第95話:「音が照らす真実」
石畳の感触が、足の裏から消えた。
砂と泥の混じった土の上を、セレナは一歩ずつ踏みしめた。靴底に伝わる地面の柔らかさが、拠点の床とは違う。空気が、広い。壁がない。音が、どこまでも広がっていく。
それだけが、わかった。
風が頬を撫でた。埃と草の匂いが混じっている。遠くで鳥が鳴いている。セレナは立ち止まらず、前を向いたまま、耳を澄ませた。
前方に、足音が二つ。それぞれに重さと間隔がある。一番前を行くのは、音を殺した足運びだった。カイロという男の歩き方は、踏み出す前に必ず一瞬、地面を探るような間がある。その後ろに、軽くて迷いがない足音が続いている。ゼノリス様だとセレナにはわかった。残りの四つは少し後ろに続いていた。
セレナはその足音の間隔を測るように、自分の歩幅を合わせた。転ばないためではなく、ただそうしたかった。
空気の震えが、少しずつ広がっていく。
セレナの【心眼】が拾い上げるのは、遠くに散らばった人の気配だ。複数いる。動きが速い者と、ほとんど動かない者がいる。緊張の固まりのような気配と、力の抜けた気配が入り交じっている。
――静かだった。
勇者様の拠点の中で聴いていた音とは、違う静けさだった。あの静けさは、音を出してはならないという緊張から来ていた。この静けさは――違う。何かが、満たされている。
セレナは息を吸った。夜の草の匂いの中に、木の煙がかすかに混じっていた。
◇◇◇
拠点の裏手、低い石壁に沿って、数人が地面に座っている音がする。
縄を解かれた者たちだと、セレナには音でわかった。腰を下ろした時の音が、疲弊しきった体の音だった。呼吸が浅い。膝を抱えている者もいる。衣擦れの音が小さく、動くのを恐れているような、縮こまった気配がそこにある。
捕らえられていた者たちのそばへ、足音が近づいた。
ゼノリス様の足音だと、セレナにはわかった。廊下で聴いた時と同じ、重くて静かな、急かさない足音だ。
「怪我はありますか?」
低い声が、静かに落ちた。命令ではない、問いかけだった。
沈黙があった。誰も答えない。空気が固まっている。
ゼノリス様は待った。急かさなかった。その沈黙の中で、気配が揺れなかった。
やがて、かすかな声がした。女の声だった。震えている。
「……水を、いただけますか」
「わかりました。今、持ってきます」
間を置かず、別の足音が動いた。カイロさんだ、とセレナは音で判じた。あの軽い、影のような足音。遠ざかり、戻ってくる。
水を受け取る音がした。器が手に触れる、小さな音。それから、喉が鳴る音。
セレナは、少し離れた場所に立ったまま、その音を聴いていた。
別の場所でも、同じことが起きていた。縄を解かれた男が、声を震わせながら何かを言った。聴き取れなかった。しかし、ゼノリス様の返す声は聴こえた。
「ええ、もう大丈夫です。あなたはもう安全なところにいます」
怒鳴り声が、なかった。
セレナの指先が、動いた。
勇者様の声には、いつも何かが混じっていた。それが何かは、ずっとわからなかった。ただ聴くたびに、胸の奥で何かが軋んだ。怖いとは違う。正しいとも思っていた。でも、軋んだ。
今、目の前の声には、その『何か』がない。
セレナは自分の両手を、静かに重ねた。指先が、冷たかった。
◇◇◇
拠点を出た時、空気はまだ夜の冷たさを帯びていた。
六人の足音が、砂利と草の上を進む。足元の感触が変わるたびに、セレナは重心を調整した。石畳から、踏み固められた土へ。土から、草のたわむ柔らかさへ。
誰も、喋らなかった。
それがセレナには不思議だった。勇者様の側では、沈黙は許されなかった。何かを語り、称え、声を出し続けることが求められた。沈黙は、不満の印だった。不信の印だった。
でも、この六人の沈黙には、とげがなかった。
