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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第91話:「王の進軍」

 夜明け前の城塞は、まだ昼の喧騒を知らない静けさに沈んでいた。


 石造りの広間に、燭台の明かりが一つ揺れている。机に広げた地図の端が、その光の中に浮かび上がっていた。ゼノリスは地図の上に指先を置き、街道筋をなぞった。旧魔王領から魔王城への最短路、その途中に小さな黒い印が三つある。勇者軍の駐屯点だ。いずれも規模は大きくないが、無視はできない。


 足音がした。


 石床を踏む音は軽く、迷いがない。ノアが地図筒を抱えたまま広間に入ってきた。眠れなかったのか、あるいはもとより眠るつもりがなかったのか。目の下の薄い隈が、燭台の光に浮かんでいた。


「先に来ていたんですね」


 ゼノリスの言葉に、ノアは机の前に立った。地図筒を脇に置き、自分の帳面を開く。


「地形を確認したかったので」


 それだけ言って、ノアは地図に視線を落とした。指先が三つの印の上を順に辿る。行き止まりを探すような動作ではなく、ものを数えるような、確かめるような動きだった。


「ここと、ここが最も問題になります」


 ノアが二つの印を指で押さえた。


「峡谷の入口と、橋の手前。どちらも少数では通過に時間がかかります。夜明け前に抜けるなら、橋の手前を先に無力化する必要があります。ここだけ処理すれば、峡谷は警戒なしで通れます」


「橋の守備は?」


「小隊規模です。夜間は交代が二人。昼と夜の境目で動けば、引き継ぎの空白が生まれます」


 ゼノリスは地図から目を上げた。


 ノアの視線は地図の上にあった。話しながら、右手の指が帳面の端を叩いている。紙をめくる動作ではなく、ただ触れるだけの、無意識の動作だった。石の床に書いていたときと同じ指の使い方だ、とゼノリスは思った。


「わかりました。橋の手前を先に処理しましょう」


「それで問題ありません」


◇◇◇


 城塞を出たのは、東の空が白み始めたころだった。


 六人が街道を歩いていた。荷は最小限にまとめてある。ガルムの巨体が先頭を歩き、カイロが街道の端に沿って影のように動いている。その後ろをセラが軽い足取りで続き、シルヴァが術式帳を胸に抱えながら無言で歩いていた。ノアは地図筒を肩にかけ、ゼノリスの少し後ろに位置を取っている。


 夜明けの街道は土の匂いがした。昨夜の雨が地面に染みて、まだ乾いていない。靴底に湿った土が張りつき、一歩ごとに重さがわずかに変わる。霧が低く漂い、前方の視界を絞っていた。


 歩き始めて一刻ほどで、霧が晴れ始めた。


 霧が晴れた先に、荒れた畑が広がっていた。


 隣で、ノアが帳面を取り出した。歩きながら何かを書いている。地図と照らし合わせているのではなく、見たものを記している動作だ。固く締まった土、無秩序に残った枯れ茎、崩れかけた柵の本数。ノアの指が動くたびに、この荒廃に数字が与えられていく。村があったのだろう。人の気配は、もうなかった。


 ゼノリスは前を向いたまま歩いた。


 陽が天高く昇り、昼に近い時間が訪れた頃、前方に石造りの橋が見えてきた。


 橋のたもとには、二人の守備兵が立っている。


 カイロが動いた。


 声が出る前に終わった。


 捕縛して茂みの中に置いた。二人とも生きている。橋を渡り、峡谷の入口を確認し、ゼノリス一行は先へ進んだ。


◇◇◇


 その日の夕刻、街道を外れて斜面に入った場所に野営を張った。


 石を積んで風を遮り、最小限の火を起こす。セラが薪を割り、シルヴァが結界の残滓を周囲で確認した。ガルムが地に膝をつき、昼間に歩いた街道の方角を静かに見ていた。カイロは斜面の上に消えて、しばらくして戻った。


