第12話 助けられただけでは終われない
その時の俺は王城の別室にいた。理由は簡単だ。父上に呼ばれたからである。
王城の会議室で伯爵相手に声を荒げた件だ。さすがに怒られると思った。俺も思った。
あれはまあまあ危なかった。場所が場所なら首が飛ぶ。物理的にではなく貴族的に。
ただ父上は俺を怒鳴らなかった。
「座れ」
「はい」
座った。姿勢も正した。こういう時の俺は大人しい。
生存本能が優秀なのだ。
父上は机に置いた指を一度だけ動かした。机に置いた指が一度だけ動く。それだけで、父上の前に置かれた書類の端が妙に目についた。
「先ほどの発言だが」
「はい」
「言葉は選べ」
「はい」
「相手が伯爵で済んだと思え。王族に同じ口を利けば処罰されても文句は言えん」
「はい」
正論で殴られると逃げ道がない。父上は続けた。
「だが」
そこで声が少し変わった。
「間違ってはいなかった」
俺は顔を上げかけてやめた。余計な顔をするとまた怒られる。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。調子に乗ってもらっては困る」
「はい」
褒められたのか釘を刺されたのかよくわからない。両方だろう。そんなわけで俺が父上から貴族としての発言についてありがたい説教を受けていた頃。
エレオノーラは一人で客室に戻っていた。
侍女のマルタが付き添っていたし、扉の外には王城の女官もいた。それでも、彼女が人前で肩の力を抜けたわけじゃない。
後で聞いた話だ。あの時、エレオノーラは客室に戻ってから、しばらく手袋を外せなかったらしい。
指先が震えていたのだと、マルタがあとで声を落として教えてくれた。
剣を向けられた時のこと。会場の視線。レオンハルト殿下の声。
昨日の出来事と言うには、まだ近すぎたのだと思う。
それでもエレオノーラは、父親の前で言ったそうだ。
「怖かったです」
「悔しかったです」
「でも、守られるだけでは終わりたくありません」
オスカー公爵は、娘を止めなかった。
父親としては部屋に閉じ込めたい。公爵としては、娘の言葉を退けられない。そう言ったらしい。
俺はその場にいなかった。だから細かい声の震えや表情までは知らない。
ただ一つだけ、あとで本人の口から聞いた。
エレオノーラは、名誉回復の場に自分も立つと決めた。
父親や俺の後ろから見ているだけでは嫌だ、と。
説教から解放された俺がエレオノーラの客室を訪ねたのは、その少し後だった。
扉の前で女官に確認を取る。公爵令嬢の部屋に突然入るほど命知らずではない。俺も成長したのだ。
許可が出たので中へ入る。
オスカー公爵はすでにいなかった。部屋にはエレオノーラとマルタだけだ。テーブルの上には冷めかけた茶がある。
「失礼する」
「どうぞ」
エレオノーラはいつもより穏やかな顔をしていた。ただ目元が少し赤い。俺はそれに気づいた。
気づいたけれど言わなかった。
言わない方がいいこともある。俺にしては賢い。
「父上に怒られた?」
「怒鳴られはしなかった」
「それは珍しいわね」
「珍しいって言うな。事実だけど」
エレオノーラは少し笑った。それを見て安心する。安心した途端に気が抜けそうになった。
でもここでだらしない顔をするとマルタに見られる。俺にも一応、公爵家子息としての見栄がある。
「アルト」
「なんだ?」
「名誉回復の場に、私も立つことにしたわ」
思ったより早かった。正直、止めたい気持ちもあった。また傷つくかもしれない。
あの場にいた連中の顔を見ることになる。レオンハルト殿下とも向き合う。
でも、ここで止めたら俺まで彼女の足を縛ることになる。そういう助け方を、エレオノーラは望まない。
「そっか」
「反対しないの?」
「した方がいいのか?」
「普通はするかもしれないわ」
「じゃあ普通じゃないからしない」
「何よそれ」
「俺は幼馴染だからな。普通の判断は他の偉い人に任せる」
エレオノーラは目を丸くした。それから呆れたように笑った。
「本当にあなたは」
「なに?」
「変わらないわね」
「褒めてる?」
「少し」
少しか。まあ十分だ。
俺は椅子に座る。マルタが茶を淹れ直してくれた。
さすが侍女。動きに無駄がない。うちのロランと勝負できそうだ。
何の勝負かは知らない。
「怖くないわけじゃないの」
エレオノーラが言った。
「うん」
「また見られるのだと思うと、息が詰まりそうになるわ」
「うん」
「でも、黙っていたらきっと何も変わらない」
俺はカップを置いた。
「エレオノーラ」
「何?」
「俺はここにいる」
彼女が俺を見る。茶化すつもりはなかった。なので茶化さない。
「前に立つ必要があるなら立つ。後ろにいた方がいいなら後ろにいる。お前が自分で話すなら黙っている。でも隣にはいる」
