第106話:「適材適所」
広場の静けさは、しばらく続いた。
最初に動いたのは、一人の若い男だった。背が低く、肩幅が広い。石畳を踏む足に、迷いがなかった。
「あの……俺も、見てもらえますか」
ゼノリスはその男に向き直った。【至極の理】が、頭上の星を映し出した。
男の頭上に、星が浮かんでいた。
【黄金の星。☆☆/☆☆☆☆】
その輝きは、熱を帯びた色だった。
金属だ。鉄の性質に触れる才能が、この男の中に眠っている。
「あなたには、金属の性質を見抜く力があります」
ゼノリスは静かに告げた。
「鍛冶職人に向いています。武具でも、農具でも、あなたの手はそれを正確に形にできます」
男が口を開けたまま固まった。それから、自分の手を見下ろした。がさがさに荒れた、大きな手だった。
「……俺の、手が?」
「はい」
男は手を握った。開いた。また握った。何かを確かめるように、ゆっくりと。それから顔を上げて、隣に立っていた女に向かって叫んだ。
「かあさん! 俺、才能があるって!」
女が両手で口を覆った。肩が大きく揺れた。
次の者が前に出た。
円熟した空気を纏う女性だった。背筋が伸びており、目に落ち着いた光がある。
女の頭上に、星が浮かんでいた。
【白色の星。☆☆☆/☆☆☆】
その輝きは、静かで深い色だった。
「あなたには、作物の声を聴く才能があります」
女の目が、細くなった。驚きではなく、何かを思い出したような目だった。
「……昔、畑をやっていました」
「続けてください。あなたが手をかけた土は、必ず応えます」
女は長い間、黙っていた。それから、深く頭を下げた。言葉はなかった。
カイロが、ゼノリスの二歩後ろに立っていた。帳面を開き、ペンを走らせている。名前、才能、配置の候補。一人が終わるたびに、一行が増えていく。
列は、続いていた。
次々と人が前に出る。星を読む。言葉をかける。反応はそれぞれだった。その場に座り込んで泣く老爺。仲間のところへ走っていく少年。信じられないと首を振りながらも、その目に光が宿っていく女。
ゼノリスは一人ずつと向き合った。
急がなかった。
◇◇◇
回廊は、静かだった。
セレナは石柱に背を預けていた。その目は絹の帯に覆われ、閉じているのか、それとも光を遮った闇の中で何かを見つめているのかは分からない。
城門の方角から、音が届いていた。
【心眼】が拾う音は、遠くても鮮明だった。石畳を踏む複数の足音。衣擦れ。風が石壁をなでる低い唸り。そして、人の声。
それは、喜びの声だった。
男の声、女の声、老いた声、若い声。それぞれの質は違うが、根にある震えは同じだった。驚きと、それから何か――長い間、どこかへ押し込められていたものが、解けていく音。
セレナは耳を傾けた。
その中に、一つの声があった。
低く、静かで、落ち着いた声。一人ひとりに向けられるたびに、同じ温度を保っている。怒鳴らない。急かさない。
セレナは、その声を知っていた。
初めて聴いた日のことを、覚えている。港湾都市の広場。勇者たちの祝祭の歌を歌い終えて、兵士に連れられて去るとき。すれ違った、あの気配。かつて聴いたことのない、穏やかで重厚な音。
あの時と、同じ声だった。
セレナの指先が、石柱の表面に触れた。冷たかった。その冷たさを確かめながら、城門の方角から届く音を、もう一度、丁寧に聴いた。
嘘の音は、分かる。
勇者様が語る正義を聴くたびに、魂が拒絶する音がした。だが、今聴こえている声には、その拒絶がない。
領民たちが返す声も、同じだった。驚きの音。信じられないという音。それでも、その根底に嘘がない。本物の感情が、空気を震わせている。
セレナは動かなかった。
勇者様が語っていた言葉が、記憶の中にある。『魔王は残虐な魔族だ』。その言葉も、正確に保持している。だが、今聴こえている音と、その言葉が、どうしても重ならない。
答えは、出なかった。
それでも、指先が石柱から離れなかった。城門の方角から届く声を、もう少しだけ聴いていたかった。その理由を、セレナはまだ言葉にできなかった。
