第19話 逃げ道はもう残っていない
名誉回復の場が終わってから三日後。先日の卒業式は、あの騒動で正式な完了扱いにはなっていない。卒業認定前の処分として、学籍上の扱いも裁定されるらしい。
俺はまた王城に来ていた。またである。最近の俺は王城に来すぎではないだろうか。
前世の俺なら城なんて観光で外から見るくらいだった。中に入るとしてもゲームの中くらいだ。
それが今はどうだ。衛兵に顔を覚えられかけている。これはよくない。
こういう目立ち方は、非常によくない。
「アルト」
「はい」
「顔がうるさい」
父上が前を向いたまま言った。またか。俺の顔はいつから喋るようになったのだろう。
「まだ何も言ってません」
「言う前の顔をしている」
「理不尽では?」
「黙れ」
「はい」
王城の廊下は今日も長い。磨かれた床に足音が響く。壁には王家の歴代当主らしき肖像画が並んでいた。
その絵の目がこちらを見ているような気がする。気のせいだろう。気のせいであってほしい。
今日行われるのは、レオンハルト殿下たちへの正式な裁定だった。
エレオノーラの名誉はすでに回復された。彼女がミリアをいじめたという証拠は偽物だったと公表された。学園での謝罪も行われた。
けれど、それで全部終わりではない。
無抵抗の令嬢へ剣を向けた王子。それに加担した者たち。証拠を疑いもせず広めた者たち。
便乗して笑った者たち。誰かが責任を取らなければならない。責任。
貴族社会ではよく聞く言葉だ。前世でも聞いた。でも実際に目の前で人の人生が変わる場に立つと、軽くは扱えない。
俺はレオンハルト殿下が嫌いだ。というより、あの日の剣を忘れられない。エレオノーラへ振り下ろされた刃。
受け止めた時の手の痺れ。金属の音。あれは冗談ではなかった。
間違いなく本気だった。
だから処分は必要だと思う。でも、処分を見て喜べるかと聞かれたら少し違う。俺が黙っていると、父上がちらりとこちらを見た。
「情けをかける必要はない」
「わかっています」
「だが、喜ぶ必要もない」
父上の声は低かった。
「人が落ちる場だ。よく見ておけ」
「はい」
父上はそれ以上言わなかった。容赦のない父親だ。だが、こういう時だけは少しありがたい。
少しだぞ。裁定の場は、王城の奥にある謁見の間ではなかった。
もう少し小さい、けれど十分に格式のある広間だ。正面に国王ヴァルフリート陛下。その横に第一王子ユリウス殿下。
さらに宰相ラウレンツ閣下が控えている。俺たちクライゼル公爵家。レインフォード公爵家。
そして問題を起こした家の当主たち。
広間には、咳払いひとつ目立つような沈黙があった。名誉回復の場にあったざわめきはない。ここにいる者たちは、みな自分が何を見せられるかを知っている。
少し離れた場所にエレオノーラがいた。レインフォード公爵の隣に立っている。
今日の彼女は白に近い薄紫のドレスだった。顔色は悪くない。でも表情は硬い。
彼女にとっても、楽な場ではないだろう。自分を傷つけた者たちの処分を見る。言葉にすればそれだけだ。
実際はそんなに簡単ではない。
俺と目が合った。彼女は顎を引いた。大丈夫。
そう言われた気がした。俺は頷き返す。
何か言える距離ではない。貴族社会は本当に面倒だ。でも、目だけで足りる時もあるらしい。
最初に連れてこられたのは、レオンハルト殿下だった。護衛に囲まれている。手枷はない。
王族としての最低限の体面は保たれていた。
けれど、以前のような派手な自信はなかった。髪は整えられている。衣服も乱れていない。
それでも、目の下に影があった。彼は広間の中央で膝をついた。
「レオンハルト」
陛下が名を呼ぶ。父親が息子の名を呼んだ声ではない。王が罪を犯した王子を呼ぶ声だった。
「はい」
レオンハルト殿下の返事はかすれていた。
「そなたは卒業式の場で、エレオノーラ・フォン・レインフォードへ剣を向けた。婚約者だった者の言葉を聞かず、調べもせず、王子の立場を刃の重みに乗せた」
広間の奥で、誰かの息を呑む音がした。誰も動かない。陛下は続けた。
