第102話:「任命の儀」
ゼノリスは一度、息を整えた。
玉座の間に、五人が並んでいた。石床に足をつけ、前を向いたまま、誰も口を開かなかった。ただ、ゼノリスが口を開くのを待っていた。
深紅と黒の王衣が、天窓からの光を受けていた。肩の獅子の毛皮が、わずかに揺れた。
「これまで、あなた方は私と共に戦ってくれました」
声が、玉座の間の奥行きに溶けていく。空間がその響きを受け取り、静かに広げた。
「しかし、これからは違います」
一拍、置いた。
「この国を、民が報われる場所にするために――あなた方の力が必要です」
言葉が終わった。
五人は動かなかった。石床に光が落ち、壁の影が伸びていた。玉座の間の空気が、少し密度を増したような感覚があった。
ゼノリスの視線が、列の端に留まる。
「カイロ」
ゼノリスが名を呼んだ。
カイロが、前に出た。音がなかった。足が石床に触れているはずなのに、移動したという事実だけが残るような動き方だった。
「あなたには私の補佐として、すべての実務を統括してほしい」
ゼノリスは続けた。
「この国の骨格を作るのは、あなたです」
カイロは膝をついた。右膝が石床につく音が、小さく確かに鳴った。頭が下がる。切れ長の目が、石床を向いた。
「承知しました」
短かった。だが、声の底に何かが沈んでいた。
「この命、ゼノリス様のために」
ゼノリスはカイロを見た。頭を下げたまま動かない背中を。石床についた膝を。かつて囮として突き飛ばされた男が、今ここで膝をついている。
喉の奥が、締まった。
この男の命は、一度捨てられたものだ。それを拾い直し、もう一度差し出している。その重さが、ゼノリスの胸の奥に沈んでいった。沈んで、戻ってこなかった。
何も言わなかった。今、言葉を重ねれば、この沈黙が軽くなる。
ゼノリスは、静かに視線を動かした。
「セラ」
次の名を呼ぶと、セラの肩がわずかに動いた。
前に出る足音は、カイロとまるで違った。一歩ごとに石床を踏む感触が伝わってくるような、重心の乗った歩き方だった。セラが止まり、ゼノリスと正面から目が合った。
目を見開いていた。
驚きではなく、受け取ろうとする目だった。それが一瞬で引き締まり、真っ直ぐになった。
「あなたには騎士団長として、物理の極致でこの国を護る矛となってほしい」
ゼノリスが告げると、セラは膝をついた。カイロより音があった。石床に膝が当たる音が、玉座の間に短く響いた。拳を石床につき、顎を引く。
「……はい」
声が、普段より低かった。ここが儀式の場だと分かっている。それでも、抑えた声の奥に熱があった。
「必ず、ゼノ様の国を護ります」
ゼノリスは、セラの伏せた頭を見た。淡い青の髪が、光の中でわずかに揺れていた。この小柄な体に、神域の力が宿っている。その事実を、ゼノリスは改めて確かめるように見た。
視線を隣へ移し、淡い青の髪と並んで控える銀の髪へと、声をかけた。
「シルヴァ」
名を呼ぶと、シルヴァが静かに前に出た。
外套の裾が石床を引く音だけがして、移動が完了していた。止まった時には、すでに姿勢が整っていた。長耳が光を受け、銀の髪が肩で揺れた。
シルヴァの目が、一瞬だけゼノリスの目を捉えた。構造を透かし見るような、いつもの目だった。だがその奥に、普段とは違う何かがあった。確かめるような動きではなく、受け取ることを決めた目だった。
「あなたは魔術団長として、理を書き換える叡智でこの国の術式基盤を築いてほしい」
シルヴァは膝をついた。音は、ほとんどなかった。両手を膝の上に重ね、背筋を伸ばしたまま頭を下げる。
「……承りました」
短く、明確だった。