◇◇◇
日が、少し傾いていた。
城門前の列はまだ続いていた。ゼノリスは一人と向き合い、言葉をかけ、次の一人へ向き直る。その繰り返しが、朝から積み重なっていた。
足元の石畳が、昼とは違う角度で影を落としている。
カイロが横に並んだ。帳面を開いたまま、目は紙の上にある。
「現時点で、四十三名です」
ゼノリスは次の人物の星を確かめながら、短く返した。
「配置の整理はどうですか?」
「農業系が十一。鍛冶・工芸系が九。医療・看護が六。建築・土木が八。残りは流通と教育の候補です」
カイロの声に感情はなかった。だが、その淡々とした報告の中に、何かが滲んでいた。
「記録、ありがとうございます」
「……仕事です」
短く返して、カイロはペンを走らせた。
列の中から、次の人物が前へ出た。
小柄な老女だった。腰が曲がっており、杖をついている。目は細く、ゼノリスをじっと見ていた。値踏みではない。もっと別の、静かな目だった。
老女の頭上に、星が浮かんでいた。
【白色の星。☆☆/☆☆】
その輝きは、穏やかで丸い色だった。
「あなたには、人を教える才能があります」
老女は動じなかった。
「……知っておりました」
ゼノリスは少し意外に思った。その感情は顔に出さなかった。
「昔、子どもたちに文字を教えていました。勇者の兵が来てから、禁じられましたが……」
「……そうでしたか。この領地には、学ぶ場所が必要です。ぜひ、力を貸してください」
老女は一度だけ頷いた。それから、杖をつきながらゆっくりと列を離れた。その背中を、ゼノリスは見送った。
そこへ、軽い足音が近づいてきた。
「ゼノ様」
ノアだった。薄い紙を数枚、両手で持っている。紙の端が、風でわずかに揺れていた。
「配置案を作りました。現時点の人数で、最も効率的な初期配置です」
ゼノリスは紙を受け取った。細かい字が、隙間なく並んでいる。農地の区画、鍛冶場の位置、医療拠点の候補地。ノアの計算が、すでに領地の地図の上に落とされていた。
「早いですね」
「カイロさんの記録が正確だったので」
カイロが紙から目を上げた。一瞬だけノアを見て、また視線を戻した。
「……当然です」
「ありがたいことです」
ノアが続けた。
「僕の計算では、この配置で一年以内に農業生産が安定軌道に乗ります」
ゼノリスは配置図を手に、もう一度、列を見渡した。まだ数十人が並んでいる。日が傾いても、立って待っていた。
胸の中に、何かが動いた。
その感情は、顔に出さなかった。
◇◇◇
執務室の扉を開けると、冷えた空気が当たった。
ゼノリスは中へ入り、扉を閉めた。外の音が、遠くなった。
机の前まで歩いた。椅子を引く。座る。その動作が、朝より少しだけ遅かった。自分でも分かった。肩に重さがある。足の裏が、石畳の硬さを覚えている。
窓の外に、橙色の光が広がっていた。
カイロの帳面に記録された数字が、まだ頭の中にあった。今日だけで、六十人近くいた。明日もまた、列ができるだろう。その次の日も。
ゼノリスは机の上に両手を置いた。
指先が、冷たかった。
扉の外で、足音がした。カイロだった。書類を一束、机の端に置く。
「今日分の記録です。明日の準備もできています」
「ありがとうございます」
カイロは一度だけ頭を下げ、扉へ向かった。その背中に、ゼノリスは声をかけた。
「カイロ」
足音が止まった。
「あなたの記録があって、ノアの計算が動いています。今日の仕事の半分は、あなたが支えていました」
沈黙があった。
「……仕事です」
同じ言葉だった。だが、扉が閉まる音は、来る時より少しだけ静かだった。
ゼノリスは窓の外を見た。
橙色が、少しずつ暗くなっていく。
机の上に、カイロの帳面が置かれていた。六十人分の名前。その一つひとつに、星と才能が書き添えてある。
ゼノリスは帳面の最後の行に目を落とした。カイロの筆跡が、最初の行と最後の行で、まったく同じ太さだった。