前を行く足音が、等間隔で刻まれている。ゼノリス様の歩みは、昨夜と変わらない。速くも遅くもない。
セレナは、その足音を数えるように歩いた。
――あなたの音は、とても悲しくて……でも、今まで聴いた誰よりも、嘘のない温かさがします。
声に出さずに思ったことが、胸の中で繰り返された。
港湾都市の広場で、人だかりの中をすれ違った時の音。あの時も、同じだった。重くて、静かで、怒りも焦りも含んでいない。穏やかで、どこか深く悲しい。
勇者様の声が、その奥で重なった。何度も聴かされた言葉が、耳の底に蘇る。
だが、足元の草が露で濡れていた。冷たい水気が、足の裏から伝わってくる。
何かが、合わない。
喉の奥が、細くなった。
セレナは、その感覚を押さえるように、両手を重ねたまま歩き続けた。
◇◇◇
窪地に火が点いた。
三方を岩と灌木に囲まれた窪みの中央で、橙の光が低く広がり、七人分の影が揺れる。煙が細く立ち上り、草と乾いた木の、わずかに苦い匂いが夜気に混じった。
仲間たちの気配が、それぞれの位置に落ち着いていった。ゼノリスは炎を見たまま、六人の気配の輪郭を確かめた。耳と皮膚が拾う、呼吸と重さの輪郭だけだ。
一つ、静止したまま揺れている気配がある。
火から少し離れた岩壁のそば。姿勢は崩れていない。呼吸も乱れていない。だが、息の間隔がわずかに詰まっていた。指先が、何かを押さえるように動いては止まっている。
セレナだった。
ゼノリスは何も言わなかった。
炎が、低く揺れた。
◇◇◇
セレナは両膝の上で、手を重ねたまま動かなかった。
指が冷たかった。焚き火の熱は届いている。足元の草の湿り気が、薄い布越しに伝わっている。それでも、指先の冷たさが抜けない。
周囲の気配が、少しずつ沈んでいく。
城門を砕いた時の足音の持ち主の呼吸が、眠りに向かう間隔になっていた。重く落ち着いた気配も、深く、静かになっている。帳面を閉じた音の気配はまだ動かない。カイロさんは、いるのかいないのかわからない。焚き火の音だけが、低く続いていた。
今日の音が、胸の中で繰り返されていた。
縄を解かれた者が水を求めた声。それに応じたゼノリス様の『わかりました』という一言。急かさず、命令せず、当たり前のことをするように。怒鳴り声が、なかった。
勇者様の声が、その上に重なってくる。
――魔王は残虐な存在です。民を苦しめ、世界を支配しようとする、絶対悪。だから、私たちは戦わなければならない。
何度も聴いた言葉だった。その声は毅然として、揺れなかった。疑う理由がなかった。
セレナの右手が、左手の甲をそっと押さえた。
今日、歩いた道がある。ゼノリス様の足音が、等間隔で速くも遅くもなく刻まれていた。拠点の者たちに声をかけた時の、低くて静かな声がある。六人の沈黙に、とげがなかった。
――残虐な者の音ではない。
それは、言葉ではなかった。今日一日、耳が積み上げてきた、ただの事実だった。
喉の奥に、熱いものがある。
目の奥が熱くなっている。指先が、小さく震えている。セレナは膝の上で両手をきつく重ね、その震えを押さえた。
勇者様は正しいと、思っていた。あの声に迷いはなかった。力強く、まっすぐで、誰よりも揺るぎなかった。だから信じた。信じることが正しいと、ずっとそう思っていた。
だが、耳は聴いていた。今日も。昨日も。あの港湾都市の広場でも。
セレナは動けなかった。
遠くで、鐘の音がした。
かすかだった。どこの鐘か、何を告げる音か、わからない。ただ夜の空気の中を、一度だけ渡って、消えた。
セレナはその余韻の中で、動かないまま、両手を膝の上に置いていた。
――私は……一体、何を信じてきたのでしょう。
声に出なかった。声にできなかった。
遠くの鐘の音が消えてからも、その問いは静かに、まだそこにあった。