「北側、異常なし」


 それだけ告げて、カイロは焚き火の端に腰を下ろした。


「今日は順調だったね。明日も同じくらい?」


 セラが薪の束を地に置きながら言った。


「明日は地形が変わります」


 ノアが帳面から顔を上げた。


「峡谷を抜けると、街道が二手に分かれます。東が早い。ただし、勇者軍の拠点まで直線距離が短くなりすぎる。発見される前に陣形を整える必要があります」


「陣形って、私たちに陣形ありましたっけ?」


 セラが小首を傾けた。


「ありません」


 ノアは帳面に視線を戻した。


「だから考えています」


 沈黙があった。焚き火が一度大きく爆ぜた。


 ゼノリスはノアを見ていた。


 火の光が帳面の白い紙を照らしている。ノアの指が止まっている。計算でも策でもなく、何かが詰まっているときの止まり方だった。


 ゼノリスは立ち上がり、ノアの隣に移った。


「ノア」


「……はい」


「少し、話しましょうか」


 ノアが帳面を閉じた。視線を上げる。


 ゼノリスは静かに言った。


「ノア、あなたには『盤面の支配者』という権能があります」


 ノアの手が止まった。


「……権能、ですか?」


「はい。戦場全体を俯瞰し、集団の力を最大限に引き出す力です。あなたの本質に刻まれています」


 ノアは答えなかった。帳面の表紙に置いた指先が、静かに止まっていた。


「ただ、まだ十分に引き出せていません」


 焚き火が低く燃えている。斜面の上で風が鳴った。


「今朝の橋の話、あれは見事でした。地形を読み、敵の動きを予測し、最小のコストで最大の成果を出す。その思考は本物です」


 ノアは何も言わなかった。


「ですが今朝、橋の話をしていたとき――私以外の四人は、あなたの説明を完全には追えていなかった」


「……そうですか」


「はい。カイロは結論だけ拾っていた。ガルムは途中で地図に視線を移した。あなたの計算は正しかった。伝わり方が、まだ途中です」


 ノアは返事をしなかった。かわりに、帳面の表紙の上に指先を置いた。なにかを書こうとして、止めた。


「これから数日、私があなたに訓練を課します。戦場を俯瞰するための問いかけと、それを他者に渡す言葉を作る練習です」


「……具体的には」


「まず、明日の行軍中に試します。あなたが見えている盤面を、ガルムに伝えてみてください。計算の言葉ではなく、ガルムが理解できる言葉で」


 ノアは少しの間、沈黙した。


「……ガルムさんは、僕の説明が理解できますか?」


「できるように説明するのが訓練です」


 ノアの口が、わずかに動いた。笑ったわけではない。何かをこらえたか、受け取ったか、どちらか判断のつかない小さな動きだった。


「わかりました」


 短く答えて、ノアは帳面を膝の上に置いた。


 ゼノリスは焚き火のほうへ目を向けた。


 炎が風に揺れ、橙の光が五人の顔を順に照らしている。セラが足を崩して丸くなっている。ガルムが膝に両腕を置いたまま動かない。シルヴァが術式帳の頁をゆっくりめくっている。カイロが背を木にあずけて目を細めている。ノアが帳面を膝の上に置いたまま、静かに座っている。


五人が、ここにいる。


ゼノリスはその光景を、余分な言葉をつけずに見ていた。


◇◇◇


 ガルムは、話を聞く時に腕を組まない。


 それが、ノアが最初に気づいたことだった。大きな体を前に傾け、両手を膝に置き、ただ黙って待つ。急かさない。遮らない。話が終わるまで動かない。


 翌朝の行軍中、ノアはゼノ様に言われた通りにガルムの隣へ移った。地図筒を肩にかけ直し、帳面を開こうとして、やめた。帳面を見ながら話すと、相手を見ていないことになる。


「ガルムさん」


「ん?」


 ガルムが短く応じた。前を向いたまま、目だけをノアに向けた。


「今日の行程ですが、峡谷を抜けた先で街道が東西に分かれます。東の街道を進めば、最短距離で到達できます。ただし、そちらは視界が開けていて、こちらも見られやすい」


「そうか」


「西回りは遠くなりますが、林が道を遮っています。近づくまで気づかれない」


 ガルムは少し間を置いた。


「どちらを選ぶ?」


「東です。ただし、峡谷を出た後の最初の曲がり角を素早く抜ける必要があります。そこだけ速度を上げれば、あとは問題ありません」


「曲がり角で何がある?」


 ノアは一瞬、止まった。


 地図の上では、その角は単なる道の折れ曲がりだ。だが昨日の行軍で遠目に確認した岩が、街道側に張り出している。そこに立てば視角が狭まる。その読みを、ノアは地図の中でしか言葉にしていなかった。


