第103話:「新たな名」
玉座の間の静寂が、止まっていた。
五人が石床に膝をついたまま、誰も動かなかった。ゼノリスの言葉が空間に溶けてから、まだ息の一つ分も経っていなかった。天窓から落ちる光が石床の継ぎ目を照らし、五人の輪郭を縁取っている。
新たな名を授ける。
ゼノリスは、その言葉を口にした時、自分の声が想像より静かだったことに気づいていた。どこかで張り上げるつもりだったわけではない。ただ、この場には、声を大きくする必要がないと分かっていた。
玉座の間は、声を吸い込み、響かせるすべを知っていた。
「カイロ」
最初の名を呼んだ。
カイロが石床に視線を落としたまま、微かに肩を動かした。
「あなたに、新しい名を授けます」
一拍を置いた。
「カイロ・ゼイン」
沈黙が来た。
三つ数えるほどの間があって、カイロが低く問い返した。
「……名を、いただけるのですか」
問いとも確認ともつかない声だった。短く切れていたが、底に何かが揺れていた。カイロが感情を声に出すのは珍しかった。ゼノリスはその声の質を確かめるように、少し間を置いた。
「あなた方は、もう捨てられた者ではありません」
ゼノリスは言った。
「この国の礎です。名は、その証明です」
カイロは返さなかった。石床に向けた頭を、それ以上動かさなかった。
ゼノリスには、その沈黙の意味が分かった。言葉にすれば崩れるものがある。カイロはそれを知っている。だから黙っていた。それで良かった。
視線を動かし、次の名を呼んだ。
「セラ」
セラの体が、一度だけ揺れた。
前に出たわけではなかった。膝をついたままの姿勢が、ほんの少し前のめりになり、それからすぐに元へ戻った。
「あなたには、セラ・アルベインという名を授けます」
返答がなかった。
ゼノリスは待った。セラが声を出さないことが珍しかった。何か言いかけて止まったような気配が、玉座の間の空気に残っている。
「……」
やがて、低い息が聞こえた。
声を抑えた時に出る、鼻の奥の詰まった呼気だった。セラは声を出すことができなくなっていた。
言葉にしなくて良かった。ゼノリスは思った。この重さを全部言葉に変えようとしたら、何も伝わらなくなる。
視線を隣へ向けた。
「シルヴァ」
銀の髪が、光の中で細かく動いた。
シルヴァが静かに前へ顔を向ける。石床を見ていた目がわずかに持ち上がり、ゼノリスの方を向いた。いつもの、構造を透かし見るような目だった。ただ、その目の奥に、普段とは違う何かがある。それが何かを言葉にする前に、ゼノリスは口を開いた。
「あなたには、この名を授けます。シルヴァ・エルシオン」
その瞬間、玉座の間の空気が変わった。
音ではなかった。光でもなかった。シルヴァの周囲の空気が、ほんの少し違う密度を持ったような感触があった。石床に、小さな白い花が一輪、静かに咲いていた。
シルヴァは頭を下げた。両手を膝の上に重ね、背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと。
「……承りました」
短く、明確だった。
「この名に、恥じない術式を組みます」
言葉に迷いがなかった。誓いとも宣言とも違う、ただ事実を述べる口調だった。それでいてその言葉は、玉座の間の石壁に当たって返ってきた後も、空気の中に静かに残った。
ゼノリスは一度だけ頷いた。
シルヴァが咲かせた花が、光を受けて白く光っている。風がないのに、花びらが微かに揺れていた。
揺れる花びらを横目に、ゼノリスは次の名を呼んだ。
「ガルム」
ガルムの背中が、わずかに動いた。前に出るわけではなかった。膝をついたまま、その巨体がゆっくりと顔をゼノリスへ向けた。刻まれた皺の奥にある細い目が、ゼノリスをまっすぐ捉えた。
「あなたには、ガルム・ヴァルガという名を授けます」
ガルムは動かなかった。
石床に置いた両の拳が、ゆっくりと握られた。関節が白くなるほど力が入り、それから少しずつ緩んだ。ガルムの喉が動いた。何かを飲み込んだような動きだった。
「……ガルム・ヴァルガ」
声が来た。
低く、静かな声だった。自分の名を、口の中で転がすように繰り返していた。それからガルムは、石床に向かってゆっくりと頭を下げた。
「この盾は……この国を、守る盾となります」
声が、石床に吸い込まれていった。
ゼノリスは何も言わなかった。
ガルムは頭を垂れたまま、微動だにしなかった。その背中の厚みの中に、何十年分かの重さが入っているとゼノリスには見えた。
ゼノリスは一度、目を閉じた。
やがて、ゆっくりと目を開け、列の端へ視線を移した。
「ノア」
ノアは石床に膝をついたまま、片手で帳面を押さえていた。他の誰より体が小さい。だがその目は、名を呼ばれた瞬間からゼノリスをまっすぐ見ていた。
「あなたには、ノア・ヴェイルという名を授けます」
ノアの手が止まった。
帳面の表紙を押さえていた指が、一度だけ白くなった。それからノアは静かに帳面を脇に収め、石床に両手をついて頭を下げた。
「……必ず、この名で」
短かった。
だが言葉の密度が違った。ゼノリスはノアの伏せた頭を見た。小さな肩が、一度だけ上下した。
◇◇◇
玉座の間に、五人が膝をついていた。
誰も顔を上げなかった。誰も動かなかった。
ゼノリスは五人を見渡した。
何も言わなかった。
どんな言葉も、今この場には余分だった。天窓から光が差し、五人の背中に落ちている。静寂が満ちていた。その静寂の中に、今日ここで起きたことの全てが収まっていた。
――この者たちが、ここにいる。
ゼノリスは必死に顔を保った。王としての表情を崩さないように、ただ前を向いていた。
静かに、目を細めた。
【至極の理】が、動いた。
五人の頭上に、星が浮かんだ。
そこには星が五つ、全員の頭上に並んでいた。
ゼノリスは権能を収めた。
まだ☆6ではない。限界突破には、まだ距離がある。だがここまで来た。世界が『ゴミ』と断じたものが、今これだけの輝きを持っている。
顔を保つのが、さらに難しくなった。
「あなた方は、見事に☆5に到達しました」
声が、玉座の間に溶けた。
「誇りに思います」
五人の体が、わずかに揺れた。顔を上げたわけではなかった。
肩が沈んだ者がいた。石床を押さえる手に力が入った者がいた。深く息を吐いた者がいた。鼻をすする音が、一つだけ聞こえた。誰の音かは、分からなかった。分からなくて、良かった。
◇◇◇
「さあ」
ゼノリスは言った。
「国造りを始めましょう」
石床を踏む音が一つ。また一つ。五人が膝を起こしていった。
深紅と黒の王衣が、光の中に立っている。その前に、五人が立った。名を持ち、役を持ち、星を持った者たちが。
玉座の間の空洞が、初めて狭く感じた。




