第17話 神様か悪魔かもしれない
小広間での話し合いが終わった後、俺たちはそのまま解放されるはずだった。少なくとも俺はそう思っていた。父上の視線は痛いし、ラウレンツ閣下の話は重いし、ユリウス殿下はずっと顔色が悪い。
王城という場所は、人を疲れさせるために作られた建物なのかもしれない。いや、そんなわけはない。ないはずだ。
だが、俺の希望はあっさり砕かれた。
「アルト殿。少しよろしいか」
ユリウス殿下に呼び止められた。よろしくないです。今すぐ帰って寝たいです。
もちろん口には出さない。そこまで命知らずではない。
「何かありましたか」
「ミリア・ベルティナが、君に会わせろと言っている」
嫌すぎる。俺の顔に出たのだろう。エレオノーラが横で目を細めた。
「嫌そうな顔ね」
「嫌だからな」
「正直でよろしいわ」
よろしいのか。ユリウス殿下は苦笑したが、すぐに表情を戻した。
「もちろん無理にとは言わない。ただ、彼女は君の名前ばかり口にしている。私やラウレンツでは話が進まない」
「俺に話したら進むんですか」
「わからない」
そこは嘘でも進むと言ってほしかった。ただ、ユリウス殿下の顔には疲れが見えた。王子の暴走。
婚約破棄。公爵令嬢への殺害未遂。そして何度も人生を繰り返したらしい少女。
王族って大変だな。なりたくない職業ランキング上位に入りました。
「アルト」
エレオノーラが俺を見る。
「私も行きます」
「いや、それは」
「私を消したいと言った人でしょう。なら私がいないところで話を終わらせるのは嫌です」
その声は静かだった。怒っているのか。怖いのか。
両方だろう。でも、逃げる気はないらしい。
俺は父上を見た。父上は無言だった。駄目なら止める人だ。
黙っているなら行けということだろう。
「わかった。ただし、俺の後ろにいろ」
「それは嫌です」
「即答するなよ」
「私は下がりません」
そう言われたら、返す言葉がなかった。俺は少し笑ってしまう。
「じゃあ横で」
「ええ」
エレオノーラはそう答えた。その手が一度だけ俺の袖に触れた。掴むほどではない。
ただ確かめるみたいに触れて、すぐ離れた。ミリアは王城の奥の一室にいた。牢ではない。
だが自由でもない。
窓には細い鉄格子が入り、扉の前には近衛兵が立っている。部屋の中には机と椅子と寝台があるだけだった。彼女は椅子に座っていた。
桃色の髪は乱れている。目の下には薄く影が落ちていた。それでも顔立ちは整っている。
黙っていれば、普通に可憐な少女に見える。
乙女ゲームのヒロイン。その言葉が似合う見た目だった。黙っていれば、だが。
「来た」
ミリアが顔を上げた。その目が俺を見た。違う。
俺だけを見た。横にいるエレオノーラを、最初から数に入れていないような目だった。
「アルト・フォン・クライゼル」
「フルネームで呼ばれるほど仲良くなった覚えはないな」
「あなた、何なの?」
挨拶も前置きもなかった。ミリアの指が机の縁を掴む。白くなるほど力が入っていた。
「何って言われてもな。クライゼル公爵家の息子だよ」
「違う」
即座に否定された。
「あなたは違う。あなたはここにいない。いなかった。エレオノーラを助ける人なんていなかった。そんな人、どこにも」
言葉がこぼれていく。ミリアは自分でも止められていないようだった。
「レオンハルトは私を選ぶの。カイルも、セドリックも、ノエルも。少しずつ違っても、最後はそうなる。私が言葉を間違えなければ。順番を間違えなければ。なのに、あなたが」
「おい」
俺は低く止めた。ミリアの目が揺れる。
「俺の話をする前に、まずエレオノーラを見ろ」
「え?」
本当に不思議そうな顔だった。その顔で、俺は少し腹が立った。少しではないかもしれない。
「お前が悪役令嬢って呼んでいた相手だ。消えればいいと思っていた相手だ。レオンハルト殿下に斬られても仕方ないと思っていた相手だ。目の前にいるだろ」
