第13話 ヒロインは目を覚ましても笑う
ミリア・ベルティナが目を覚ました。その知らせを聞いた時、エレオノーラの指が俺の袖から離れた。指先から、布が離れていく。
公爵令嬢の顔に戻るためにだ。
少し残念だった。いや違う。今そんなことを考えている場合ではない。
俺の頭は時々場面を選ばない。
「行きましょう」
エレオノーラが立ち上がる。声は落ち着いていた。顔色も悪くない。
ただ俺にはわかった。肩に力が入りすぎている。
無理をしている時の立ち方だ。
「すぐに行く必要はないぞ」
「必要があるわ」
「怖いなら」
「怖いわ」
迷いなく返ってきた。
「でも、怖いから見ないで済ませるのは嫌なの」
俺は何も言えなくなった。こういう時のエレオノーラは強い。強いというか頑固だ。
昔からそうだった。
川辺で転んだ俺を屋敷まで引きずって帰った時もそうだ。幼い俺は前世の記憶が戻って頭がぐちゃぐちゃになっていた。
第二王子に近づくなとか桃色の髪の女には気をつけろとか言っていたはずだ。普通なら怖がる。でもエレオノーラは俺の額の傷を見て、まず侍女を呼んだ。
あの時から変わらない。怖くても必要なことを先にする。俺は肩をすくめた。
「わかった。なら近くにいる」
「ええ」
「余計なことは?」
「言わないで」
「努力する」
「努力では足りないわ」
厳しい。でも少し笑っていた。ならいい。
ミリアが寝かされていたのは王城の奥にある小さな部屋だった。
客室ではない。牢でもない。病人を休ませるための部屋に近い。
ただし扉の前には近衛が二人立っている。窓の外にも人影が見えた。
逃がすつもりはないらしい。当然だ。こっちは公爵令嬢殺害未遂に関わっている可能性がある少女である。
見た目が可愛くても中身が可愛いとは限らない。桃色髪は危険。これは俺の偏見です。
部屋の前にはユリウス殿下がいた。横にフェリクス殿。少し離れてラウレンツ宰相とエリザ女官長もいる。
父上とオスカー公爵も後から来た。
人が多い。胃が重い。でも今日は黙る。
俺はエレオノーラと約束したばかりだ。
「無理をする必要はない」
ユリウス殿下がエレオノーラに言った。
「お気遣いありがとうございます。ですが、立ち会います」
「わかった」
ユリウス殿下はすぐに引いた。王族としてではなく、一人の人間として案じていたのだろう。そのあたりはレオンハルト殿下とだいぶ違う。
兄弟なのに人間の出来が違いすぎないか。いや今のは言わない。
扉が開いた。ミリアは寝台に上体を起こしていた。桃色の髪が肩に落ちている。
顔色は白い。目元は少し赤かった。
それでも彼女は、俺たちを見ると笑った。
可憐な笑みだった。学園で何度も見た笑みだ。男なら守りたくなるだろう。
泣きそうなのに健気に笑っている少女。乙女ゲームのヒロインとしては百点だ。
でも俺は知っている。その笑みで何人もの馬鹿が転んだ。そしてあの日、エレオノーラはその笑みの向こう側で斬られそうになった。
「ユリウス殿下……」
ミリアの声は弱々しかった。
「私は、どうしてここに?」
「覚えていないのか」
「はい。怖くて。何が何だか」
エリザ女官長がわずかに目を細めた。ユリウス殿下は表情を変えない。
「では確認する。先日の卒業式でレオンハルトがエレオノーラ嬢に剣を向けた。君はその場にいた」
「そんな……」
ミリアは口元を押さえた。芝居がうまい。いや本当に動揺しているのかもしれない。
問題は、動揺する場所が普通と違うところだ。
「レオン様は?」
最初に出たのはそこだった。
「レオン様は私を責めているのですか?」
ユリウス殿下の眉が少し動いた。
「エレオノーラ嬢の心配はしないのか」
「え?」
ミリアは本気でわからない顔をした。俺はぞっとした。横でエレオノーラの指がゆるく握られる。
彼女は何も言わない。ただミリアを見ていた。
「エレオノーラ様は……ご無事なのでしょう?」
ミリアはようやく言った。少し遅かった。遅すぎた。
「そこにいる」
ユリウス殿下が横へ退いた。ミリアの視線がエレオノーラに向く。その瞬間、笑みが止まった。
ほんの一瞬だ。見逃してもおかしくないくらい短い。だが俺は見た。
エレオノーラも見たはずだ。
