第97話:「虚像の崩壊」
東の城門が、落ちた。
砂岩を積んだ分厚い扉が、中央から弾けるように砕け散る。砕片が石畳を叩き、火花が夜の空気に散った。煙が広がる前に、セラがその中から歩み出てきた。右拳を軽く振りほどきながら。
悲鳴が上がった。
城壁の上の兵士たちが足を踏み鳴らし、篝火が揺れる。
「城門が!」
「侵入者だ、構えろ!」
声が重なり合い、足音が乱れる。整然としていた哨戒の動きが、一瞬で崩れた。
「ノア」
ゼノリスが短く呼ぶと、少し後ろで帳面を閉じる音がした。
「東に十二、城壁上に七。残りは北の詰所に向かいつつあります。三分以内に合流します」
「カイロ」
返答はなかった。
ただ、北の方角で、短い衝撃音がした。続いて、また一つ。それで終わった。
ゼノリスは前へ進んだ。崩れた城門をまたぎ、煙の残る石畳を踏んで、カレドの内側へ入る。足元に砂岩の破片が転がっていた。かつて何千もの旅人が通ったその門が、今は瓦礫になっている。感傷ではない。ただ、そこに在ったものを見ていた。
「シルヴァ」
「はい」
シルヴァがゼノリスの右斜め後方から前に出た。杖を持つ手が低く構えられ、指先に青白い光が走る。術式が展開する気配はない。ただ、その目が城壁の上を静かに見ていた。
「北の詰所、連絡術式が走っています。切ります」
一言そう言い、指先を動かした。
城壁の上で何かが失われた。音ではなく、気配の変化だった。整列しかけていた兵の動きが止まり、互いの顔を見合わせる様子が、遠目にもわかった。
「遮断しました。増援の連携は、しばらく取れません」
「ありがとうございます」
ゼノリスはシルヴァに礼を言って、視線をガルムに向けた。
ガルムはすでに動いていた。城門から市街地に向かう道の両側に、重装した体格がゆっくりと立つ。民家の壁際に沿って、盾を構えるわけでもなく、ただ存在するように立つ。
「逃げ場は確保してある」
低く、短く言った。市街地の一般市民が城門の騒ぎに気づいて外に出てこないよう、かつ、万が一出てきた場合に誘導できる位置だった。
ゼノリスは一度、五人の位置を確かめた。
セラが正面。カイロが北の死角で動いている。シルヴァが後方から術式の制御を担っている。ガルムが市民側の壁を作っている。ノアが全体を把握しながら帳面を開いている。
欠けているところがない。
城壁の上で混乱が広がっていた。シルヴァが通信術式を遮断したことで、援軍要請が届いていない。北の詰所に向かっていた兵は、合流先を見失って止まっている。残った十二名は東の城門を取り囲もうとするが、すでに門はなく、隊形を取れる地形ではない。
セラが振り返った。
「ゼノ様! 行ってもいいですか?」
「どうぞ」
それだけで、セラが動いた。
地面を蹴る音が、一回。次の瞬間、十メートル先にいた先頭の兵との距離が消えていた。拳を振るうより先に、体ごと当たるような体当たりだった。兵士が吹き飛ぶ前に、その隣の者も崩れていた。悲鳴が上がる前に、三人目がよろめいていた。
詠唱も、魔力も、ない。
ただ、物理だけがあった。
城壁から矢が来た。
セラは振り返りもせず、右肩を少し引いた。矢が掠めて石畳に刺さる。それだけで次の一歩を踏み出していた。次の瞬間、前にいた兵士が吹き飛んだ。
カイロが影から動いた。城壁上の弓兵がいた方向から、音が消えた。
残った兵が後退し始めた。
整然としていた守備隊形が、数分で崩れた。城壁の上に残った者は互いを呼び合い、誰かの指示を待っている。指示は来なかった。シルヴァが遮断したのが原因だった。
ゼノリスは前へ進んだ。
「魔王っ……!? なぜ……だ!」
背後から声がした。崩れた城門の内壁に張りついていた兵士が、息を荒げながら叫んでいた。刃を向けているが、腕が震えている。
「こ……のはずじゃ……腰抜けのはずじゃなかったのか……」
ゼノリスは立ち止まった。
振り返らなかった。ただ、正面を見たまま答えた。
「怖いのでしょう」
声は静かだった。脅しでも、叱責でもない。
「あなたを縛っているのは、私への恐怖ではありません。あなた自身が信じてきた言葉が、今夜崩れていることへの恐怖です」
兵士が黙った。
「降伏してください。私は無暗に傷つけるつもりはありません」
しばらく、音がなかった。
兵士が地面に刃を落とした。膝をついた音がした。
ゼノリスは一歩、前へ進んだ。
◇◇◇
市街地の大通りに出た時、ノアが帳面を開いたまま言った。