ミリアの視線がようやく横へ動く。エレオノーラはまっすぐ立っていた。背筋は伸びているのに、靴先だけが内側を向いている。
手は震えていない。だが、俺にはわかった。彼女の唇が、少し固い。
「……どうして?」
ミリアがつぶやいた。
「どうしてあなたは立っているの」
エレオノーラは黙っていた。ミリアは続ける。
「あなたは婚約破棄されて、全部失って、泣いて、消える人でしょう。そうじゃないと次に進めない。なのにどうして」
「立っているわ」
エレオノーラが口を開いた。声は落ち着いていた。
ミリアの顔が歪む。
「あなたが何度、私が消えるところを見たのかは知らない」
エレオノーラはまっすぐミリアを見た。
「でも、今の私は、あなたの筋書き通りには消えません」
「そんなの」
「あなたの都合では、もう座りません」
ミリアは息を吸った。反論しようとしたのだろう。だが言葉が出なかった。
エレオノーラは続けない。必要なことだけ言って黙った。俺はそれを見て、内心で少し感心していた。
強いな。
いや、強くあろうとしているのか。どっちでもいい。俺の幼馴染はちゃんと立っていた。
「違う」
ミリアが首を振る。
「違う。そんなはずない。エレオノーラはいつもそうだった。最後まで誇りだけは捨てない。でも負ける。いつも負けるの。私が選ばれる。みんな私を選ぶ」
「それが今までの人生か」
俺が言うと、ミリアの口が止まった。部屋の隅の近衛が、背筋を伸ばした。扉のそばにいた近衛兵が少し身じろぎする。
ミリアは俺を見た。
「……やっぱりあなたも知っているの?」
「何を」
「この世界がどう動くか。誰が誰を好きになるか。どこで何が起きるか。どうすれば、誰が笑うか」
知っている。と言えば知っている。俺は前世で乙女ゲームとしてこの世界を知っていた。
はなはじのイベントも、攻略対象も、悪役令嬢の末路も知っていた。だが、ミリアの言葉とは少し違った。
こいつは画面越しに知っているわけではない。もっと近い。もっと生々しい。
誰かと一緒に笑って、年を取って、死んで、また戻った。そういう知り方だ。
「まあ、少しはな」
「少し?」
「少しだよ。俺は攻略サイトを丸暗記してるほど真面目な男じゃない」
「こうりゃく……?」
「あ、そこは気にしなくていい」
しまった。要らないことまで言った気がする。エレオノーラが横目で俺を見る。
あとで説明しろという目だ。逃げられない。ミリアは眉をひそめた。
「あなたも、何かを知っている。でも私と違う。どうして? あなたは何度戻ったの?」
「戻ってない」
「嘘」
「本当だ。俺は一回も戻ってない」
「じゃあどうして邪魔できたの。どうしてあの場にいたの。どうしてレオンハルトの剣を止められたの」
ミリアの声が高くなる。
「あなたがいなければうまくいった。レオンハルトは私を選んだ。カイルも、セドリックも、ノエルも。みんな私を選んだ。私は全員と幸せになれるはずだったのに」
「全員と幸せ、ね」
喉の奥が引きつった。笑いかけた口を、奥歯で止める。
「相手の気持ちはどこにあるんだよ」
「あるわ。みんな私を好きだった」
「好きにさせたんだろ」
「同じことよ」
ミリアは本気で言っていた。冗談でも比喩でもない。その平らな声が、かえって怖かった。
「何度も同じ相手に会って、欲しい言葉を知って、弱いところを知って、逃げ道まで知って、それで選ばせたんだろ」
「だから何?」
ミリアは首を傾げた。
「私はみんなを幸せにできるの。レオンハルトは私といる時が一番笑った。カイルは私を守る時に自分の価値を感じた。セドリックは私に認められたがっていた。ノエルは私がいないと一人だった」
彼女はすらすらと言った。人の傷を数えるみたいに。宝石箱の中身を見せるみたいに。
エレオノーラの肩がわずかに動いた。
「あなたは」
エレオノーラが言った。
「彼らを愛していたのですか」
