第101話:「王の決意」
夜明けが、近かった。
誰も来ない。天窓から差し込む光は、まだ青みを帯びていた。石床の中央に落ちる四角い区画が、ゆっくりと白さを増していく。
ゼノリスがここへ来た時、その光はいまだ存在していなかった。夜が石の壁を満たし、玉座の間は闇の底にあった。今は違う。光が生まれ、伸び、石床の継ぎ目をひとつずつ照らしていた。
ゼノリスは玉座に座っていた。
背もたれの石が、肩甲骨の下あたりに当たる。久しぶりにここへ座った夜には、その感触が背骨全体に響いた。今は、どこに当たるかを体が知っていた。硬さは変わらない。だが、身体がその硬さを予期するようになっていた。それだけの夜を、ここで過ごしてきた。
光が、また少し白くなった。
視線を前方へ向ける。玉座の間の奥行きが、夜明けの光の中で少しずつ輪郭を取り戻していく。柱が三本に一本、根元が欠けていた。壁の燭台は全て空で、旗を掲げていた柱には布の切れ端だけが残っている。かつてここには廷臣が並んでいた。何十人もが石床に立ち、頭を下げ、言葉を交わしていた。今は空洞だけがある。
ゼノリスはその空洞へ視線を当てたまま、動かなかった。
城を取り戻してから、四日が経っていた。
玉座から放った言葉は、空気の中に溶けている。届いた場所で何かを変えたかもしれない。届かなかった場所では、何も変えていない。だが確かなことがひとつあった。言葉が終わったその瞬間、この城の中は何も変わっていなかった。石は冷たいままで、空洞は空洞のままだった。
民の心には、刷り込まれた像がある。命乞いをした腰抜け。勇者に膝を屈した、過去の亡霊。
壊すだけでは足りない。塗り替えなければならない。
ゼノリスは右手を肘掛けの上に置いた。指先が、石の表面を軽くなぞる。欠けた箇所がある。角が、わずかに丸くなっている。四日前には気づかなかった細部だった。何十年もここにあり続けた石の、冷たくも確かな質量が、指に伝わってくる。
◇◇◇
扉が動いた。
低い音ではなかった。四日前にゼノリスが引いた時の重い軋みではなく、慣れた手が最小限の力で開けた時の、ほとんど音のない動きだった。気配が先に来て、扉が後からついてくるような入り方だった。
カイロだった。
暗色の軽装のまま、足音をほぼ立てずに入室した。石床の継ぎ目を踏まず、軋む箇所を本能的に避けている。玉座まで十数歩のところで止まり、片膝をついた。
「ゼノリス様」
カイロが告げた。声は低く、短かった。
「領民たちは、恐る恐る様子を見ています」
ゼノリスは正面を向いたまま応じた。
「どの程度ですか?」
「城門の近くまで来る者が出始めました」
カイロが続けた。
「ただ、誰も中へは入ってきません。見ている、という状態です」
ゼノリスは一度、息を吸った。
見ている。その言葉を、玉座の間の空気とともに肺に入れた。朝の冷気が、石と乾いた埃の匂いを含んでいた。
「何を待っているか、分かりますか?」
「腰抜けが次に何をするかを、です」
カイロの声に迷いはなかった。
「虐げるのか、逃げるのか。どちらかを待っています。……それ以外があるとは、思っていません」
沈黙が落ちた。
ゼノリスは肘掛けから手を離した。石床に足をつき、立ち上がる。ゆっくりと背を伸ばした。玉座から離れると、空気が少し広くなる感覚があった。天窓の光が正面から当たる位置まで歩き、そこで止まった。
「少し待っていてください」
カイロが顔を上げた。
「……はい」
短く答えて、再び頭を下げた。
光が、足元に伸びていた。
天窓から差し込む角度が、わずかに変わっていた。夜明けの青みはすでになく、白い光が石床の継ぎ目をはっきりと照らしていた。いつの間にか、時が経っていた。
ゼノリスは前を向いたまま、玉座の間の奥行きを見ていた。
虐げるのか、逃げるのか。それ以外があるとは、思っていない。カイロの言葉が、胸の奥に残っていた。正確な報告だった。民の目に映る自分は、まだそれだけの存在だった。
だが――それは、事実として受け取ればいい。
言葉で覆すのではない。形を作るのだ。誠実な統治の形を。民が報われる場所の形を。この空洞を満たすものは、演説ではなく、積み重ねだ。
ゼノリスは振り返った。
「カイロ」
呼ぶと、カイロが顔を上げた。切れ長の目が、ゼノリスを真っ直ぐに見た。
「全員を、ここへ」
一瞬だけ、カイロの目に何かが動いた。問いではなかった。確認でもなかった。ただ、受け取った、という動きだった。
「承知しました」
立ち上がる動作に音がなかった。踵を返し、扉へ向かう。その背中が扉の向こうへ消えると、玉座の間に静寂が戻った。
ゼノリスは天窓の下に立ったまま、玉座へは戻らなかった。
◇◇◇
最初に来たのは、セラだった。
廊下の奥から足音が近づいてくる。弾むような、迷いのない踏み込みだった。扉が勢いよく開き、セラが入ってきた。石床を数歩進んで止まり、ゼノリスを見た瞬間、背筋が伸びた。
「ゼノ様! お呼びですか!」
セラが言った。声に力があった。
「ええ。少し待っていてください」
ゼノリスが答えると、セラは「はい!」と短く返してその場に立った。
次はシルヴァだった。外套の裾が石床を軽く引く音がして、静かに入室した。セラの隣に並び、両手を前で重ねた。視線はゼノリスへ向いたまま、動かない。
ガルムが続いた。廊下から伝わってくる重さが先にあった。一歩ごとに石床がわずかに沈むような足音が近づき、扉をくぐってきた。巨体が玉座の間に入ると、空気の密度が変わる感覚があった。シルヴァの隣に立った。
「ゼノリス様」
ガルムが言った。低く、重い声だった。ゼノリスが目を向けると、ガルムは静かに頭を垂れた。それだけで、言葉は続かなかった。
ノアが四番目だった。帳面を脇に抱え、足音を抑えながら入ってきた。三人の端に並ぶと、帳面を開く気配があった。
カイロが最後だった。
全員の入室を確認してから入ってきた、とゼノリスには分かった。音を立てぬよう慎重に扉を引き込み、五人目として列の端に立った。誰よりも音がなかった。
五人が、横一列に並んでいた。
セラ、シルヴァ、ガルム、ノア、カイロ。それぞれが前を向き、ゼノリスを見ていた。玉座の間の空洞が、今だけ違う密度を持っていた。
ゼノリスは五人を、一人ずつ見た。
左から右へ。それぞれの顔を、順に。セラの真っ直ぐな目。シルヴァの静かな目。ガルムの落ち着いた目。ノアの観察するような目。カイロの、何も漏らさない目。
誰も、何も言わなかった。
ゼノリスも、すぐには口を開かなかった。五人の顔を見てから、一度、視線を前方の空洞へ向けた。かつて廷臣が並んでいた場所だ。今は五人だけがいる。それで、十分だった。
ゼノリスは五人へ向き直った。
「あなた方に、お願いしたいことがあります」
声が、石壁に当たって返ってきた。静かな声だったが、玉座の間の奥行きの中でよく通った。
五人が、わずかに姿勢を変えた。前のめりではなく、受け取る構えに変わった。誰も口を開かない。誰も、目を逸らさなかった。