ミリアは無事な被害者を見る顔ではなかった。そこにあるはずのないものを見た顔だった。
「……生きて」
小さな声が漏れた。誰かの椅子が軋んだ。ミリアははっとして口を閉じる。
遅い。遅すぎる。
「今、何と言った」
オスカー公爵の声は静かだった。物音が少なすぎて落ち着かない。
「いえ。あの、よかったと思って。エレオノーラ様がご無事で」
「そうは聞こえなかったな」
父上が言った。短い。圧が強い。
ミリアの視線が泳ぐ。そして俺を見た。
まただ。自分の知らない誰かを見るような目。本来はいないはずの幽霊を見るような目。
「あなた……」
「どうも」
口が先に動いた。余計なことは言わない約束だったが、挨拶くらいは許してほしい。
「どうして、あなたがここにいるの」
ミリアの声が震えた。
「呼ばれたからかな」
「違う」
即答だった。さっきまでの可憐な顔が消えている。
「あなたはここにいない人でしょう」
フェリクス殿が一歩動いた。ユリウス殿下が片手で止める。
「ミリア嬢。どういう意味だ」
「……言葉のあやです」
「なら説明できるな」
「その」
ミリアは唇を噛んだ。弱々しい少女の仕草だ。でも目は違う。
視線だけが、扉、ユリウス殿下、俺の順に走る。泣けば誰が動くかを確かめているようだった。
俺は少し前に出た。
「俺のこと知ってたのか?」
「知りません」
「今、ここにいない人って言ったけど」
「知らないから驚いたんです」
「知らない相手に、本来ここにいないって言うのか」
ミリアは黙った。紙をめくる音がした。エルマーが控えている。
この場の発言は全部記録される。ミリアもそれに気づいたのか顔をこわばらせた。
エレオノーラが口を開いた。
「ミリア様」
静かな声だった。
「私からも、よろしいでしょうか」
ミリアは顔を向けた。笑おうとした。けれど頬が引きつっただけだった。
「はい。エレオノーラ様」
「あなたにとって、私は何だったのですか」
質問は短かった。でも重かった。ミリアは目を丸くする。
「何、とは」
「悪役令嬢と書かれていました」
ミリアの肩が跳ねた。
「私を排除するとも。残すと面倒とも。断罪で消えるなら早いとも」
エレオノーラの声は震えていない。だが俺にはわかった。言葉を一つずつ選んでいる。
傷口に指を入れるように。自分で自分を痛めながら、それでも聞いている。
「私は、あなたに何をしたのでしょう」
「それは」
「私はあなたを虐げていません。あなたを罵ってもいません。殿下に近づかないよう忠告されたことはありますが、私は必要以上にあなたへ関わらないようにしていました」
エレオノーラの視線は逸れない。
「それでも私は、消えるべきだったのですか」
ミリアは黙っていた。部屋の中で誰も動かない。やがて、ミリアの目が細くなった。
「……そういうところです」
「はい?」
「そういうところが、いつも邪魔だったんです」
可憐な声ではなかった。拗ねた子供のような声だった。
「何もしていない顔をして、いつもレオン様の隣にいる。公爵令嬢だからって、最初から婚約者で。私がどれだけ頑張っても、あなたがいるだけで遠回りになる」
ユリウス殿下の表情が消えた。オスカー公爵は目を閉じる。怒りを抑えている顔だ。
「私は、何もしていないと言いました」
「だから邪魔なんです」
ミリアは吐き捨てた。
「悪いことをしてくれた方が楽だった。あなたが嫌がらせをしてくれたら、私は助けられるだけでよかったのに。あなたは何もしない。近づかない。怒らない。だからこっちで作るしかなかった」
自白に近い。だが本人は気づいていない。感情が先に出たのだ。
エレオノーラの顔から血の気が引いた。
俺は一歩踏み出しかけた。彼女が手を上げて止める。来ないで。
そういう合図だった。
だから止まった。拳だけ握った。
「作るしかなかった、とは」
ラウレンツ宰相が低く聞く。ミリアはそこでようやく自分の言葉に気づいたらしい。顔を青くした。
「違います。そういう意味では」
「ではどういう意味か」
「私はただ、皆に幸せになってほしかっただけです」
「皆、か」
ユリウス殿下が言う。
「レオンハルトも、カイルも、セドリックも、ノエルもか」
「はい」
「エレオノーラ嬢は含まれないのだな」
