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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第100話:「王の帰還」

 足音が、七つ。


 石畳の上を、それぞれの重さで踏んでいた。先頭はカイロだった。足音はほとんど聞こえない。重力を忘れたような歩き方で、前方の暗がりを確かめながら進んでいる。その後ろにセラが続いた。少し早足で、石を踏むたびに靴底が小さく鳴る。シルヴァは静かだが規則的で、セレナはその後ろをゼノリスの足音を聞きながら歩いていた。他の誰とも違う、音を確かめるような踏み方だった。一歩ごとに地面の感触を測るように、丁寧に、石畳を踏んでいる。ゼノリスの後ろにノアが続き、殿にガルムがいた。一歩ごとに地面が微かに沈むような重さが、最後尾から伝わってくる。


 ゼノリスは前を向いたまま歩いた。


 前線都市カレドの夜が後ろへ退いていく。篝火の橙が届かなくなり、石畳が月明かりだけに切り替わった。道幅が狭まり、建物の気配が薄れ、代わりに岩と土の匂いが濃くなった。廃棄された荷車の残骸が道の端に転がっている。車輪が外れ、板が腐り、そこに蔦が絡みついていた。


 遠くに、黒い塊が見えていた。


 近づくほどに輪郭が増していく。城壁の上端がギザギザに欠け、一部が完全に崩れて瓦礫の山になっている。それでも、主塔だけは空を突いたまま立っていた。


 城門の前で、ゼノリスは立ち止まった。


 鉄格子が半分、地に落ちていた。蝶番が錆びて千切れ、格子の一枚が石畳に横たわっている。残った半分だけが、申し訳程度に入口を塞いでいた。城壁に蔦が這い上がり、月光の下で黒く見える。石の隙間から雑草が顔を出し、根が石を押し広げようとしていた。


 風が吹いた。


 城壁の内側から来る風だった。石と埃の匂いがした。冷たく、乾いた空気だった。かつて何千回と嗅いだ匂いが、そこにあった。


 ゼノリスは城門の石柱に手を置いた。


 冷たかった。掌に、石の凹凸が伝わる。苔が生えた部分だけが少し湿っていた。指先で表面をなぞると、石の粒が剥がれて落ちた。だが、その下の石はまだ硬かった。


 七人は、無言で城門をくぐった。


◇◇◇


 城内は暗かった。


 月光が城壁に遮られ、道幅も狭くなる。カイロが先に立ち、無言で前を進んだ。石畳の継ぎ目に枯れ葉が溜まり、踏むと乾いた音が立った。


 建物の影が濃く、窓枠だけが残って内側が空洞になった部屋がいくつもある。扉が腐って外れ、開いたまま固まっている。


 ゼノリスは歩きながら、左右に目をやった。


 食料庫だった場所の石壁に、黒いシミが広がっている。兵舎だった棟の屋根が半分落ち、梁が剥き出しになって天を向いていた。かつて何百人もの気配があった場所が、今は風だけを通している。


 角を曲がったところで、カイロが立ち止まった。


「この先に、使える部屋があります」


 声を落として言った。


「セレナさんはそちらで、休んでいてください」


 ゼノリスはセレナに目を向けた。


「よろしいですか?」


 セレナが答えた。


「はい。皆様の音は聞こえますから」


 迷いのない声だった。


 カイロが短く頷き、先導した。セレナの足音が、廊下の角を折れて遠ざかっていく。音を確かめる踏み方は、変わらなかった。足音が消えるまで、ゼノリスはその場に立っていた。


◇◇◇


 玉座の間に続く回廊に入った。


 石床が広くなり、天井が高くなる。両側に柱が立ち並んでいるが、三本に一本は根元が欠けていた。柱の上部に施された彫刻が、一部削れてその形を失っている。


 足元の石床は、割れ目から植物が芽吹いていた。細い茎が、石の間から真っ直ぐ上へ伸びている。


 玉座の間の扉が見えた。


 両開きの鉄扉で、左扉の上部が変形して歪んでいる。右扉は閉じたまま、錆の模様が全面に広がっていた。把手は両方残っていた。


 ゼノリスは扉の前で止まった。


 カイロが、何も言わず横に立った。ゼノリスも何も言わなかった。


 右の把手とってを、両手で掴んだ。錆が掌に移る。引く。石床に錆の粉が落ちた。扉が、低い音を立てながら動いた。蝶番が軋む。重い。だが動く。半開きになったところで、ゼノリスは手を離した。


 扉の向こうは、広かった。


 天井が高く、空気が澄んでいた。城内の他の場所より埃が少ない。月光が天窓から差し込み、石床の中央に四角い光の区画を作っていた。壁の燭台は全て空だった。旗を掲げていた柱には、朽ちた布の切れ端だけが残っている。


 奥に、玉座があった。


 石造りの台の上に、重く置かれていた。肘掛けの一部が欠け、背もたれの頂点にあったはずの装飾が失われている。だが、座面は残っていた。椅子の形は、崩れていなかった。


 ゼノリスは近づいた。


 足音が石床に響く。月光の中に入り、また暗がりへ出て、また光に入る。台の前に立ち、段を一段上がった。


 右手を、肘掛けに置いた。


 冷たかった。城門の石柱より、ずっと冷たかった。何十年も人の熱を受け取っていない冷たさが、掌の中心から肘まで伝ってきた。指先で石の表面をなぞる。欠けた箇所がある。角が丸くなっている。それだけだった。


