第99話:「因縁の対峙」
剣が、篝火の橙を弾いた。
ゼノリスは動かなかった。
石畳の上に立つ男を、静かに見る。純白の聖鎧。金髪の長髪。腰から引き抜かれた聖王の剣が、刀身に炎の色を映しながら揺れている。顔の造作は整っていた。だがその目が、ゼノリスを射る。怒りではない。もっと根の深いものが、瞳の奥に燻っていた。
「……よくも」
アリアスの声が、大通りに落ちた。低く、絞り出すような声だった。
「よくも、俺の仲間を」
石畳に伏したブラムの鎧が、篝火の光を鈍く反射している。ゼフィルは動かない。リュシアだけが小さく息を吸い、それきり硬直していた。三人とも、意識はある。ただ立てない。それだけの話だった。
アリアスは一歩、踏み出した。聖王の剣が、切っ先を下げたままゼノリスに向く。
「お前……魔王か?」
問いではなく確認だった。
「ええ」
ゼノリスは答えた。声に起伏はない。
「ゼノリス・ヴォルガデスです」
名を聞いた瞬間、アリアスの目が一瞬だけ揺れた。それはすぐに消え、口の端が持ち上がる。
「腰抜けが、随分と偉そうな口を利く」
演説の構えが出た、とゼノリスは思った。声量が上がり、抑揚が変わる。
「神は俺を選ばれた。この剣も、この聖鎧も、世界に光を取り戻すために与えられたものだ。お前のような……歴史の敗残者が、俺の前に立てると思うか」
言葉が夜の大通りに響く。篝火が揺れた。熱気が石畳を舐める。アリアスの声には、長年磨かれた重みがあった。民衆の前で何度も繰り返してきた言葉の型が、肉声に染み込んでいる。
ゼノリスは、その声を聞いていた。
聞きながら、静かに瞳の焦点を変えた。
アリアスの頭上に、星が浮かんだ。
【漆黒の星。☆☆/☆☆】
【力の略奪】
それだけだった。
権能は、ない。だが、特殊技能はある。
でも、それだけだ。
到達可能な限界が、すでにそこで閉じている。漆黒の星は淀んでいた。黄金でも白でもない。敵意の色をした星が二つ、空中に静止している。
ゼノリスは目を戻した。
「貴方は」
アリアスの言葉が途切れた。ゼノリスが口を開いたからではない。声の静けさが、演説の勢いを押し止めた。
「他者から奪った力で、虚勢を張っているだけです」
夜の大通りが、静まった。
篝火だけが音を立てている。
アリアスの目が、一瞬、揺れた。笑みが固まる。聖王の剣を握る手に、力が入った。
「……何を」
「見たままを申し上げました」
ゼノリスは続けた。責めてもなく、急かしてもいない。ただ、事実を置くように言葉を出す。
「プラチナの称号が、世界が称える英雄譚が、貴方を強くしたわけではありません。……私には見えています。貴方が何を奪い、何に縋って今日まで立っていたか。その全てが」
アリアスの顔から、笑みが消えた。
石畳を踏む足が、止まる。剣を持つ腕が、微かに震えた。ほんの一瞬だった。次の瞬間には、目が怒りで塗り潰される。
「黙れ」
低い声だった。演説の型が崩れていた。
「黙れ……っ! 貴様に、何が分かる!」
アリアスの右手が、持ち上がった。
聖王の剣とは別の動きだった。掌を開き、指先を空中に向ける。何かを掴もうとするような形で、止まる。
ゼノリスはその手を見た。
――また、奪いに来た。以前のように、他者の力を。
指先の周囲で、空気が歪んでいた。熱でも魔力の輝きでもない。もっと薄く、もっと粘ついた揺らぎが、アリアスの掌の中心に集まっていく。他者の力を引き剥がし、自分のものとして取り込む。その動作を見た。
アリアスの口が、小さく動いた。声にはならなかった。それで十分だった。
ゼノリスは、ただ見ていた。
その瞳の奥で、何かが静かに答えた。