ミリアはすぐ答えなかった。蝋燭の火が揺れた。
「愛していたわ」
「過去形なのね」
エレオノーラの声は静かだった。ミリアの目が細くなる。
「何度も愛したの。何度も幸せにした。何度も最後まで一緒にいた。それなのに、また戻るのよ。戻ったら最初から。なら今度は違う幸せを選んでもいいでしょう」
「だから全員を選んだのか」
「ええ」
ミリアは頷いた。
「だって私は知っているもの。みんな私を好きになる。そうなるはずなの」
「ならなかったな」
俺が言うと、ミリアの顔から色が消えた。わかりやすいくらいに。
「ならなかった」
俺は繰り返した。
「レオンハルト殿下は自分の罪を認めた。カイルも、セドリックも、ノエルも、お前から離れた。エレオノーラはここに立っている。お前の知っている通りにはならなかった」
「あなたのせいよ」
「そうだな」
否定する気はなかった。俺がいなければ、エレオノーラは死んでいたかもしれない。少なくとも、ミリアの言う通りに進んでいたかもしれない。
なら、俺のせいでいい。
「俺のせいでエレオノーラは生きてる」
ミリアが睨む。
「俺のせいでレオンハルト殿下は剣を止められた。俺のせいで証拠を調べられた。俺のせいでお前の知っている通りにはならなかった」
「……何なのよ」
ミリアの声が震えた。
「あなた、本当に何なのよ」
俺は少し考えた。転生者です。前世で乙女ゲームを知っていました。
推しの悪役令嬢を助けたくて鍛えていました。正直に言ったところで、ややこしくなるだけだ。だから肩をすくめた。
「さあな。神様か悪魔が遣わしたのかね」
ミリアが目を見開く。エレオノーラも俺を見る。
「……適当なことを言っていますね?」
「うん」
「でしょうね」
エレオノーラはため息をついた。その反応に、近衛兵の肩がわずかに下がる。ミリアだけは緩まなかった。
「ふざけないで」
「ふざけてないよ。半分くらいは」
「私は何度も戻ったの。何度もやり直したの。やっと全部手に入るはずだった。なのに、あなたみたいな人が急に出てきて」
「急じゃない」
俺は言った。
「俺はずっといた」
ミリアの口が止まる。
「お前が見てなかっただけだ。ゲームでも、お前の過去でも、俺は大した役じゃなかったんだろうな。エレオノーラの幼馴染。昔一緒に遊んでいた誰か。そのくらいだろ」
俺は一歩前に出た。近衛兵が少し動いたが、ユリウス殿下が手で止めた。
「でも俺はいた。エレオノーラのそばにいた。少なくとも、あいつが小さい頃に川辺で転んだ俺を見て、真っ青になって侍女を呼んだことは覚えてる」
「……何よ、それ」
「俺にとっては大事なんだよ」
ミリアは理解できない顔をした。今のこいつには理解できない。
「お前にとっては、何度も繰り返した中の一人だったかもしれない。邪魔な悪役令嬢だったかもしれない。でも俺にとっては一人だけだ」
横でエレオノーラが息を止めた気配がした。やばい。少し恥ずかしいことを言ったかもしれない。
今さら遅い。
「だから助けた。それだけだ」
ミリアは俯いた。肩が震えている。泣いているのかと思った。
違った。笑っていた。
「……戻れば」
小さな声だった。
「戻ればいい。もう一度戻れば、最初にあなたを消せばいい。あなたを近づけなければいい。エレオノーラを先に孤立させればいい。レオンハルトをもっと早く」
「戻れるのか」
俺が聞くと、ミリアは止まった。
「今も、本当に戻れると思っているのか」
ミリアの指が机を掴む。爪が木に食い込む音がした。
「戻れる」
「なら、どうしてそんなに焦ってる」
「戻れるわ」
「ミリア」
エレオノーラが名前を呼んだ。ミリアの目がそちらへ向く。
「あなたは、もう戻りたくないのではありませんか」
部屋の外で誰かが足を止めた音がした。すぐに遠ざかる。エレオノーラは続ける。