「偽りの証拠に乗ったことだけを責めているのではない。そなたは、目の前にいた者の声を捨てた。止まる機会はあった。剣を抜く前にも、振り下ろす前にもだ」
レオンハルト殿下の肩が震えた。言い返すかと思った。彼なら、前ならそうしただろう。
だが、今は違った。
「……はい」
小さな声だった。陛下が目を細める。
「弁明はあるか」
レオンハルト殿下は口を開いた。すぐには声が出なかった。彼の視線が少し動く。
ミリアはいない。自分をかばってくれる取り巻きも隣にはいない。最後に、彼はエレオノーラを見た。
エレオノーラは視線を逸らさなかった。
視線を逸らされなかったことに、レオンハルト殿下の顔が歪んだ。
「私は……」
言葉が途切れる。
「私は、ミリアに騙されたのだと。そう言えば少しは楽になれると思っていました」
広間のどこかで息を呑む音がした。父上は動かない。オスカー公爵も同じだ。
「だが、違いました。私は聞かなかった。エレオノーラの言葉を。彼女の目も、声も、何も見ていなかった」
レオンハルト殿下の拳が床の上で震えている。
「私は信じたいものだけを信じた。ミリアが泣けば、それで正しいと思った。周囲が頷けば、それで裁けると思った」
彼は一度、深く息を吸った。
「王族としても、婚約者としても失格です」
声が落ちた。綺麗な謝罪ではなかった。途中で詰まった。
情けなかった。でも、少なくとも逃げてはいなかった。エレオノーラは視線を逸らさない。
レオンハルト殿下が体ごとそちらへ向いた。
「エレオノーラ」
名前を呼ばれ、彼女の指がわずかに動いた。
「君に謝罪したい。許してほしいとは言わない。言える立場ではない。ただ、私が君を信じなかったことを、ここで認める」
彼は頭を下げた。
「すまなかった」
広間に、その言葉だけが落ちた。
エレオノーラはしばらく黙っていた。長く感じた。
実際には数秒だったかもしれない。彼女は息を整えて口を開く。
「先日と同じ答えになります」
レオンハルト殿下の肩がわずかに動いた。
「謝罪は受け取ります。ですが、許すとは申し上げません」
肩が強張った。
エレオノーラは視線を逸らさない。
「あなたが私を信じなかったことは、この場で認められました。ですが、それで私が受けた恐怖も、失った信頼も、消えるわけではありません」
彼女の声は震えていない。強い声でもない。怒鳴ってもいない。
ただ、まっすぐだった。
「私は、あなたの謝罪を受け取ります。でも、私の傷は私のものです。あなたに軽くしていただくものではありません」
誰かが唇を噛んだ。レオンハルト殿下だったのだろう。
「……はい」
彼はもう一度、頭を下げた。今度は長かった。俺は拳を握っていたことに気づいた。
エレオノーラは泣かなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、指先が白くなるほど手袋を押していた。
陛下が裁定を告げる。
レオンハルト殿下は王位継承権を剥奪される。王族としての公務からも外され、王都を離れて北方の離宮へ送られる。
期限は告げられなかった。
ローデン伯爵が一度まばたきをし、隣の夫人は扇を握り直した。死罪ではない。だが、戻れる日を誰も約束しない謹慎だった。
ユリウス殿下の顔色が少し悪い。
弟を守れなかった兄の顔と、王家として処分を受け入れる者の顔が、同じ場所にあった。
王族も面倒だ。俺は公爵家の息子でよかった。いや、よくもないな。
だいぶ面倒だ。
次に、カイル、セドリック、ノエルの三人が呼ばれた。
カイル・ローデンは、膝をつくなり短く言った。
「申し開きはありません」
横にいたローデン伯爵が何かを言いかけたが、カイルが止めた。
「父上。俺は守る相手を間違えました。剣を抜いた者の後ろに立った。止めるべきでした」
告げられたのは、騎士科からの除籍と、騎士叙任資格の十年停止だった。
さらに、家の監督下で辺境警備補佐へ送られる。カイルは唇を噛んだが、反論しなかった。
セドリック・バルシュミットは最後まで顔色が悪かった。
虚偽の証言書の下書き、削除を提案した筆跡、証人へ渡した文。机の上に紙が増えるたび、セドリックの声は小さくなっていった。