 玉座は、そこにあった。


「……ただいま」


 声は小さかった。七人の誰かに向けた言葉ではなかった。


 ゼノリスは静かに振り返った。


 五人が、そこにいた。


 カイロが音もなく膝をついていた。いつ動いたのか、ゼノリスには分からなかった。ただ、気づいた時にはすでに、石床に片膝をついて頭を垂れていた。


 セラが続いた。膝をつく動作に迷いがなかった。拳を石床について、顎を引く。その肩が、わずかに震えていた。


 シルヴァは静かに膝を折った。外套の裾が石床に広がる。両手を膝の上に重ね、背筋を伸ばしたまま頭を下げた。


 ガルムは、ゆっくりだった。巨体が石床に沈んでいくのに、少し時間がかかった。片膝がついた瞬間、床が低く鳴った。頭が下がる。


 ノアが最後だった。帳面を脇に抱えたまま、静かに膝をついた。顔を上げないまま、口だけが小さく動いた。声は出なかった。


 誰も、何も言わなかった。


 石床に並んだ五人をゼノリスは見た。


 カイロ、セラ、シルヴァ、ガルム、ノア。それぞれが、頭を下げていた。


 ゼノリスは何も言わなかった。


 言葉が、見つからなかった。感謝でも、命令でも、励ましでもない。今この場所で口にすべき言葉が、どこにもなかった。


 ただ、一人ずつの頭を、もう一度見た。


 それだけで、十分だった。


◇◇◇


 ゼノリスは玉座に座った。


 背もたれが、肩甲骨の高さまでしかない。かつてはもう少し高かったはずだ。上部の装飾が失われた分だけ、低くなっている。座面の石は冷たく、硬かった。布も革も、とうの昔に朽ちていた。


 背を預けた。


 石の感触が、背骨に沿って伝わってくる。硬い。それでも、崩れない。ゼノリスは一度、深く息を吸った。冷たい空気が、肺の底まで入ってくる。


 天窓から差し込む月光が、石床の上で動かずにいた。


 ゼノリスは正面を向いた。


 玉座の間の奥行きが、視界に広がる。かつてはそこに廷臣が並んでいた。旗が下がり、燭台が灯り、石床に光が満ちていた。今は、何もない。空洞だけがある。


 だが、ゼノリスの前には五人がいた。


 立ち上がっていた。カイロが最も端に立ち、その隣にセラ、シルヴァ、ガルム、ノアが続いている。誰も前を向いたまま動かない。


 ゼノリスは右手を上げた。


 指先を、軽く曲げる。魔力が、掌の内側で静かに動いた。形を与える。声を乗せるための、薄い膜のようなものが、喉の周囲に展開する。城の石が、その術式を受け取った。壁が、床が、天窓が、静かに共鳴する。


 声が届く範囲が、広がった。


 ゼノリスは息を整えた。もう一度、深く吸う。


「私はゼノリス・ヴォルガデス」


 声が、玉座の間に満ちた。石壁に当たり、天井に跳ね、扉を抜けていく。術式が声を捉え、城の外へ運ぶ。夜の空気の中を、真っ直ぐに。


「真の魔王として、魔王城に帰還した」


 声が、カレドの大通りへ届く。廃城の外壁を越え、荒れた街道を渡り、草原の上を走っていく。夜の空気が揺れる。


「勇者と聖教会が作り上げた偽りの世界は、これで終わる」


 声が、遠くへ行く。山を越え、川を渡り、眠る者の耳へ届く。起きている者の、窓の向こうへ届く。どこへ届くかは、わからない。だが、届く。


「これより、誠実な統治を始める」


 最後の言葉が、玉座の間の石壁に吸われた。


 術式が、静かに解けた。


 沈黙が戻ってきた。


 五人が、動かないまま立っていた。


◇◇◇


 音が、来た。


 セレナは石壁に手を当てたまま、動かなかった。


 廊下の先から届いてきた。石を伝い、空気を揺らし、壁の向こうから滲み出してくるように何かが来た。


 セレナは耳を澄ませた。【心眼】が、音の輪郭を捉えた。


 声の質が、まず届いた。


 低く、重く、それでいて急かさない。押しつけない。広がるのではなく、ただ、在るような声だった。


――私はゼノリス・ヴォルガデス。


 言葉が、耳の中に入ってきた。


 セレナは息を止めた。指先が、石壁の表面をわずかに押した。冷たかった。その冷たさが、今だけは遠かった。


 声が続いた。


 真の魔王として、魔王城に帰還した、と言った。


 偽りの世界は終わる、と言った。


 誠実な統治を始める、と言った。


 一言ずつが、空気の震えに乗って届いた。セレナはその全てを受け取った。音の高さ。息の継ぎ目。言葉と言葉の間にある、わずかな沈黙。何一つ、零れなかった。


 セレナは動かなかった。


 勇者の声を、思い出した。力強く、揺るぎなく、民衆の前で何度も繰り返された声。その声には熱があった。高く、よく通り、聴く者を鼓舞した。


 だが。


 セレナの耳は、長い時間をかけて聴いてきた。勇者の声を聴くたびに、胸の奥で何かが軋んだ。


 今、壁の向こうから届いた声には、その軋みがなかった。


 一度も、なかった。


 最初に廊下ですれ違った時から。拠点の部屋で扉を叩かれた時から。夜の草の上を共に歩いた時から。ずっと。


――これが。


 声に出なかった。出せなかった。


――真実の音。


 頬に、何かが伝った。


 セレナは気づかなかった。石壁に当てた手が、指先まで力を失っていた。膝が、わずかに折れた。壁に額を預ける。冷たい石の感触が、額から伝わってくる。


 それでも、聴いていた。


 声の余韻が、まだ空気の中にあった。言葉は終わっていた。だが、その震えがまだ残っていた。壁の石が、かすかに鳴っている。


 セレナはその音を、最後まで聴いていた。


 余韻が消えた。


 静かになった。


 それだけだった。



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