第20話 死なせない罰
レオンハルト殿下たちの処分が下ってから二日後。俺はまた王城にいた。また王城である。
もう本当に勘弁してほしい。衛兵に顔を覚えられるどころか、廊下ですれ違った侍女に会釈されるようになってしまった。これはよくない。
最近、裏方の気配が薄れている。
いや、さすがに今さらか。第二王子の剣を受け止めた時点で、俺の平穏なモブ人生はだいぶ派手に燃えた気がする。
「アルト」
「はい」
「余計なことを考えるな」
父上が前を向いたまま言った。逃げ場がない。まだ何も言っていないのに心を読んでくる。
公爵家当主には読心術でも必須なのかもしれない。
「何も考えてません」
「嘘をつくな」
「考えない人間はいませんからね」
「黙れ」
「はい」
このやり取りもだいぶ慣れてきた。慣れたくはなかった。今日はミリアの処遇が決まる。
レオンハルト殿下や取り巻きたちの処分はすでに下った。王家は自分たちの失態を認めた。エレオノーラの名誉は公式に回復されつつある。
それでもまだ中心にいる少女は残っている。
ミリア。
人を役として扱い、反応を覚え、同じように動かせると思っていた少女。
案内された部屋は広間ではなかった。
王族が使う小さめの会議室だ。小さめと言っても、前世の俺の家なら余裕で三つくらい入る。貴族基準は本当におかしい。
室内にはすでに陛下がいた。横にはユリウス殿下。ラウレンツ閣下もいる。
オスカー公爵とエレオノーラは少し離れた席に座っていた。
エレオノーラは淡い灰色のドレスを着ている。飾りは少ない。でも姿勢は崩れていない。
俺が入ると、彼女がこちらを見た。表情はあまり変わらない。けれど指先が動いた。
俺は頷いた。
その合図で、彼女は前を向いた。父上が陛下に礼を取る。俺もそれに続いた。
「来たか」
陛下の声は低い。
「本日はベルティナ嬢の処遇について決定する。すでに調査は終えている。だが、被害を受けたレインフォード公爵家と、その場で彼女を止めたクライゼル公爵家には立ち会う権利がある」
「ご配慮に感謝いたします」
オスカー公爵が短く答えた。父上も礼をする。俺は黙っていた。
茶化せる場面ではない。部屋の隅には護衛が多い。いつもより多い。
相手はただの令嬢だ。剣を持っているわけでもない。魔法が得意という話も聞いていない。
それでも、みんな警戒している。理由はわかる。
ミリアは普通ではない。強い弱いではなく、何をするかわからない。
「連れてこい」
陛下が命じた。扉が開く。ミリア・ベルティナが入ってきた。
白い服を着ていた。飾りはない。髪も簡単に結ばれているだけだ。
両側には侍女ではなく女性の衛兵がついている。手枷はなかった。だが手首には細い布が巻かれている。
怪我の手当てではない。自分で傷つけないようにするためのものだと、すぐにわかった。ミリアは部屋を見回した。
陛下。ユリウス殿下。ラウレンツ閣下。
父上。オスカー公爵。そしてエレオノーラ。
最後に俺。
そこで目が止まった。あの目だ。自分の知らない誰かを見るような目。
いないはずのものを見つけてしまった目。首の後ろが冷えた。何度見ても慣れない。
「……あなた」
ミリアが呟いた。俺は黙った。
「どうして、まだそこにいるの」
衛兵の一人がミリアの肩を押さえる。
「前へ」
ミリアは素直に歩いた。部屋の中央で止まる。礼はしなかった。
できなかったのか。する気がなかったのか。どちらでも同じだ。
陛下の眉が動いた。
「ミリア・ベルティナ」
「はい」
返事は軽かった。場に合わない声だった。卒業式の会場で聞いた時と似ている。
可愛らしくて、やわらかくて、人の警戒心を削る声。でも今は違って聞こえた。薄い布の下に、何か冷たいものがある。
「そなたは偽証、証拠の捏造、王族および貴族子弟への不当な誘導、レインフォード公爵令嬢への名誉毀損に関わった。加えて、第二王子による暴挙を止めるべき立場にありながら、それを促すような言動を取った疑いがある」