「詰所の援軍が来ます。七名。あと一分弱」
「人数は減りましたね」
「シルヴァさんが術式を遮断した分、横連携が死んでいます。一方向からしか来られません」
カイロが短く言った。
「俺が対処します」
「お願いします」
ゼノリスが答えた時、カイロの気配がすでに薄れていた。
石畳の大通りを、進んだ。篝火が等間隔に置かれた通りは、昼間には商隊が行き交う場所だったはずだ。今は明かりのない窓が並んでいる。住民は内側に引いている。
それでいい、とゼノリスは思った。
戦場に巻き込まれないよう、ガルムが誘導の壁を作っている。その判断は正しかった。
前方から気配が来た。
……三人。
歩き方が違う。これは援軍ではない。
ゼノリスが立ち止まると、少し後ろでシルヴァの杖を持つ手が静止した。ノアが帳面のページをめくる音が止まった。
大通りの先、篝火の橙に照らされた場所に、三人が立っていた。
先頭は赤い魔導外套を纏った男だった。深緑色の短髪、手袋に刻まれた詠唱刻印、宝石杖。派手な格好だが、立ち姿に余裕がある。その右に、白金の聖印を胸に下げた女がいた。銀髪に白い聖布。後ろに、黒髪の巨大な男が立っている。分厚い白鉄鎧に、巨斧。プラチナ徽章が鎧胸に光っていた。
勇者の仲間たちだ、とゼノリスは静かに判断した。
赤い外套の男の視線が、ゼノリスで止まった。
一瞬だった。
次の瞬間、男は声を上げて笑った。
「……ははっ、はぁ!?」
堪えきれないといった風に、男は肩を揺らした。
「魔王じゃないか。死んだはずの腰抜けが、まだ這いずり回っていたのか」
男は杖を軽く肩に担ぎ、冷めた眼差しを向けた。
「ゴミが集まったところで、我々には敵わぬ。一度敗けた負け犬が、最高評価の私たちの前で何ができる――」
「ゼフィル」
白金の聖印の女が、静かに制した。
「みっともないわよ。終わらせましょう」
後ろの巨漢は何も言わなかった。ただ、巨斧の柄を握る手に力が入った。
ゼノリスは三人に【至極の理】を向けた。
三人の頭上に、星が浮かんだ。
赤い外套の男の頭上。
【漆黒の星。☆☆☆/☆☆☆】
聖印の女の頭上。
【漆黒の星。☆☆/☆☆】
巨漢の頭上。
【漆黒の星。☆☆☆/☆☆☆】
ゼノリスは目を細めた。
「……その程度ですか」
篝火が揺れた。
赤い外套の男の表情が変わった。
「何だと……?」
ゼノリスは一歩、前へ踏み出した。
「貴方たちの偽りを、剥がしましょう」
ゼフィルの笑いが止まった。
表情が変わったのではない。笑ったまま、固まった。それだけだった。
「……何を言っている」
低い声だった。先ほどまでの嘲笑の色が、わずかに変質していた。
「見たままを申し上げています」
ゼノリスは一歩、前へ踏み出した。篝火の光が、三人の顔を橙に照らしている。
「貴方たちが纏う評価は、この世界が決めたものです。しかし私の目には、その評価の裏側にあるものが見える」
後ろの巨漢が、低く言った。
「黙れ」
巨斧の柄を両手で握り直す音がした。
「お前が何を言おうと、命乞いした腰抜けだ。死んだはずの負け犬が、たった数人で何ができる」
「ブラム」
白金の聖印の女が、静かに制した。今度は笑っていなかった。その目がゼノリスを見ていた。探るような、値踏みするような目だった。
「可哀想に」
柔らかい声だった。しかし声音の底に、刃のような硬さがあった。
「あなたは、まだ諦められないのね。一度負けた者が、もう一度立ち上がろうとしている。その意志は……認めてあげましょう」
女は一歩、前へ出た。
「だから、ここで終わりにしてあげる。せめてもの慈悲です。……私はリュシア。そこの赤い外套が魔導師のゼフィル、巨漢が重戦士のブラム。勇者様の仲間である私たちが、直々に引導を渡してあげましょう」
ゼノリスは答えなかった。
三人を、静かに見ていた。
沈黙が、長かった。
ゼフィルの笑いが戻らなかった。口角は上がったまま、目だけが動いている。ブラムの巨斧を握る指が、一度開き、また握り直された。リュシアは微笑を保っていたが、右足の爪先がわずかに後ろへ引かれていた。
ゼノリスは、それを見ていた。
後ろでノアが帳面を閉じる音がした。
「ゼノ様」
静かな声だった。
「時間を取りすぎると、詰所からの増援が合流します。カイロさんが抑えていますが、五分が限度かと」
「わかりました」
ゼノリスは前を向いたまま答えた。
「では、始めましょう」




