第104話:「組織の始動」
朝になった。
魔王城の執務室に、書類が積まれていた。
カイロは机の前に立ち、一番上の一枚を取った。領民の人口が記された記録だった。数字が走り書きで並んでいる。誰かが適当に書いたものを、誰かが適当に束ねた、そういう紙だった。
次の一枚。食料の在庫記録。数字が合っていない。
次。防衛体制の配置図。城壁の守備ポイントが三か所しか記されていない。
カイロは三枚を並べ、視線だけで比べた。
やることは分かった。順番も分かった。
「……」
何も言わなかった。椅子を引いて座り、一番重要な書類を手前に置いた。ペンを取る。端から処理していく。それだけだった。
窓の外で、鳥が鳴いた。カイロは顔を上げなかった。
◇◇◇
訓練場は広かった。
セラは石畳の上に仁王立ちになり、腕を組んで、何もない空間を見回した。
騎士団を作る。それは昨日、ゼノ様から授かった役職だった。騎士団長。その名の重さはちゃんと分かっていた。
問題は、そこからだった。
「……騎士団って、何から始めるんだろう」
声に出してみたが、答えは返ってこなかった。当たり前だ。誰もいない。
強いやつを集める。それは分かる。だが集めてどうする? 隊列を組む。それも分かる。だが何のための隊列だ? 城を守る。では城のどこを? 領民を守る。では何人で?
考えれば考えるほど、『分からない』が増えた。
セラは石畳を一度踏み鳴らした。音が訓練場に響いて、消えた。
「……こういうのはノアに聞く。あとシルヴァも」
決まった。セラは踵を返して訓練場を出た。廊下を歩きながら、どっちから先に行くかを考える。シルヴァの部屋は近い。シルヴァから行く。
足が速くなった。
◇◇◇
魔術研究室の空気は、他の部屋と違った。
インクの匂いがした。羊皮紙の匂いもした。窓から差し込む光が、机の上に広げられた紙の束を白く照らしている。
シルヴァは椅子に座り、術式の設計図を書いていた。
基礎術式を誰でも再現できる形に落とす。それがまず必要なことだった。エルフの術式は精密すぎる。人族には複雑すぎる。だとすれば、構造を削ぎ落としながら、効果を損なわない最低限の形を見つけなければならない。
シルヴァのペンが止まった。
一つの術式の骨格が見えた。この構造なら再現できる。
ペンを走らせる。紙の上に線が伸びる。
扉が開いた。
「シルヴァ!」
セラだった。
シルヴァは顔を上げなかった。ペンを置いて、手元の紙に目を落としたまま口を開く。
「……何ですか?」
「今、いい……ですか?」
「……よくないです」
「行きます」
シルヴァが椅子から立ち上がる前に、セラの手が肩を掴んでいた。
「ちょっ、待っ――書きかけが」
「後で書けます。行きましょう」
シルヴァはペンを机に置いた。紙の端を揃える暇もなかった。肩を掴んだまま、セラが歩き出す。
「……担がないでください」
「担いでないです」
「……足が浮いています」
「気のせいです」
廊下に、二人分の足音が続いた。正確には、一人分の足音と、もう一人分の空中移動だった。
◇◇◇
城壁は、思ったより複雑な構造だった。
ガルムは石段を上り、胸壁の上から城下を見渡した。南側に一か所、死角がある。東の城門は幅が広すぎる。北の石塀は低い。
頭の中に地図を描きながら、一か所ずつ足を運んだ。歩いて確かめる。目で測る。それしかない。まだ守る者が自分一人しかいない以上、まず自分が全部を知らなければならなかった。
城壁を一周して、城内へ戻る。廊下を曲がったところで、ガルムは足を止めた。
セラが歩いてきた。その肩に、シルヴァが乗っていた。
正確には、担がれていた。シルヴァの足は地面から離れており、外套の裾が空中で揺れていた。本人の表情は無だった。諦めた顔だった。
ガルムはセラと目が合った。
「ガルム! ノアのとこ行くんですけど、一緒に来る?」
ガルムはシルヴァを見た。シルヴァは視線だけで「関わらないでください」と言っていた。
ガルムは一度だけ息を吐いて、踵を返した。
城壁の西側。まだ確認が終わっていなかった。
◇◇◇
ノアは地図を広げていた。
執務室の隅、窓際の小机に陣取り、領地全体の地図の上に薄紙を重ねて、街道と集落の位置を書き写していた。この領地の統治を効率化するには、まず地形を把握しなければならない。人が集まっている場所、物が流れている道、守りやすい地点と守りにくい地点。それを自分の頭に入れてから、設計を始める。
ノアはペンを止めた。
計算が、合わなかった。同じ数字を三回見直した。合わなかった。なんで。あと少し。あと少しで終わる。あまいもの、ほしい。
扉が開いた。
「ノア!」
せらさんだった。そしてせらさんの後ろから、しるヴぁさんが静かに入ってきた。外套の裾がわずかに乱れていた。
「……来ました」