陛下の言葉が続く。ミリアは少し首を傾げた。
「疑い、ですか」
「確定しているものと、そなたの精神状態を理由に断定を避けるものがある」
「精神状態」
ミリアは笑った。口元だけで。
「みんなそれを言いますね。私はおかしくなんてありません。ただ覚えているだけです」
誰かが息を詰めた。ユリウス殿下の視線が鋭くなる。
「何を覚えている」
「たくさんです」
ミリアは嬉しそうに言った。
「レオンハルト様が好きな紅茶。カイル様が褒められたい言葉。セドリック様が誰にも言われたくない弱み。ノエル様がいつ泣いたか。全部、全部覚えています」
彼女の声は甘い。けれど、聞いている側の表情は硬くなっていく。
「だから、私は間違えないんです。少し言葉を間違えた時もありましたけど、次は直せました。もう一度やれば、ちゃんとうまくいくんです」
ミリアの視線がエレオノーラに向く。
「あなたも、前はもっと簡単だったのに」
オスカー公爵の手が肘掛けを握った。音はしない。でも指の関節が白くなった。
エレオノーラは動かなかった。まっすぐミリアを見ていた。
「私をどうするつもりだったの?」
エレオノーラが聞いた。声は静かだった。ミリアは瞬きをする。
「どうって」
「レオンハルト殿下に斬らせたあと、私をどうするつもりだったの」
近くにいた女官が、唇を結んだ。ミリアは少し考えた。本当に、少し考えただけだった。
「退場してもらうつもりでした」
その言い方が軽すぎた。退場。舞台から降りるみたいに。
部屋から出ていくみたいに。命が消えることを、そんな言葉で片づけた。俺の喉の奥が熱くなる。
拳を握った。
父上がちらりと俺を見た。止めるなという目ではない。まだだという目だった。
俺は息を吸った。まだ動くな。ここで怒鳴ったら、あいつの言葉が流れる。
それは駄目だ。
エレオノーラは一度だけまばたきをした。すぐに顔を上げる。
「退場、ね」
「だってあなたがいると、レオンハルト様が迷うんです。婚約者だから。家のこともあるし。だから、あなたはいない方がよかったの」
「私は人間よ」
エレオノーラの声が少し震えた。
「あなたの都合で消していいものではないわ」
ミリアは困ったように眉を下げた。
「でも、あなたは悪役令嬢でしょう?」
誰も声を出さなかった。俺も出せなかった。その言葉は知っている。
俺も使っていた。前世の記憶を思い出してから、ずっと心の中でそう呼んできた。悪役令嬢。
喉の奥に苦いものが張りついた。前世の記憶を思い出してから、俺もその言葉を使っていた。冗談みたいに、言い訳みたいに。
ミリアの口から出ると、その軽さでは済まなかった。エレオノーラの指が震える。俺は一歩動きかけた。
その前に、彼女が言った。
「違うわ」
短い声だった。ミリアが目を丸くする。
「私はエレオノーラ・フォン・レインフォードよ。あなたの都合で呼び名を決められる覚えはありません」
部屋の中で、椅子が軋んだ。俺だけではなかったはずだ。オスカー公爵が目を閉じた。
父上の肩から少し力が抜けた。ミリアだけが不思議そうな顔をしていた。
「どうして、そんなことを言うの」
「言いたかったからよ」
「前はそんなこと言わなかった」
「前の私など知りません」
ミリアの頬がひくりと動いた。初めて、明確に苛立ちが出た。
「知ってるわよ。私は知ってる。あなたが最後に何も言えずに泣いたことも、レオンハルト様に縋ったことも、みんながあなたから離れていったことも」
ミリアは一歩前に出ようとした。衛兵が押さえる。
「今回は違っただけ。変なの。こんなのじゃなかった。あなたがそんな顔をするはずない。そんな風に立つはずない」
視線が俺に突き刺さる。
「あなたがいるから」
俺はミリアを見た。
「俺のせいか」
