ」
「なら言うわ」
彼女は一歩近づいた。
「私は、あなたにそばにいてほしい」
夕暮れの光のせいだろうか。
彼女の頬が赤く見えた。
いや、違う気がする。
俺も同じような顔をしている気がする。
見えなくてよかった。
「エレオノーラ」
「なに?」
「好きだ」
今度は茶化さなかった。
言葉も逃げなかった。
彼女は返事の前に、唇を結び直した。
逃げない。
「私もよ」
声は小さかった。
でも、ちゃんと聞こえた。
心臓が痛いくらい鳴る。
俺は笑おうとして失敗した。
情けない顔になった気がする。
エレオノーラはそんな俺を見て、また少し笑った。
「アルト」
「はい」
「今だけは、余計なことを言わないで」
そう言われたら、さすがの俺も黙るしかなかった。
彼女の指が、俺の袖を掴む。
昔と同じ庭。
昔とは違う距離。
風が吹いて、花の匂いがした。
彼女の顔が、言葉の届く距離より近くなった。
その先のことを、俺は誰にも話していない。
ただ、その日の別れ際まで、エレオノーラの耳はずっと赤かった。
俺も、ひどい顔をしていたと思う。
父上が帰りの馬車で、何も聞かずにため息だけついたからだ。
昔はただの幼馴染だった。
今も、それは変わらない。
ただ、彼女が袖を掴む距離は、前より近くなった。
これから先も、差し出せる時は手を差し出すし、失敗したら父上に叱られる。
たぶん、それくらいが俺には合っている。
悪役令嬢と呼ばれた彼女は、もうあの会場に置き去りにされていない。
エレオノーラ・フォン・レインフォード。
俺の幼馴染で、俺が好きな人だ。
そして俺は、ただのモブだったかもしれない。
けれど今は、彼女の隣にいる。
この先も、きっと面倒なことはある。
父上の説教もある。母上の笑顔もある。社交界の視線もある。王家からの厄介ごともあるかもしれない。
それでも、彼女が前を向いて歩くなら。
俺はその半歩横を歩く。
幼馴染は、そばにいる。
それだけは、誰に何を言われても変えるつもりはなかった。