「この国の術式は、私が組みます」
言葉に迷いがなかった。宣言でも誓いでもなく、ただ事実を述べるような言い方だった。それがシルヴァらしかった。
ゼノリスは頷いた。言葉を返す前に、シルヴァが静かに頭を下げた。それで十分だった。
三人が、石床に膝をついている。視界の端でその三つの影が並んでいた。
次の名が、喉の手前にあった。その名を口にする時、自分の声がどうなるか――ゼノリスには、分かっていた。
「ガルム」
名を呼ぶと、玉座の間の空気が動いた。
ガルムが前に出る。一歩ごとに、石床が低く鳴った。重さが先に伝わり、巨体が後からついてくるような歩き方だった。止まった時、ゼノリスの前に城壁のような体格が立っていた。
ゼノリスは見上げた。
岩石のような輪郭。刻まれた戦傷。細い目の奥に、深いものが宿っている。
「あなたは守護隊長として、絶対不可侵を約束する盾となってほしい」
ゼノリスが告げた。
ガルムは動かなかった。一拍、二拍。それから、ゆっくりと膝を折り始めた。巨体が石床へ沈んでいく時間は、他の誰よりも長かった。右膝が床につく音が、低く重く、玉座の間に響いた。
頭が下がった。
「……承知いたした」
声が、石床に向かって落ちた。低く、重く、それでいて静かだった。
「この盾は、もう捨てられるためにはありません」
ゼノリスは、ガルムを見た。今、石床に向かって頭を下げていた。かつて勇者に『使えない』と断じられ、囮として切り捨てられた男が。
言葉が、出なかった。
ゼノリスは一度、目を伏せた。天窓の光が、ガルムの広い背中を照らしていた。その背中が、かすかに震えていた。大きすぎて、普通なら見えない程度の震えだった。
ゼノリスは、何も言わなかった。言葉を重ねれば、この場が軽くなる。今は、この沈黙だけでいい。
「ノア」
最後の名を呼んだ。
ノアが前に出た。帳面を脇に抱えたまま、足音を抑えて歩いてくる。他の四人より線が細く、背が低い。だが、その目は常に先を見ていた。今もそうだった。ゼノリスの顔を見ているようで、その先の何かを追っている目だった。
「あなたは軍師として、国家の未来を描く頭脳となってほしい」
ノアは帳面を抱えたまま膝をついた。片手で帳面を押さえ、もう片方の手を石床につく。頭を下げる直前、一瞬だけゼノリスと目が合った。
「……勝たせます」
短かった。
だが、その言葉にノアの全てが入っていた。言葉を尽くさず、余分を削ぎ落として、核だけを残す。それがノアだった。
◇◇◇
五人が、石床に膝をついていた。
カイロ、セラ、シルヴァ、ガルム、ノア。誰も顔を上げなかった。誰も動かなかった。玉座の間の静寂が、五人を包むように広がっていた。
ゼノリスは五人を見渡した。
左から右へ。一人ずつ。伏せた頭を、順に。カイロの黒紫の髪。セラの淡い青。シルヴァの銀。ガルムの光を反射する広い頭頂部。ノアの少し伸び気味の短髪。
それぞれが、石床に膝をついている。
ゼノリスは何も言わなかった。言葉を探したが、見つからなかった。感謝でも、命令でも、励ましでもない。今この瞬間に口にすべき言葉が、どこにもなかった。
天窓から光が落ちていた。石床の継ぎ目を照らし、五人の輪郭を縁取っていた。玉座の間の空気が、静かに満ちていた。
やがて、ゼノリスは口を開いた。
「あなた方には新たな名を授けます」
声が、石壁に当たって返ってきた。
五人が、わずかに動いた。顔を上げたわけではなかった。膝をついたまま、ただ、動いた。息を呑む音が、一つ。それがどこから来たか、ゼノリスには分からなかった。
玉座の間の静寂が、また深くなった。