「そうよ」
ミリアの声が強くなる。
「あなたが邪魔したの。あそこで出てこなければ、全部終わっていたのに。レオンハルト様は私を選んで、エレオノーラ様はいなくなって、みんな私を見てくれたのに」
「悪いな」
俺の声は思ったより低かった。
「俺、あいつが斬られるの嫌だったんだ」
ミリアが口を開ける。わからないという顔だった。本当にわかっていない。
俺はそれが怖かった。
「それだけ?」
「ああ。それだけだ」
「そんな理由で?」
「十分だろ」
「十分じゃない!」
ミリアが叫んだ。可愛い声はもう残っていない。
「私は何度もやったの! 何度も何度も。ちゃんと覚えて、ちゃんと直して、ようやく全部うまくいくはずだったのに! そんな、好きだからとか、嫌だったからとか、そんな理由で壊さないでよ!」
部屋が静まり返る。誰も書記に目を向けない。書くまでもない。
本人の口から、もう十分すぎるほど出ていた。陛下は長く目を閉じた。
「……ラウレンツ」
「はい」
ラウレンツ閣下が一歩前に出る。
「調査結果と本人の発言を合わせ、ベルティナ嬢には通常の刑罰だけでは不十分と判断いたします」
ミリアが笑った。
「では、処刑ですか」
その声はなぜか明るかった。俺はぞっとした。エレオノーラも気づいたのだろう。
表情が硬くなる。ミリアは両手を胸の前で握った。
「……それなら、いいわ。首? 毒? でも塔は嫌。落ちるのは、痛いから」
「ミリア・ベルティナ」
ユリウス殿下の声が飛ぶ。だがミリアは止まらない。
「早くしてください。次はもっと上手くやります。もうアルト様には近づかない。いえ、先に消せばいいのかしら。五歳の時? それとも学園に入る前?」
父上が立ち上がった。椅子が鳴る。護衛たちも動いた。
俺の背中に冷たい汗が流れる。五歳。
ミリアは俺が前世を思い出した年齢を知らないはずだ。いや、ただの勘かもしれない。過去の俺をどこかで見ていたのかもしれない。
わからない。わからないから落ち着かない。
「黙りなさい」
エレオノーラが言った。ミリアの声が止まる。エレオノーラは立ち上がっていた。
顔色は悪い。でも目は逸らしていない。
「あなたは、まだ人を消す話をしているのね」
「だって、邪魔なんですもの」
「そう」
エレオノーラは頷いた。
「なら、なおさら死なせるわけにはいかないわ」
ミリアの表情が止まった。
「……え?」
「あなたがそれを終わりにすると思っているなら、なおさらです。あなたを逃がすために、私の傷まで使われたくありません」
ミリアの顔から血の気が引いていく。
「何を、言って」
「あなたには見てもらいます」
エレオノーラは、ミリアの目を見たまま言った。
「私が明日も朝を迎えるところを。あなたが知らない日が、勝手に続いていくところを」
ミリアが一歩下がろうとした。衛兵が止める。
「いや」
声が尻すぼみになる。
「いやよ。そんなの。そんなの終わらないじゃない」
終わらない。その言葉だけが、やけに子供みたいだった。何度も終わってきたのだろう。
死んで、戻って、やり直して。だから、続くことに耐えられない。続く人生から逃げたい。
俺はミリアを見た。
可哀想だとは思わなかった。思えなかった。ただ、壊れていると思った。
壊れたものが誰かを傷つけた。だからといって、傷つけられた側が我慢する理由にはならない。陛下が目を閉じた。
「ベルティナ嬢の処遇を告げる」
ミリアが陛下を見る。その目には期待と恐怖が混じっていた。死を望む人間の目ではない。
やり直しを望む人間の目だ。
「ミリア・ベルティナは爵位継承権および貴族籍を剥奪。ベルティナ家については監督下に置き、当主の管理責任を別途問う」
ミリアは動かない。
「本人は王家直轄の静修院へ送る。外部との接触は制限。手紙も検閲の上で許可制とする。若年の貴族子弟との面会は禁止。自傷を防ぐため、常時監督をつける」