「何度も幸せだったと言いました。なら、何度も失ったのでしょう。何度も終わったのでしょう。あなたがしたことは許せません。でも、あなたが壊れた理由は、少しわかる気がします」
「わかったようなことを言わないで」
ミリアの声は低かった。
「あなたに何がわかるの。あなたはいつも失う側だった。私に選ばれない側だった。負ける側だった。何度も何度も」
「そう」
エレオノーラは頷いた。
「でも今回は違います」
ミリアの目が揺れる。
「私はここにいます。あなたもここにいます。過去ではありません。あなたの知っている結末でもありません」
「嫌」
「これが今です」
「嫌よ」
「あなたは、この先を生きるしかない」
ミリアは椅子から立ち上がりかけた。近衛兵が動く。だが、彼女は立ち上がれなかった。
膝から力が抜けたように椅子へ戻る。
「嫌……」
小さな声だった。
「戻してよ」
誰に言ったのかはわからない。俺でもない。エレオノーラでもない。
ユリウス殿下でもない。もっと遠く。見えない誰かに向けた言葉だった。
「戻して。まだ終わってない。私はまだ、全員を」
「もう終わった」
俺は言った。ミリアが俺を見る。
「少なくとも、お前が知っている流れは終わった。これから先は誰も知らない。俺も知らない。お前もな」
「……そんなの」
ミリアの声がかすれた。
「怖いじゃない」
その言葉だけは、やけに普通の少女みたいだった。俺は少し黙った。そりゃそうだろうな。
何度もやり直してきた人間にとって、知らない未来は足場のない場所なのだろう。でも、それは俺たちも同じだ。
エレオノーラだって怖かった。剣を向けられた。婚約を壊された。
悪役令嬢にされた。それでも立っている。
「怖くても進むしかないだろ」
俺は言った。
「みんなそうしてる」
ミリアは答えなかった。桃色の髪が顔にかかって、表情が見えなくなる。ユリウス殿下が近衛兵へ目を向けた。
「面会はここまでだ」
扉が開く。俺たちは部屋を出ることになった。最後にミリアが顔を上げた。
「アルト・フォン・クライゼル」
またフルネームだ。俺は振り返った。
「あなたがいなければよかった」
「そうか」
俺はそれだけ返した。怒りはしなかった。怒るところはもう過ぎていた。
「でも俺はいたよ」
ミリアの目が細くなる。
「これからもいる」
エレオノーラのそばに。そこまでは口に出さなかった。出さなくても、伝わった。
扉が閉じる。重い音が廊下に残った。部屋を出てしばらく、誰も話さなかった。
王城の廊下は長い。壁の燭台の火が揺れている。靴音だけがやけに響いた。
エレオノーラは横を歩いている。後ろではない。横だ。
「アルト」
「ん?」
「あなた、時々とても腹立たしいことを言うわね」
「え、今その感想?」
「でも」
エレオノーラは前を向いたまま言った。
「今日は少し、嬉しかったです」
俺は黙った。父上もユリウス殿下も近くにいる。ラウレンツ閣下もいる。
ここで変な返しをしたら、一生からかわれる可能性がある。いや、父上はからかわないな。無言で圧をかけてくるだけだ。
それはそれで嫌だ。
「そりゃよかった」
結局、そんな返事しかできなかった。エレオノーラが口元を緩める。その笑い方を見て、俺は少し安心した。
傷は残っている。今日のやり取りで痛みが薄れたとも思えない。
それでも、彼女は前を向いている。なら俺も横を歩くしかない。
モブにしては、ずいぶん目立つ場所まで来てしまった気がする。まあ、今さらだ。
ここまで来たら最後まで付き合うしかない。
廊下の先で、父上が足を止めた。
「アルト」
「はい」
「先ほどの発言について、あとで詳しく聞く」
「どの発言でしょうか」
「全部だ」
もう言い逃れはできない。エレオノーラが横で肩を震わせていた。笑っているな。
完全に笑っているな。俺は天井を見上げた。神様か悪魔かは知らない。
もしどちらかがいるなら、今だけは助けてほしい。
父上の説教から。