ミリアはすぐに答えなかった。それが答えだった。
エレオノーラはまぶたを伏せた。泣かなかった。怒鳴りもしなかった。
ただ息を吸う。
「わかりました」
その一言だけだった。ミリアの肩から力が抜けかけた。もう終わったと思ったのか、目だけが扉の方へ流れる。
だがエレオノーラは続けた。
「あなたに嫌われていたのなら、それは仕方ありません。私もあなたを好きにはなれませんでした」
少し声が柔らかくなる。柔らかいのに逃げ場がない。
「けれど、私の命をあなたの幸せのために使う許可を出した覚えはありません」
ミリアの顔が歪んだ。
「命なんて、大げさです」
「殿下は剣を抜きました」
「でも止まったじゃないですか」
言った瞬間、部屋の全員が固まった。ミリアも固まった。俺は笑えなかった。
「止まったからいい、か」
自分の声が思ったより低かった。ミリアが俺を見る。
「違う。そうじゃなくて」
「俺が止めなかったら?」
「それは」
「止まる前提だったのか。レオンハルト殿下が剣を抜いて、君が止めて、エレオノーラが追い詰められて。それで君は皆を助ける立場になる。そういう流れだったのか」
ミリアの目が揺れた。当たりか。くそみたいな当たりだ。
「違います。本当は、そんなことには」
言いかけて、ミリアは口を閉じた。
「本当は?」
ユリウス殿下が問う。
ミリアは答えない。代わりに周囲を見回した。ユリウス殿下。ラウレンツ宰相。
父上。オスカー公爵。エレオノーラ。
そして俺。
誰も助けない。そこで初めて、彼女の顔に本物の恐怖が浮かんだ。
「レオン様を呼んでください」
ミリアが言った。
「レオン様ならわかってくれます。レオン様は私を選んでくれるはずです。雨の日に、私が言ったことを覚えているなら。私だけがあなたを見ているって」
ユリウス殿下の目が冷えた。
「その言葉を、君は弟に言ったのか」
ミリアはすぐには答えなかった。
唇を開きかけて、閉じる。視線が横へ逃げた。
「答えろ」
ユリウス殿下の声が低くなる。
「私は……ただ、レオン様に必要な言葉を」
「必要な言葉?」
ミリアの肩が小さく跳ねた。
自分で言った言葉に、追い詰められたような顔だった。
「だって、それが……」
「それが?」
「一番、レオン様に届く言葉だったから」
また漏れた。エリザ女官長がまぶたを下ろした。フェリクス殿は無表情だ。
「届く、か」
ユリウス殿下が呟いた。
「君にとって弟は、言葉で動かす相手だったのだな」
「そんな言い方しないでください!」
ミリアの声が大きくなる。
「私は幸せにしたかっただけです。レオン様も、皆も。私といる時は笑ってくれたんです。そうなるはずだったんです」
はずだった。
その言い方に、俺の背中を冷たいものが走った。
やっぱり転生者じゃない。ゲームを知っている人間の言い方ではない。この世界で、実際に何かを繰り返した人間の言い方だ。
「今度は、何だ」
俺は聞いた。ミリアは俺をにらむ。
「あなたには関係ない」
「あるだろ。エレオノーラを消す予定に俺が割り込んだんだから」
「だからあなたが嫌いなの」
ミリアの目に涙が浮かんだ。でもそれは悲しみだけではない。怒りと恐怖と苛立ちが混ざっている。
「あなたは本来いないの。いつもいなかった。名前も聞かなかった。影みたいな幼馴染がいたことは知っていたけれど、出てこなかった。なのにどうして。どうして今回は前に出てくるの」
全員の視線が俺に集まった。やめてほしい。俺を見るな。
俺だって知らない。ただ一つだけ言える。
「好きな女が斬られそうになってたからな」
父上が、こめかみに当てていた指を止めた。エレオノーラがこちらを見た。目が丸い。
耳が赤くなっていく。
しまった。今のは場所を考えるべきだった。いや本音だから仕方ない。
仕方ないことにしておこう。
父上がこめかみに指を当てた。オスカー公爵は目を閉じたまま動かない。ユリウス殿下だけが少し笑いそうになっていた。
ミリアは笑わなかった。
「そんな理由で」
「俺には十分だ」
「そんな理由で、私の全部を壊したの」
その声は低かった。俺は首をかしげた。
「君の全部って何だ」
「……」