「……静修院」
ミリアの唇が震える。
「いや。そこは」
「知っているのか」
ユリウス殿下が問う。ミリアは答えない。静修院。
俺も名前だけは聞いたことがある。王家に関わる罪人や、表に出せない貴族を閉じ込める場所だ。修道院に近いが、祈りの場というより隔離の場に近い。
逃げにくい山の中。外との接触はほぼない。そこで日々を過ごす。
華やかな学園生活とは正反対だ。
「いや」
ミリアの声がかすれた。
「いやよ。あそこは何もない。誰も来ない。誰も私を見ない」
知っている。やはりミリアは知っている。過去のどこかで見たのか。
誰かの結末として知っていたのか。どちらでもいい。彼女にとって、そこは罰になる。
陛下の声は変わらなかった。
「二度とそなたが他者を利用し、貴族社会を混乱させることは許さぬ。死も許さぬ。これは王命である」
「死も、許さない」
「そうだ」
ミリアの目が揺れる。そして、俺を見た。
「あなたのせいよ」
今度の声は細かった。
「あなたが邪魔したから。あなたが出てきたから。あなたが」
「そうだな」
俺は答えた。ミリアが固まる。
「俺が邪魔した」
認めてやる。俺は邪魔した。彼女の最後の遊びをぶち壊した。
悪役令嬢が斬られる未来を壊した。ハーレムだか何だか知らないが、その先にある幸せも壊した。だから何だ。
「でもな。俺は後悔してないぞ」
ミリアの顔が歪む。
「エレオノーラが生きてるからな」
ミリアは笑おうとした。失敗した。
「そんなの、ずるい」
「何が」
「そんな一人だけを見て、そんな理由だけで動くなんて、ずるい」
「俺はもともとそういうやつだ」
「違う。あなたはそんな人じゃなかった。あなたは何もしない人だった。名前も出ない人だった。影みたいな人だった」
背筋に冷たいものが走った。それは俺が一番知っている。ゲームの中でのアルト・フォン・クライゼル。
悪役令嬢の幼馴染として一文だけ語られる存在。立ち絵もない。台詞もない。
けれど、俺はもう画面の外に立っているつもりではなかった。
名前がなくても、台詞がなくても、生きていた。この世界にいた。エレオノーラと子供の頃に野原を走っていた。
影にしては、ずいぶん騒がしい方だったはずだ。俺はミリアを見た。
「残念だったな。影にも足はあるんだよ」
父上がこめかみを押さえた。すみません。大事な場面で変なことを言いました。
でも本音だ。ミリアは呆然と俺を見ていた。その横で、エレオノーラが息を吐いた気がした。
笑ったかどうかはわからない。見たら怒られそうなので見なかった。
「連れていけ」
陛下が命じた。衛兵がミリアの両側に立つ。その時、ミリアが急に暴れた。
「いや! いやよ! 私はまだ終わってない! まだやり直せる! レオンハルト様! カイル様! セドリック様! ノエル様!」
誰も来ない。当然だ。この場にはいない。
いたとしても、もう彼女の名を聞いて走ってくる者はいないだろう。ミリアは叫ぶ。
「どうして! どうして誰も来ないの! 前は来たのに! 私が呼べば来てくれたのに!」
衛兵たちが押さえる。彼女はなおも暴れた。白い服の袖が乱れる。
結んだ髪がほどける。可憐なヒロインの姿は、もうどこにもなかった。
「エレオノーラ様!」
ミリアが叫んだ。エレオノーラの名を呼んだ。
「あなたが許してくれればいいんでしょう!? なら謝ります! 謝るから! だから、こんなのやめて! 私を終わらせて!」
エレオノーラは黙っていた。その顔は苦しそうだった。それでも、彼女は視線を下げなかった。
「私は」
エレオノーラが口を開く。ミリアの声が止まる。
「許しません」
ミリアの目が見開かれた。
「それと、あなたの都合のいい終わり方にも、付き合いません」
エレオノーラは言い切った。ひどい言葉かもしれない。けれど、その場にいた誰も彼女を責めなかった。