「偽りだと気づいていました。気づかないふりをしました」
最後にそう認めた時、隣の父親は一歩下がった。
王城文官登用資格は永久停止。学園からも除籍。バルシュミット家には罰金と一定期間の監査が下る。
セドリックは紙を見つめたまま、膝の上で指を組み直した。
ノエル・アストレアは、三人の中で一番静かだった。
「僕は彼女を信じたかったのだと思います」
彼はそう言った。
「ミリアは僕が欲しい言葉をくれました。だから、その人が誰かを傷つける人だと認めたくなかった」
エレオノーラは彼を見返して言った。
「それで私が傷つけられていい理由にはなりません」
ノエルは頭を下げた。
ノエルには、アストレア家の監督下での謹慎が命じられた。学園への復帰は認められず、社交界への出入りも当面止められる。
三人が下がっても、広間に声は戻らなかった。
紙にすれば短い処分だ。けれど、カイルは剣の道から遠ざかり、セドリックは文官への扉を閉ざされ、ノエルは家の中へ戻される。
そしてエレオノーラは、処分を聞いたからといって、あの日の会場から急に解放されるわけではない。
俺はそれを、彼女の横顔で思い知らされた。
俺はその当たり前を、今さら見せつけられていた。陛下が立ち上がる。
「本日の裁定は以上とする」
その声で、場が動き出した。家の者たちの肩が落ちる。護衛が処分を受けた者たちを連れていく。
レオンハルト殿下が立ち上がった。彼は最後にエレオノーラへ頭を下げた。彼女も礼を返した。
元婚約者同士の最後は、あまりに短かった。
長い言葉を足す者はいなかった。レオンハルト殿下が連れていかれる。その背中は、俺が知っているゲームの第二王子とは違っていた。
いや、俺が見ていたゲームの王子なんて、画面の中の綺麗な立ち絵でしかない。目の前にいるのは失敗した一人の男だ。それだけだ。
広間を出ると、エレオノーラが少し遅れて歩いてきた。
オスカー公爵はラウレンツ閣下に呼び止められている。父上もユリウス殿下に何か言われていた。珍しく、俺たちの周りだけ人の流れが薄くなった。
「大丈夫か」
俺はそう聞いた。面白いことは言わなかった。言えなかった。
エレオノーラは廊下の窓へ目を向ける。
「平気だとは言えないわ」
返事は早かった。俺は少し驚いた。彼女は苦笑する。
「でも、倒れるほどでもありません」
「ならよかった」
「よくはないでしょう」
「まあな」
窓の外は曇っていた。雨は降っていない。でも空は低い。
エレオノーラは息を吐いた。
「謝られると、困るのね」
「そうなのか」
「ええ。怒っている方が楽でした。謝られると、どうすればいいのかわからなくなる」
俺は窓の外へ目を向けた。言えることがなかった。彼女は続ける。
「許さないと言ったのに、声を聞いたら指先が固まりました。あれほどひどいことをされたのに。変でしょう?」
「変じゃない」
俺は即答した。エレオノーラがこちらを見る。
「少なくとも、俺はそう思う」
そう付け足した。
「傷つけられたからって、相手が落ちるのを喜べるとは限らないだろ。怒っていいし、痛くてもいい。許さなくてもいい。それで普通だと思う」
「……普通」
「俺基準の普通だから、あんまり信用するな」
「そこは信用させなさいよ」
「善処します」
彼女の口元が緩んだ。俺はそれ以上、言葉を重ねなかった。彼女の指先が、俺の袖口に一度だけ触れた。
すぐに離れる。前より短い。でも、逃げるような離し方ではなかった。
「アルト」
「ん?」
「次は、ミリア様ね」
その名前が出た瞬間、ラウレンツ宰相が書類を閉じた。レオンハルト殿下たちは処分を受けた。彼らの罪は形になった。
だが、まだ中心にいた少女の処遇が残っている。何度も人生を繰り返したかもしれない、あの少女の処遇が。
自分の幸せのために、他人を役として扱った少女。
死なせれば終わるのか。生かせば安全なのか。誰にも答えはない。
俺は窓の外を見た。雲が厚い。
「そうだな」
いつもの言葉は出なかった。エレオノーラも笑わない。遠くで扉の閉まる音がした。
今日、何人かの未来が決まった。でも一番厄介な未来は、まだ扉の向こうに残っていた。




