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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第96話:「決戦の地」

 夜明けが遅かった。


 東の稜線が灰から紅へと染まる頃、ゼノリスたちは高台への道を登り切った。かん木の合間を抜けると、視界が一気に開いた。風が、正面から吹いてくる。


 眼下に、前線都市カレドがあった。


 城壁は厚く、重かった。砂岩を積んだ外壁の表面には、長年の風雨が刻んだ筋が走っている。東の門楼には篝火が揺れていて、その橙がまだ夜の名残を抱いた空気の中にぼんやりと滲んでいる。城壁の内側からは煙が幾筋も立ち上り、朝の炊事の匂いが風に乗って届いた。焦げた肉の臭い。それから、鉄の匂い。


 兵の数は、多い。


 城壁の上を行き交う人影が、遠目にもわかった。篝火の間隔が短く、守りを重ねている。城外にも哨戒の動きがある。足音は聴こえないが、移動の規則性は整然としていた。


 ゼノリスは一度、目を細めた。


「……なるほど」


 低くつぶやいて、視線をカレド全体に走らせた。城壁の高さ、城門の位置、東側の崖。すべて、知っている。かつて民が行き交い、商隊が荷を下ろし、旅人が一夜の宿を求めた場所だ。それが今は、篝火の間隔を詰め、哨戒を重ねた要塞に変わっている。


 風が止まった。


 空気の中に、重さがあった。決戦の前の夜明けというものは、いつもこうだとゼノリスは思う。静かすぎて、音の一つひとつが際立つ。鳥が鳴いた。遠く、城壁の上で鎧が触れ合う音がした。


◇◇◇


「ノア」


 ゼノリスが声をかけると、背後で帳面を開く音がした。


「はい」


 ノアは短く答えて、一行の中央に進み出た。帳面を開いたまま片手で持ち、もう一方の指先でカレドの城壁を示す。


「現在確認できる哨戒は東西の城門に各8名、城壁上に20名強。城外には斥候と思われる小隊が三方向に展開しています。いずれも動きは規則的で、士気という点では……高くはありません」


「根拠は?」


「哨戒の周回が遅い。交代の間隔も長い。恐怖で繋ぎ止めた軍の動きです」


 カイロが静かに口を挟んだ。


「……恐怖で縛られた兵は、追い詰められると崩れる」


「そうです」


 ノアは帳面に目を落とした。一行が戦術を聴く姿勢になるのを確かめてから、続ける。


「夜に入れば、篝火の光量が城壁の守備側の視野を制限します。僕が盤面を読んだ限りでは、東の城門を起点として城壁上の注意を引いた後、北の死角から侵入するのが最も損耗を抑えられます。城内の一般市民を巻き込まないためにも、突入ルートは絞ります」


「城内の市民への被害は出さない」


 ゼノリスが念を押すと、ノアは即座に返事をした。


「はい、その前提で組んでいます。ここを突破すれば、魔王城は目前です」


 一行の間に、静かな熱が広がった。


 セラが両手を腰の後ろで組み、大きく息を吸った。


「やっと、ここまで来た」


「……来ましたね」


 シルヴァが静かに答える。


「長かったと思うぞ」


 ガルムが首の後ろを一度押さえて、苦そうな顔をした。


「膝がそう言っておる」


「ガルムさんの膝は常に正直ですね」


 ノアが帳面を閉じながら言った。どこか真面目な口調だったので、セラが吹き出した。


 ゼノリスは笑わなかった。


 笑えなかったわけではない。ただ、この場の温かさを、もう少し胸の内に留めておきたかった。カレドの城壁を背景に、互いの軽口と静かな決意が混ざり合うこの瞬間が、大切なものに思えた。


 五人の顔を、順番に見た。


 カイロは城壁の方向に目を向けたまま、腕を組んでいた。その横顔に緊張はなく、静かな集中だけがある。


 シルヴァは帳面を閉じたノアに「北の死角、正確な幅は?」と声をかけ、ノアがまた帳面を開いた。


 ガルムは膝に手を当てたまま立ち上がり、もう一度城壁を見上げている。セラは、まだ笑いを引きずりながらも、視線の奥はもう真剣だった。


◇◇◇


 風が吹いた。


 稜線の向こうから、朝の冷気と一緒に来る風だった。ゼノリスは一歩、前に出た。


「少し、聴いてください」


 五人が静かになった。カイロが腕を解き、ガルムが姿勢を正す。


「長い道のりでした」


 ゼノリスはカレドを正面に見たまま、言葉を選んだ。


「それぞれに背負ってきたものがある。君たちが捨ててきたものも、奪われてきたものも、私は見てきました。それを、ここで取り戻す」


 誰も何も言わなかった。


「この戦いで、世界に示しましょう。真実の王が帰還したことを」


 声は、それほど大きくなかった。宣言というより、確認のような言葉だった。だが、五人の間で何かが固まった気配がした。目に見えるものではない。ただ、空気の密度が少し変わった。