彼女にはそれを言う権利がある。
「連れていきなさい」
陛下がもう一度命じる。今度こそ衛兵たちが動いた。ミリアは扉の方へ引かれていく。
最後までこちらを見ていた。俺ではない。エレオノーラでもない。
誰かが来るはずの扉を見ていた。
でも扉は開かなかった。彼女を救う王子はいない。彼女に剣を捧げる騎士もいない。
優しい言葉で包む貴公子もいない。扉が閉まる。叫び声が遠くなる。
そして消えた。
しばらく誰も動かなかった。紙をめくる音もしない。咳払いもない。
陛下が椅子に深く座り直した。
「……醜いものを見せた」
その言葉は、誰に向けたものだったのだろう。オスカー公爵が首を横に振る。
「娘が受けたものに比べれば」
そこで言葉を切った。それ以上は言わない。言えば王を責める形になる。
言わなくても十分伝わる。陛下はまぶたを下ろした。
「ベルティナ家には厳罰を下す。だが、あの娘の言動には通常の罪だけでは測れぬものがある。監視は王家が責任を持つ」
「お願いいたします」
オスカー公爵が答えた。エレオノーラは座ったままだった。顔色が悪い。
無理もない。あんなものを真正面から受け止めたのだ。俺は彼女の方へ一歩近づきかけた。
父上の視線が来る。
公の場だ。勝手に動くなという目だった。わかってる。
わかってるんだけど、わかりたくない時もある。すると、エレオノーラがこちらを見た。大丈夫。
そう言いたげな目だった。
俺は足を止めた。大丈夫じゃないくせに。でも、彼女がそう見せたいなら今は従う。
ラウレンツ閣下が書類を整える。
「本日の決定は、明朝をもって正式な記録に残します。公にはベルティナ嬢の貴族籍剥奪と静修院への送致のみを発表。詳細は王家の管理下とします」
「よろしい」
陛下が頷く。
「レインフォード公爵令嬢」
「はい」
エレオノーラが立ち上がった。
「そなたには重ねて負担をかけた。王として詫びる」
「陛下」
「詫びで済むことではない。それは承知している」
陛下の声は低い。
「だが、そなたが今日あの場に立ったことで、我らは道を間違えずに済んだ」
エレオノーラは、かすかに首を横に振った。
「私は、自分のために言っただけです」
「それでよい」
陛下が頷く。
「人は自分のために立ってよい。それを忘れた者が多すぎた」
その言葉は、レオンハルト殿下へ向けられているようにも聞こえた。ミリアへ向けられているようにも聞こえた。そして、王自身へ向けているようにも聞こえた。
会議はそれで終わった。部屋を出ると、廊下は静かだった。衛兵の数は変わらない。
けれど衛兵の肩から、ほんの少し力が抜けている。
ミリアの処遇が決まった。扉の向こうへ引かれていった声も、もう聞こえない。
それでも、終わった、と口にする者はいなかった。エレオノーラは廊下の途中で足を止めた。
オスカー公爵がすぐに気づく。
「エレオノーラ」
「大丈夫です。少し」
彼女はそう言って窓辺へ向かった。オスカー公爵は俺を見る。目だけで言われた。
行け、と。父上は何も言わない。何も言わないなら許可だ。
俺はエレオノーラの横に立った。
窓の外には中庭が見える。季節の花が整えられている。王城の庭はやたら綺麗だ。
その綺麗さが、今日は少し腹立たしい。
「悪かったな」
俺は言った。エレオノーラがこちらを見る。
「何が?」
「さっき、あいつが悪役令嬢って言った時」
言葉にすると、舌の上に苦さが残った。
「俺も最初は、そう呼んでたから」
エレオノーラは黙った。責められると思った。責められても仕方ない。
俺は最初から正しく彼女を見ていたわけじゃない。前世の記憶を持ち込んで、勝手に名前をつけて、勝手に助ける理由にした。
その言葉の奥にいた子が、泥だらけの川辺で俺の額を見て真っ青になった幼馴染だと気づくまで、ずいぶん時間がかかった。エレオノーラは窓の外を見た。
「知っています」