アリアスの掌の中で、揺らぎが止まった。
掴もうとしたものが、なかった。
引き剥がそうとした力の手触りが、指の間から砂のように零れた。形を成す前に、理が拒絶した。【至極の理】は攻撃しない。ただ、そこに在る。偽りで組まれたものは、その眼の前では構造を保てない。アリアスの【力の略奪】は、対象を見つける前に、理の重さに押し潰された。
アリアスの手が、宙に浮いたまま止まっていた。
一秒。
二秒。
何も起きなかった。
「……なぜ」
掠れた声だった。
「なぜだ」
アリアスは自分の掌を見ていた。そこには何もない。力の感触もない。いつもそこにあったはずのものが、跡形もなく消えている。理解が追いつかない顔だった。怒りより先に何かが顔に出た。
「貴方の力は、もう通用しません」
ゼノリスは静かに告げた。
「偽りで積んだものは、真実の前では立っていられない。……それだけのことです」
アリアスの目が、ゼノリスに向いた。
その目に、ゼノリスは見覚えがあった。かつて何度も見た目だった。自分が絶対だと信じていたものが、音もなく崩れた瞬間の目。怒りでも憎しみでもない。底が抜けた目だ。
アリアスの足が、半歩、後ろへ動いた。
聖王の剣の切っ先が、石畳に向いた。腕の力が抜けている。純白の聖鎧が篝火の光を弾くが、その内側で呼吸が乱れているのが分かった。胸当てが、不規則に上下している。
もう一歩。
また一歩。
後退が、止まらなくなった。
アリアスは走った。
大通りの暗がりへ、一直線に。聖王の剣を握ったまま、振り返らずに。足音が石畳を叩き、遠ざかっていく。純白の鎧が篝火の光の届かない場所へ消えて、足音だけが残り、それも夜に吸われた。
◇◇◇
ゼノリスの視界の端で、影が動いた。
大通りの脇、篝火の光が届かない軒下から、カイロが歩み出てくる。アリアスが走り去った方向へ、半歩踏み出した姿勢をとっていた。
「待て」
カイロの声が、静かな大通りに落ちた。追う気配があった。
「追う必要はありません」
ゼノリスは言った。
カイロが振り返る。
「……いいんですか?」
「ええ」
ゼノリスは前を向いたまま答えた。
「彼はもう、終わりです。……逃げた先で何をしても、それは変わらない」
カイロは一拍、間を置いた。それから、踏み出しかけた足を戻した。
「分かりました」
短い答えだった。それ以上は言わなかった。
大通りが、静まり返った。
リュシアが先に動いた。膝をついた姿勢から、壁に手をついてゆっくりと立ち上がる。ゼフィルが続いた。宝石杖を杖代わりに石畳を押し、体を起こす。ブラムは二人に腕を支えられて、ようやく半身を起こした。三人とも、ゼノリスを見なかった。見られなかったのだろう。足を引きずりながら、アリアスが消えた暗がりへ、遠ざかっていく。
ゼノリスは、それを見送った。追わなかった。止めもしなかった。
ゼノリスは前方に目を向けた。
カレドの大通りの先、夜の稜線の上に、黒い塊が見えた。
遠い。まだ遠い。だが、形は分かった。かつて何千回と見上げた輪郭が、夜空を切り取るように立っている。尖塔はわずかに傾いていた。長い年月の重みが、石を動かしたのだろう。それでも、崩れてはいなかった。
魔王城。
言葉はいらなかった。感慨も、今はまだいらない。それは城の門をくぐってから、玉座の前に立ってから、初めて口にすればいい。
ゼノリスは振り返った。
カイロが、こちらを見ていた。セラが、シルヴァが、ガルムが、ノアが、それぞれの場所に立っている。誰も何も言わなかった。言う必要がなかった。
「さあ、帰りましょう」
ゼノリスは言った。
「我が城へ」