 カイロが最初に口を開いた。


「了解しました」


 それだけだった。セラが拳を握った。シルヴァが静かに頷いた。ガルムは何も言わず、深く一度だけ頷いた。四人の返答は、形が違っても意味は同じだった。


 ノアだけが、少し間を置いた。


「……ここまで来られるのは、正直まだ先だと思っていました」


「そうでしたか」


「でも、来れました」


 ノアはそれ以上を言わなかった。その短さの中に、何かが詰まっていた。


 ゼノリスは一度、目を伏せた。


「ありがとう」


 それだけ言った。


 風がもう一度吹いた。カレドの城壁の上で篝火が揺れ、橙の光がわずかに揺らいだ。


◇◇◇


 ゼノリス様の言葉が、静かに終わった。


 声が、遠くから流れてきた。


 号令だった。


 セレナは岩の陰に腰を下ろしたまま、その音に耳を傾けた。距離はある。城壁の向こうから風に乗って届く、くぐもった声だ。何を言っているかは聴き取れない。ただ、音の輪郭だけが届く。


 固い音だった。


 発している者の喉が、締まっている。息の根元に、何かが絡まっている音だ。セレナの【心眼】が拾い上げるのは言葉ではなく、声の震えと、その震えの原因だ。あの号令を出している者は、怖いのだ。命令しながら、自分でも恐れている。


 別の声が続いた。応答の声だ。こちらも同じだった。従う声に、温かさがない。義務が声になっている。


 セレナは両手を膝の上に重ねた。


 勇者様の軍にいた頃、同じ声を聴いたことがある。式典の前夜、兵士たちが整列する気配の中に、この音があった。あの時は何も思わなかった。当然の音だと思っていた。兵とはそういうものだと、教えられていたから。


 風が変わった。


 城壁の方から来ていた風が、一瞬、向きを変えた。その隙間に、別の気配が混じった。


 ゼノリス様たちの気配だった。


 六つの気配が、低い位置に散っている。カレドへの道のりで、それぞれと言葉を交わした。声の質が、もう耳に馴染んでいる。


 今は、声はない。足音も、ほとんどない。


 それぞれが自分の位置で静止し、ただ呼吸の音だけが聴こえる。


 セラさんの呼吸は深く、落ち着いている。カイロさんの気配は、もうほとんど消えかけている。シルヴァさんの気配は静かで、何かを組み立てている。ガルムさんの呼吸は重く、地に根を張っているようだ。


 ゼノリス様の気配は、その中心にあった。


 動かない。揺れない。城壁の号令の音とは、何もかもが違う。恐怖がない。強制がない。ただ、静かに、そこにある。


 セレナの指先が、膝の上でかすかに動いた。


 さっき、あの言葉を聴いた。


――この戦いで、世界に示しましょう。真実の王が帰還したことを。


 風に乗って届いた声は、大きくなかった。宣言というより、確かめるような言葉だった。でも、その声に含まれているものを、セレナは聴いていた。揺れていなかった。怖れていなかった。


 勇者様の声は、いつも大きかった。よく通り、力強く、疑いの余地がなかった。民は沸き立ち、兵士は奮い立った。セレナもその声を聴くたびに、正しいと思っていた。


 セレナは目を閉じた。正確には、すでに閉じている。ただ、意識を、記憶の中へ向けた。


 勇者様の声には、何かが混じっていた。ずっとわからなかった。


 今、その『何か』の名前が、少しわかる気がした。


 勇者様の声は、大きかった。でも、喉の根元が固く締まっていた。あれは、恐れていた声だった。何かに、あるいは誰かに、見透かされることを恐れながら、叫んでいた声だった。


 遠くで、また号令が響いた。


 セレナはその音を聴きながら、動かなかった。指先の冷たさは、まだある。でも、さっきとは少し違う冷たさだった。何かが決壊したわけではない。ただ、長い時間をかけて積み上げてきたものの重さが、少しだけ、形を変えた。


 ゼノリス様の声が、後方まで届いた。夜営地へ移動する、という言葉だった。


◇◇◇


 空が暗くなった。


 篝火の光が城壁の上に揺れている。東の門楼の橙が、暗い空気の中に滲んでいた。風は止んでいた。音が、よく通る夜だった。


 セレナには、夜営地での待機をお願いしていた。シルヴァが出発前に術式陣を張り、その中にいれば外からは見えない。


 カイロが音もなく戻ってきた。


「東の哨戒、交代しました。次の周回まで、およそ十分」


「北の死角は」


「ノアの読み通りです」


 ゼノリスは頷いた。視線はカレドに向けたまま、五人の気配を確かめた。全員、定位置にいる。準備は整っている。


 城壁の上の篝火が、風もないのにわずかに揺れた。


 ゼノリスは立ち上がった。


 かつて、この城壁の内側に民がいた。商隊が荷を解き、子供が走り回り、夜には灯りが窓から漏れていた。その灯りを、ゼノリスは覚えている。遠い場所から眺めたことも、近くを通ったことも。自分の領地だと思っていた時期も、失ったと知った時期も。


 今夜、取り戻す。


 武力で奪うのではない。この場所に住む者たちを、恐怖の支配から解放する。それだけだ。


 ゼノリスは五人に向けて、静かに口を開いた。


「さあ、始めましょう」


 誰も返事をしなかった。


 ただ、五つの気配が、同時に動いた。



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