第105話:「王の言葉」
廊下の石は、冷たかった。
ゼノリスは足を進めながら、その冷たさを靴底越しに感じていた。朝の光が細く差し込んでいる。窓の外に空が見えた。雲はない。
隣にカイロがいた。足音が、わずかに後ろに続いている。
城門の前に三十人。さらに増えている。
カイロから聞いた数字が、まだ頭の中にあった。数字ではなく、その数字の向こうにある意味として。虐げるのか、逃げるのか。どちらかを待っている。
ゼノリスは廊下の角を曲がった。
石壁が続いている。足元の目地が規則正しく並んでいる。かつてここを歩いた廷臣たちの靴音が、石にわずかな艶を残していた。今は自分の足だけが音を立てている。
――何から始めるか。
それだけを考えていた。恐怖を叱責するのではない。誠実さを言葉で証明しようとするのでもない。言葉は積み重ねでしか根を張らない。だとすれば、最初の一言は何であるべきか。
廊下の先に、城門へ続く扉が見えてきた。
扉の向こうから、音が滲んできた。声ではない。気配に近いものだ。複数の者たちが同じ場所にいる、その空気の重さが、石の壁を通して伝わってくる。
ゼノリスは一度だけ息を吸った。
扉に手をかけた。
◇◇◇
光が、一気に広がった。
城門を出ると、朝の空気が頬に当たった。石と土と、それから人の匂いが混じっている。城門の先に広がる空間に、人々が集まっていた。
誰も、逃げなかった。
それが最初に分かったことだった。ゼノリスが城門から姿を現しても、群衆は散らなかった。後退した者は、数人いた。だが大半は、その場に立ったまま、こちらを見ていた。
子どもの手を握ったまま動かない母親。腕を組んで石畳を踏みしめている男。老人が二人、互いの肩に触れながら立っている。目が合う者もいた。目を逸らす者もいた。だが誰も、言葉を発しなかった。
静けさの中に、何かが満ちていた。恐怖ではない。もっと乾いた何かだ。値踏みをするときの、あの目だ。
ゼノリスはそれを皮膚で受け取った。
一歩、足を踏み出した。石畳の感触が靴底に返ってくる。群衆との距離が縮まる。後退する者が、また数人いた。それでも、大半は動かなかった。
ゼノリスは足を止めた。
人々との間に、十分な距離を残したままで。
声を出す前に一度、群衆を見渡した。左から右へ、一人ずつ。老いた顔。若い顔。疲れた目。警戒した目。その全てが、こちらに向いていた。
「私は、ゼノリス・ヴォルガデスです」
声は静かに出した。叫ばなかった。だが届くように、腹から出した。
「この城の主として、あなた方の前に立っています」
ざわめきが起きた。小さかったが、確かに波が走った。誰かが隣の者と目を合わせた。誰かが唇を引き結んだ。
ゼノリスは続けた。
「支配するために帰ってきたのではありません。あなた方を守るために、ここに立っています」
言葉を切った。
沈黙が返ってきた。ざわめきが収まり、また静けさが戻ってきた。だが先ほどとは、少しだけ質が違った。先ほどの静けさは『待ち』だった。今の静けさは、『聞いている』という静けさだった。
「信じろと言うつもりはありません」
一人の男と目が合った。腕を組んだまま動かない、四十代ほどの男だった。目が逸れなかった。ゼノリスも逸らさなかった。
「言葉ではなく、積み重ねによって示します。時間がかかるかもしれない。それでも、私はここに立ち続けます」
男の眉が、わずかに動いた。腕は組んだままだった。だが、その目の硬さが、ほんの少しだけ変わった。
ゼノリスはそれを見た。見て、次を考えた。
言葉だけでは、根は張らない。
ゼノリスは【至極の理】を、静かに使った。
金色の瞳の色が、深淵のような色に沈んでいった。
群衆の頭上に、星が広がった。
一つ、また一つ。人の数だけ、光が浮かんでいる。大半は小さかった。二つ、あるいは三つ。鑑定石が正しく測れないだけで、埋もれた光がある――それをゼノリスは知っていた。だが、焦らない。
視線が、群衆の中を動いた。
左の端から右へ。顔を、一人ずつ。老いた顔。若い顔。疲れた目。警戒した目。その頭上の星を、ゼノリスは静かに確かめていった。ほとんどの星は小さく、静かに揺れている。
そこで、止まった。
一人の老人の頭上だった。
白髪が風に揺れていた。背が少し丸く、両手を前で重ねて立っている。群衆の中ほどに、ひっそりと立っていた。その老人の頭上に浮かんだ星が、周囲とは違う色をしていた。
老人の頭上に、星が浮かんでいた。
【白色の星。☆☆☆/☆☆☆】
白。敵意のない、静かな白だった。
