第94話:「解放の選択」
中央棟の廊下は、静かだった。
外の喧騒が嘘のように、石造りの通路には音がない。松明が等間隔に並び、橙の光が床を照らしている。足音が響かないよう、ゼノリスは踵から着地した。カイロが一歩後ろに続いている。
突き当たりに、扉があった。
扉の前に、二人が立っていた。革鎧に剣を帯びた、護衛だ。ゼノリスたちの姿を認めた瞬間、二人同時に剣を抜いた。金属音が廊下に響く。
「セレナ様には指一本触れさせない!」
声が廊下に走った。
カイロが前に出た。
右の護衛の手首を捉え、壁へ押しつける。声が出る前に膝が折れた。一方、左の護衛が剣を振り上げた――その腕が、途中で止まった。カイロの手が肘の関節を逆に押さえていた。剣が床に落ちる。乾いた音がして、静かになった。
二人とも、生きている。
カイロが後退し、ゼノリスの隣に戻った。乱れた息ひとつなかった。
「問題ありません」
短く言って、前を向く。
ゼノリスは扉の前に立った。
木の扉だった。装飾はなく、鉄の取っ手だけがついている。鍵穴には鍵が刺さったままだ。内側からではなく、外から施錠されていた。
ゼノリスは目を閉じ気配を探った。
動いていない。部屋の隅でも扉の傍でもなく、ただ静かに、中央に在る。
ゼノリスは目を開いた。
鍵を取っ手から外した。鍵を外す音は小さく、廊下に短く響いた。ゼノリスは取っ手に手をかけ、一度止まった。
扉を叩く。三度、静かに。
「入ります」
返事を待った。
沈黙があった。五秒ほど。それから、かすかな音がした。布が擦れる音と、息を整えるような、小さな気配。
ゼノリスは取っ手を引いた。
扉が、内側へ開いた。
◇◇◇
セレナには、扉の向こうが聴こえていた。
廊下の足音が二つ。一つは軽く、迷いがない。もう一つは少し重く、それでいて静かだ。どちらも、急いでいない。
中央棟が揺れたのは、ずいぶん前のことだった。
城門が砕ける音を、セレナは部屋の中で聴いた。石造りの壁を通して、衝撃が空気に伝わってきた。床が震え、棚の上の器が揺れ、どこかで怒声が上がった。
セレナは椅子から立ち上がらなかった。立ち上がって、どこへ行くというのか。部屋の鍵は、外にある。
怒声が、少しずつ遠くなっていった。
それから、静かになった。
静かになるまでの時間が、恐ろしいほど短かった。城門が砕けてから、せいぜい一刻にも満たない。それだけの時間で、あれほどの混乱が静まるとは。
セレナは両手を膝の上で重ね、音に耳を澄ませ続けた。廊下の足音。遠い怒鳴り声。石床を滑る何かの音。それらが一つずつ消えていき、最後に残ったのは、自分の呼吸だけだった。
そして、足音が来た。
二つの足音が廊下を近づいてくる。前に、誰かが立ちはだかった。『セレナ様には指一本触れさせない』という声がした。護衛の声だ、とセレナにはわかった。
それから、一瞬の静寂。
続いて、短い衝撃音。
終わった。
セレナの指先が、膝の上でわずかに動いた。護衛は生きている。呼吸の音が、扉越しに届く。死んでいる音ではない。ただ、動けなくなっている。
足音が、扉の前で止まった。
気配があった。
――この、音。
セレナの手が止まった。呼吸も、止まりかけた。
知っている。この気配を、知っている。重くて、静かで、怒りも焦りも含んでいない。穏やかで、それなのにどこか深く悲しい。
港湾都市の広場で、人だかりの中を歌い終えて戻るとき、すれ違った。ほんの一瞬だった。足を止めて、空を仰いだ。あの時の音だ。
扉が、三度叩かれた。
静かなノックだった。
「入ります」
声が来た。
セレナは椅子から立ち上がらなかった。立ち上がれなかった。膝の上の両手が、指先まで固まっている。
扉が開いた。
足音が、部屋に入ってきた。一つだけだ。もう一つの足音は、廊下に残っている。
足音が、セレナから三歩ほどの距離で止まった。
止まった。それだけだった。何も言わない。何も動かない。ただ、そこに立っている。
セレナは息を止めた。
気配があった。扉の向こうで感じたものと、同じだった。一つも変わっていない。部屋に入ってきてから、足を踏み入れてから、今この瞬間まで乱れない。こんなに近くにいるのに、何一つ隠そうとしていない。
沈黙が、続いた。
先に口を開いたのは、相手だった。
「私はゼノリスと申します」
静かな声だった。急かさない。威圧もない。ただ、そこに在るような声だった。
「あなたを傷つけるつもりはありません」
セレナは顔を上げた。目隠しの向こう、声の方向に顔を向けた。
「あなたは……あの時の」
声が、かすれた。続きが出てこなかった。
ゼノリスは答えなかった。否定もしなかった。ただ、黙って立っていた。その沈黙が、セレナには答えに聴こえた。
しばらく、二人とも動かなかった。
夜の拠点に、遠くで風が通る音がした。
ゼノリスが口を開いた。
「あなたには、ここを去る自由があります」
一言ずつ、確かめるように言った。
「私たちと共に来るか、それとも別の道を選ぶか。決めるのは、あなた自身です」
言い終えた後、またゼノリスは黙った。
急かさなかった。答えを求める圧力が、気配のどこにもなかった。ただ、待っている。セレナが何を答えても、受け取るつもりで、待っている。その静けさが、かえってセレナの胸に重く落ちた。
セレナは動かなかった。
膝の上の手が、きつく重なった。指先が白くなるほど握り合わさる。
勇者様のことが、頭をよぎった。唯一の家族と信じてきた声が、唯一知っている安全な場所が、今この瞬間に遠ざかっていく感覚があった。喉の奥が、細くなる。呼吸が、浅くなる。
指先が、震えた。
セレナはその震えを、膝の上で静かに押さえた。気づかれないように、ではなく、ただ確かめるように。何かが動こうとしている震えだった。
だが、目の前の音は嘘をついていない。
それだけが、わかった。
声に怒りがない。焦りがない。目的のために近づいてくる音ではない。勇者様の声には、いつも何かが混じっていた。セレナにはそれが何かわからなかったが、聴くたびに胸の奥で何かが軋んだ。でもこの声は、軋まない。
セレナはゆっくりと息を吸った。
肺の底まで、空気を入れた。
「……あなたと、共に行きます」
声は震えなかった。
ゼノリスが一歩近づく足音がした。
「ありがとうございます」
低く静かな声でゼノリスが言った。それだけだった。説明も、慰めも、問いかけもなかった。ただ、受け取った。
セレナは立ち上がった。
足元が少しだけふらついた。長く座っていたせいだ。それでも、倒れなかった。
扉の向こうから、廊下に残っていた足音が動いた。先導するように、少し先へ進む。
セレナは一歩を踏み出した。
石床の冷たさが、足の裏から伝わってきた。
――これから、私は何を聴くのでしょう。