「え」
「あなたは小さい頃から、時々変な言い方をしていたもの」
「俺そんなに漏れてた?」
「ええ。かなり」
つらい。隠していたつもりの前世知識が、幼馴染にはだいぶ漏れていたらしい。俺の情報管理はざるだった。
「でも」
エレオノーラは続けた。
「あなたは私を、その言葉だけで終わらせなかったでしょう」
俺は何も言えなかった。
「私は傷つきました。あの人にそう言われた時。あなたが知っている言葉だと、すぐにわかったから」
「……ごめん」
「ええ」
彼女はあっさり頷いた。
「では、聞いたことにします」
「軽いな」
「軽くはありません。後で菓子を要求します」
「それでいいのか」
「高いやつにします」
「急に重くなったな」
彼女の口元が少し動いた。笑った。その笑い方は弱い。
でも作り物ではなかった。肩に入っていた力が、ようやく少し抜けた。
「アルト」
「ん?」
「私は、まだ怖いです」
エレオノーラは窓に映る自分を見たまま言った。
「ミリア様は静修院へ送られます。レオンハルト殿下も処分を受けました。私の名誉も戻るのでしょう。でも、怖いものは残ります」
「うん」
「誰かに、あなたはそういう役だと言われること。知らないところで私の終わり方を決められること。周りが、それを見ているだけだったこと」
彼女の指が窓枠に触れる。
「私は、それがまだ怖い」
俺は頷いた。大丈夫だとは言わなかった。言ったところで、窓ガラスに映った彼女の指はまだ冷たそうだった。
「怖いなら、怖いって言えばいいだろ」
エレオノーラが俺を見る。
「怖いままでも、立ってたろ。さっき」
「……そうね」
「なら十分だよ」
「あなたは時々、適当なのに妙なところだけ真面目ね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「呆れています」
「いつものことだな」
彼女の声が、少し柔らかくなった。
指先が窓枠から離れる。まだ少し冷えているように見えたが、さっきまでの震えはもうない。
「アルト」
「ん」
「帰ったら、お菓子の銘柄を考えておくわ」
「本当に要求するのか」
「ええ。高いやつにします」
「覚悟しておく」
エレオノーラは少し俯いた。睫毛の影が落ちて、表情が見えなくなる。
それでも、さっきより呼吸は落ち着いていた。俺もたぶん、人のことを言える顔ではなかった。
見られたら父上に顔がうるさいと言われるやつだ。でも今日くらいは許してほしい。その日の帰り際、ユリウス殿下に呼び止められた。
「アルト殿」
「はい」
嫌な予感がした。最近、王族に呼び止められる時はだいたい面倒な話だ。ユリウス殿下は穏やかに笑っている。
その笑顔は、断る前提を最初から許していなかった。
「ミリアの処遇は決まった。レオンハルトの件も、ひとまず区切りはついた」
「はい」
「だが、まだ社交界の問題は残っている」
ほら来た。俺は心の中で頭を抱えた。ユリウス殿下の視線が、少し離れた場所にいるエレオノーラへ向かう。
彼女はオスカー公爵と話していた。こちらには気づいていない。
「クライゼル公爵家とレインフォード公爵家が近づきすぎている、と見る者がいる」
「……でしょうね」
それはわかっていた。二つの公爵家。王家に次ぐ力を持つ家同士。
その子供が昔からの幼馴染で、今回の事件でさらに距離を縮めた。貴族たちが騒がないわけがない。ユリウス殿下は笑みを消した。
「君と彼女の関係について、いずれ話し合いが必要になる」
逃げたい。ものすごく逃げたい。でも、もう逃げられないところまで来ている。
俺はエレオノーラを見た。彼女がちょうどこちらを向いた。目が合う。
俺はうなずいた。
「わかりました」
面倒な話だ。だが、今さら目をそらして済む話でもない。
ミリアの処遇は決まった。次に決めるのは、俺たちのこれからだった。