星が三つ。現在も、到達点も、同じ三つ。すでに限界に達している。だがその星の輝きが、ゼノリスの目を引いた。【至極の理】が映し出すのは、数だけではない。その光の質に、隠された適性が滲んでいる。石だ。土でも木でも水でもない。石の性質に触れる才能が、この老人の奥に眠っていた。石工、あるいは建築。そういう仕事を、この老人はずっとそばで見てきたはずだ。あるいは、やろうとして、やれなかったか。
ゼノリスは一歩、老人の方へ足を向けた。
群衆の中を進む。人が左右に開いた。誰も声を出さなかった。足音だけが石畳に響いた。老人が顔を上げた。目が合った。薄い茶色の瞳だった。
「御仁」
ゼノリスは老人の前で足を止めた。
「名前を、聞かせてもらえませんか?」
老人の喉が動いた。唾を飲んだ音がした。
「……トーマスと、申します」
声が震えていた。細い声だった。だが、逃げなかった。
「トーマスさん」
ゼノリスは老人の目を見たまま、言葉を続けた。
「あなたには、石の性質を見抜く才能があります」
沈黙が落ちた。
トーマスの表情が、固まった。瞬きを忘れたように目が開いたまま、ゼノリスを見ていた。
「……わ、私に」
「はい」
「私に、才能が……?」
声が、途中で割れた。
トーマスの両手が、腹の前で重なったまま、小刻みに震え始めた。唇が動いたが、言葉にならなかった。それから、首を振った。一度ではなく、二度、三度。
「……いえ、私は、ただの老いぼれで……」
声が掠れた。
「石を積んでいただけです。若い頃から、ずっと。聖教会の鑑定石にかけても、輝きは弱いと言われました。役に立たない無能だと。だから、命令されれば積んで、壊れれば直して。それだけの……」
言葉が、途中で止まった。
ゼノリスは遮らなかった。トーマスが言葉を探す間、ただそこに立っていた。
「……才能などと、呼べるものではありません」
「呼べます」
静かに、しかしはっきりと答えた。
「鑑定石が測るのは、魔力の輝きだけです。あなたの中にあるものは、それでは映らない。……昔は違ったはずです」
トーマスの目が、わずかに揺れた。
「私の目には、はっきりと見えています。あなたが積み上げてきた年月の中に、本物の才能がある」
目の端に光が滲んだ。それでも、まだ信じられないように、ゼノリスを見ていた。
「石工として、働いてみませんか?」
ゼノリスは続けた。
「この城を、この領地を、あなたの手で形にしてほしい」
トーマスの両手が、腹の前でゆっくりと握り合わされた。震えたまま、それでも握った。目から逃げるような色が消えていた。
「……私に、できますでしょうか」
「はい。できます」
間を置かずに答えた。
トーマスの肩が、ゆっくりと落ちた。張り詰めていたものが、そこで緩んだ。老人は深く、頭を下げた。白髪が揺れた。肩が震えていた。今度は、否定の震えではなかった。
◇◇◇
最初に動いたのは、子どもだった。
母親の手を握ったまま、半歩だけ前に出た。それだけだった。だがその動きが、石を投げた水面のように、周囲へ広がった。
腕を組んでいた男が、腕を解いた。
後ろに下がっていた女が、半歩、前へ出た。
声はまだなかった。だが、空気が変わった。『待ちの沈黙』ではない別の何かが、群衆の中に生まれ始めていた。ゼノリスはそれを感じながら、動かなかった。
一人が、声を出した。
「……あの、私も」
中年の女だった。人垣の端に立っていた。声が小さかったので、周囲が一瞬静まった。
「私にも、何か……ありますか」
問いというより、縋るような声だった。
ゼノリスはその女に目を向けた。【至極の理】が、頭上の星を映し出す。
女の頭上に、星が浮かんでいた。
【黄金の星。☆☆/☆☆☆】
その輝きは、温かい色だった。
「あります」
ゼノリスは答えた。
「あなたには人の状態を読む目がある。医療か、あるいは看護の仕事が合うでしょう」
女が息を呑んだ。隣に立っていた男が、その女の肩に手を置いた。
別の声が上がった。それに続いて、また一つ。一つが二つになり、二つが三つになった。静観していた群衆が、少しずつ前へ動き始めた。ゼノリスへ向かって、ではない。互いの方へ向かって、言葉を交わし始めた。その音が重なって、城門前の広場に満ちていった。
ゼノリスは群衆を見渡した。
恐怖ではない顔が、そこにあった。『値踏み』でもない顔が。疑いはまだある。距離もある。それでも、何かが動き始めていた。
ゼノリスは息を吸った。
「私は、あなた方一人ひとりの才能を見出します」
声を上げた。広場に届くように。
「この国を、共に作りましょう」
広場が静かになった。
言葉が、石畳に落ちた。空気の中に、その重さが残った。誰かが息を吐く音がした。風が一度、吹いた。トーマスがまだ頭を下げたまま、肩を震わせていた。
ゼノリスは動かなかった。
群衆の奥から、また一人、前へ出ようとする気配があった。