言ってから少し恥ずかしくなった。こういう真面目な台詞は慣れない。口の中がむずむずする。
エレオノーラはカップの縁を見ていた。
やがて、手を伸ばしてきた。俺の袖をつかむ。昨日は自分の手袋だった。
今日は俺の服の端だ。
俺はそこを見た。見ないふりは、少し難しかった。言ったら離されそうだった。
「なら」
エレオノーラの声は小さかった。
「少し、そこにいて」
「いるよ」
「余計なことは言わないで」
「難しい注文だな」
「言わないで」
「はい」
黙った。部屋の中は静かだった。窓の外で鳥が鳴いている。
王城の庭はやたら整っていて、こういう時でも絵みたいにきれいだ。少し腹が立つくらいきれいだった。
エレオノーラは布をつかんだまま、目を閉じた。泣きはしなかった。眠りもしなかった。
布をつかむ指に、力が入っては抜けた。
俺は口を閉じた。本当に黙った。自分で自分を褒めたい。
いや今はやめておこう。しばらくして、また扉が叩かれた。
入ってきたのはフェリクス殿だった。いつものように姿勢がいい。表情も崩れない。
第一王子の近侍というのは大変そうだ。
「失礼いたします。アルト殿。エレオノーラ様。ユリウス殿下より伝言です」
「何かあったのか」
「ミリア・ベルティナ嬢が、監視下で目を覚ましました」
フェリクス殿の声が落ちた。エレオノーラの指が布から離れそうになる。俺は動かなかった。
彼女も離さなかった。
「状態は?」
「落ち着いているそうです。泣きも暴れもせず、食事も断っていないとのことです」
それはそれで胃に悪い。追いつめられた人間が落ち着いている。そういう時はろくでもないことを考えている場合がある。
俺の偏見かもしれないが、ミリアに関しては偏見を捨てる気になれない。
「それで?」
エレオノーラが聞いた。声は静かだった。でもその指に少し力が入った。
フェリクス殿は一瞬だけ迷った。その迷いで、俺は嫌な予感がした。
「ミリア嬢が、エレオノーラ様との面会を望んでおります」
マルタが息をのむ。
「私と?」
「はい。ただし殿下はすぐに許可するおつもりはありません。危険があると判断されています」
「そうでしょうね」
エレオノーラはうなずいた。それで終わりではなかった。フェリクス殿は続ける。
「彼女は、こう申しました」
父上の指が机の上で止まった。
「エレオノーラ様に伝えたいことがある。あなたはその席に座っている人ではない。早く降りてくれないと困る、と」
「席?」
俺は眉を寄せた。フェリクス殿は表情を変えないまま答える。
「詳細は不明です。ただ、繰り返し同じ言葉を口にしているそうです」
エレオノーラが俺を見る。俺も見返した。席。
座っている人ではない。降りてくれないと困る。
まただ。ミリアの言葉は、ところどころおかしい。
俺は前世で乙女ゲームを知っている。だから「悪役令嬢」や「ヒロイン」という言葉を使う。でもミリアのそれは、俺の知識とは違う場所から出ている気がした。
席。降りる。困る。
まるで、エレオノーラの場所を最初から誰かが決めていたみたいな言い方だった。
エレオノーラは指をほどいた。
「会います」
「エレオノーラ」
名前が先に出た。
「今すぐではありません。準備も警護も必要でしょう。けれど、彼女が私に何を見ているのかは聞きます」
「危ないぞ」
「ええ」
「傷つくかもしれない」
「もう傷ついているわ」
返す言葉がなかった。エレオノーラは立ち上がった。少しふらついたが、すぐに姿勢を戻した。
「だから聞くの。知らないところで好き勝手に呼ばれるのは、もうたくさんです」
その顔は青白かった。でも目は逃げていない。
「その呼び方を、私に向けないでほしいの」
はっきりと言った。
「私は、エレオノーラ・フォン・レインフォードです」
フェリクス殿が深く頭を下げた。
「そのように殿下へお伝えいたします」
彼が退室する。扉が閉まった後、エレオノーラは手袋の端を握った。
俺は半歩横に立った。
「さっきの話、継続でいいか」
「何の話?」
「近くにいるって話」
エレオノーラは俺を見た。表情が少し緩む。
「ええ」
そして声を落として付け足した。
「今度は、服の端くらいならつかんでもいいでしょう」
「もちろん」
即答した。そこは迷わない。エレオノーラは呆れたように笑った。
その笑みを見て、俺はようやく息を吐けた。
ミリア・ベルティナは何かを知っている。それは、俺の知っている乙女ゲームの知識とは違う。
それでも一つだけ決めた。
あいつがエレオノーラを何と呼ぼうと、席を降りろと言おうと知るか。
エレオノーラはここにいる。俺のすぐ横で、手袋の端を握りながら立っている。
なら俺も同じ場所に立つ。
幼馴染ってのは、たぶんそういうものだ。