「レオンハルト殿下も、カイルも、セドリックも、ノエルも、エレオノーラの命も。全部君のものだったのか」
ミリアは答えない。答えられないのではない。答える必要がわからない顔だった。
その顔だけで、もう答えに近かった。
「ミリア嬢」
エレオノーラが言った。
「私はあなたの邪魔者ではありません」
ミリアの顔がこわばる。
「私はエレオノーラ・フォン・レインフォードです。あなたのために消える役目など持っていません」
静かな声だった。でも部屋の誰より強かった。
「そしてアルトも、あなたの知らないからといって存在しない人ではありません」
俺は息を止めた。エレオノーラは俺を見ない。ミリアだけを見ている。
「あなたが何を知っているのか、何を繰り返したのか、私にはまだわかりません。けれど一つだけ言えます」
彼女は一歩前に出た。
「私は、あなたの決めた通りには消えません」
ミリアの瞳が揺れた。はじめて、彼女はエレオノーラをちゃんと見たように思えた。悪役令嬢でも邪魔者でもない。
一人の人間として。それが気に入らなかったのだろう。
「……知らない」
ミリアはか細い声で言った。
「こんなの知らない」
肩が震えている。
「こんなルート、私は知らない」
その言葉で、誰もが黙った。ルート。俺にとっては聞き慣れた言葉だ。
だがこの場の人間にとっては違う。意味のわからない異物のような言葉だった。
ミリアは両手で顔を覆った。
「ちゃんと進むはずだったのに」
泣き声のような声だった。エルマーの羽ペンだけが動く。
その言葉の意味は、まだこの時点ではわからなかった。
ただ、ミリアが俺たちと同じ今を見ていないことだけはわかった。
怒りはあった。でもそれ以上に気味が悪かった。人の一生を何だと思っているのか。
人の恋を、人の痛みを、人の命を。
ミリアは泣いていた。可哀想に見えなくもない。けれど俺は同情できなかった。
エレオノーラの少し後ろに立つ。彼女の手が少し震えていた。今度は俺から袖を近づけた。
エレオノーラの指が、俺の袖に触れる。
そのとき、ユリウス殿下の低い声が部屋に届いた。
「ミリア・ベルティナ。これ以上の聴取は後日にする。君の発言はすべて記録された」
「嫌……私は、間違えてない」
「それを決めるのは君ではない」
フェリクス殿が近衛に合図する。ミリアは寝台の上で首を振っていた。
「違う。違うの。私はみんなを幸せにしたかっただけ」
誰も答えなかった。扉が閉まる直前、ミリアの声が聞こえた。
「どうして同じにならないの……」
その声は、しばらく耳に残った。部屋を出たあと、エレオノーラは廊下の壁に手をついた。
「エレオノーラ」
「平気よ」
「平気じゃないだろ」
「ええ」
彼女は視線を落とした。
「平気ではないわ」
そう言えるだけで、さっきよりましなのかもしれない。俺は半歩横に立った。人目はある。
だから触れない。触れられない。
それでも彼女は俺の袖を少しつかんだ。
「私、消えなかったわね」
「うん」
「これからも消えないわ」
「ああ」
エレオノーラは顔を上げた。目元は赤くない。泣いていない。
でも少し痛そうだった。
「なら、次は皆の前で言わなければ」
「何を?」
「私は無実だと。私はここにいると」
俺はうなずいた。
「ここにいる」
「知っているわ」
彼女の口元だけがゆるんだ。その笑みはまだ弱い。けれどあの会場に置き去りにされた顔ではなかった。
その日のうちに、ユリウス殿下はフェリクス殿を呼んだ。
「明日、大広間を使う。主要貴族を集めろ。レオンハルトも出す」
「学園側はいかがいたしますか」
「断罪の場にいた教師と関係者を洗い出せ。そちらは後日、改めて立ち会わせる。逃げる時間を与えない」
命令が短く重なっていく。紙の上の予定ではなく、人が動き始める音だった。
俺は窓の外を見た。夕方の空が赤い。あの日、エレオノーラはあの会場で罪人にされた。
まず王城で、彼女の無実が告げられる。いずれ、彼女はあの場所にも戻る。
あの場所に戻る彼女を、もう役名で呼ばせるつもりはない。俺はその横に立つ。緊張する。
かなり緊張する。父上にも怒られるかもしれない。
でもまあ、いいか。好きな女のそばに立つのに、立派な理由まで用意していられるか。