しるヴぁさんが机の横に立つ。せらさんがノアの顔を見た。一瞬、何かに気づいたような間があった。
「ノア、なんか変だよ?」
「……あまいもの、ほしい」
せらさんが固まった。しるヴぁさんが静かに目を細めた。
せらさんが机のひきだしをあけ、干したくだものを一掴みしてとりだした。せらさんは、のあに押しつけてから、口に放り込む。
あまさが、ひろがった。……数字が、戻ってきた。
「食べてください。シルヴァさんも」
「……今のノア、少し怖かったです」
「何のことですか?」
少し間が開いた。
「で、何の用ですか?」
「騎士団の作り方が分からないんです」
セラさんが率直に言った。ノアは薄紙に視線を戻しながら、ペンを置いた。
「……具体的に、どこで詰まっていますか」
「全部」
「全部は困ります。最初に何を考えようとしましたか?」
「強いやつを集める」
「それは正しい。次は?」
「そこで詰まった……」
ノアは少し考えた。
「強さの基準を決めることと、その強さをどう配置するかを決めること、この二つが最初にやることです。セラさんの場合、自分が基準になりますか?」
「なれないです。私が基準だと全員落ちる」
「そうですね。では役割別に基準を分けます。前衛、後衛、護衛。それぞれ求める強さが違う。シルヴァさん、魔術側の基準は?」
シルヴァさんが口を開く。
「……術式の精度と展開速度を分けて見た方がいい。どちらが欠けても戦線維持はできません」
「合わせると、騎士団の枠組みはこうなります」
ノアが薄紙に素早く書き込んだ。前衛、後衛、遊撃、護衛、支援。それぞれに最低限の人数と役割を書き添える。
セラさんが覗き込んだ。
「……なんか、それっぽい」
「それっぽいじゃなく、これが骨格です。あとはセラさんが肉を付ける」
「肉?」
「実際に動かす話は、セラさんの方が分かるということです。現場の判断は渡しました」
セラさんはしばらく紙を見ていた。それから顔を上げた。
「……ありがとう、ノア」
「どういたしまして」
ノアは干し果物をもう一つ口に入れた。
しばらく沈黙があった。セラさんが椅子に浅く腰掛けて、紙をぼんやり眺めている。シルヴァさんが机の端に置かれた干し果物を一つずつ口に運んでいた。
「ねえ、シルヴァ」
セラさんが話しかけた。
「名前、もらって嬉しかった?」
シルヴァさんの手が止まった。
「……別に」
「本当に? 花、咲いてたよ?」
シルヴァさんは干し果物を一つ取り、口に入れた。
「……うるさい」
「咲いてたじゃん。石床に。白い花」
「……記憶違いです」
「咲いてた! みんな見てた!」
「……」
シルヴァさんは答えなかった。窓の外に顔を向けた。耳の先が、心なしか赤かった。
ノアは干し果物を口に入れたまま、黙って二人を見ていた。
扉が開いた。
ガルムさんだった。頭一つ分飛び出た体躯が入口に収まり、室内を見渡した。
「……何をしておる」
「おやつ」
セラさんが即答した。ガルムさんは一瞬だけ沈黙して、それから部屋に入ってきた。ノアが引き出しから干し果物をもう一掴み取り出す。机の端に置くと、ガルムさんは無言で一つ取って口に入れた。強面の顔が、かすかに緩んだ。
さらに少し後、廊下から静かな足音が来た。
カイロさんだった。扉から顔を出して、室内の四人を見た。
「……何の集まりですか?」
「おやつ」
今度もセラが答えた。カイロさんは数秒だけ黙って、それから扉の内側に入ってきた。
五人が、一つの部屋に集まっていた。
◇◇◇
ゼノリスは廊下を歩いていた。
城内を一回りするつもりだった。それだけだった。
執務室の一角から、声が聞こえた。セラの声だった。それに混じって、低い笑い声がした。ガルムかもしれなかった。
ゼノリスは足を止めなかった。
扉の前を通り過ぎた。声は続いていた。何かを言い合っている。誰かが笑っている。内容は聞き取れなかった。
足音を、少しだけ殺した。自分が通ったことに、気づかれたくなかった。
あの笑い声を、止めたくなかった。
ゼノリスは廊下の先へ歩いた。窓の外に空が見えた。よく晴れていた。背中の方から、まだ声が聞こえていた。
◇◇◇
玉座の間は静かだった。
ゼノリスは玉座には座らず、正面の階段の手前に立っていた。天窓から光が落ちている。石床の継ぎ目が、白く照らされていた。
しばらくして、扉が開いた。
カイロだった。
「ゼノリス様」
歩いてくる足音が、石床に静かに響いた。カイロがゼノリスの前で足を止め、一度だけ頭を下げた。
「ご報告があります」
「はい」
「城門の前に、領民たちが集まっています」
ゼノリスはカイロを見た。カイロの表情は変わらなかった。ただ、その目の奥に何かがあった。
「人数は?」
「現時点で、およそ三十人。さらに増えています」
ゼノリスは一度だけ息を吸った。
「行きましょう」