「……岩が出ています。そこに立てば、東の街道が一望できます。逆に言えば、そこに立たれると、こちらも見える」


「わしが先に取ろう」


「カイロさんなら取れます。先行してもらえれば、一分もかかりません」


 ガルムは頷いた。一度だけ、深く。


「わかった。任せる」


 それだけだった。


 ノアは前を向き、靴底が土を踏む感触を確かめながら歩いた。さっきの言葉を、もう一度頭の中で組み直した。最初の説明は正しかった。だが途中で止まった。地図の外にあった情報を、声にするのが遅かった。


 帳面に、書き残しがある。


 地図と現実の差異を埋める作業を、ノアはずっと帳面の中だけでやっていた。


◇◇◇


 岩の角は、カイロが一足先に押さえた。


 声もなく消えて、声もなく戻ってくる。東の街道は問題なかった。一行はそのまま曲がり角を抜け、林の縁に沿って足を進めた。峡谷の石壁が遠ざかり、前方に平地が広がり始めた。乾いた草の匂いが風に乗って流れてくる。空が、昨日より高く見えた。


 昼に差し掛かる前に、ゼノ様が立ち止まった。


「ノア、今の動きはよかった」


 ノアは数歩先で足を止めた。振り向く。


「ガルムに説明した内容、伝わっていましたよ」


 ゼノ様の声は静かだった。称賛というより、観察の結果を告げる声だった。


「ただ、一か所詰まりましたね」


「岩のところです」


「はい。なぜ詰まったと思いますか」


 ノアは帳面に手を伸ばしかけて、やめた。


「……地図には書いていない情報だったので」


「そうです。あなたが見た情報でした。帳面に書いていなかった」


 ゼノ様が前を向いた。


「明日は、歩きながら見たものをすべて声に出してみてください。書く前に」


「書く前に?」


「声に出すと、自分が何を見ているかわかります。帳面に書くことと、声に出すことは、違う頭の動きを使います」


 ノアは黙った。


 それは考えたことがなかった。帳面は思考の外付けだ。書くことで整理する。声に出すのは、整理した後でいい。そう思っていた。だが、ゼノ様の言い方には別の前提があった。声に出すのは整理のためでもある、という前提が。


◇◇◇


 三日が経った。


 野営地に夜が落ちた。焚き火が細くなり、他の五人が眠りに就いて、あたりが静かになった。ノアは地面に座ったまま、膝の上の帳面を開いていた。


 火の光が弱い。指先に走る文字が、かすかに滲んで見えた。


 ここ三日で、帳面の書き方が変わっていた。


 以前は数字と矢印ばかりだった。距離、人数、時間、分岐。計算の痕跡だ。今は、そこに言葉が混じっている。『ガルムさんが見やすい角度』『カイロさんが先行できる距離感』『セラさんが飽きる前に終わらせる』名前と、その名前に紐づいた動き方の記述が、数字の間に入り込んでいた。


 ノアは帳面を一度閉じた。


 火が一度、弱く爆ぜた。


 勝てる計算を出すことは、ずっとできていた。だが今まで自分が描いていたのは、人のいない盤面だったかもしれない。駒は動かせる。だが駒に足があり、目があり、疲れるということを、どこかで省いて計算していた。


 帳面を、もう一度開いた。


 新しい頁に、ゼノ様に見せるつもりのない走り書きで、明後日の拠点への経路を書いた。三通り。それぞれの横に、六人の名前を小さく書き入れた。誰が先行し、誰が遅れても成立する経路を選ぶために。


 書き終えて、ノアは顔を上げた。


 夜空は雲がなく、星が出ていた。遠い。音もなく、光だけがそこにある。


 牢の中で書いていた計算式は、誰にも見せるつもりがなかった。正しいかどうかを確かめる相手がいなかった。今は違う。この帳面の中身は、明日ゼノ様に問われる。答えられなければ、また詰まる。それでも問われる。


 焚き火の残り火が、かすかに橙に燃えていた。


 ノアは帳面を閉じ、地図筒の横に置いた。眠るつもりはなかった。だが目を閉じた。


 頭の中で、盤面が動いていた。人のいる盤面が。


◇◇◇


 明け方、空が白み始める前に、ゼノ様が焚き火の前に戻ってきた。


 ノアはすでに帳面を開いていた。


 ゼノ様は何も言わずに隣に座った。しばらく、二人とも黙っていた。


 空が少しずつ明るくなる。草の中で虫が鳴いている。遠くで鳥が一声だけ鳴いた。


「ゼノ様」


 ノアが口を開いた。


「次の拠点には、勇者軍の指揮官がいます」


「ええ」


「そこで、僕の成果をお見せします」


 ゼノ様は答えなかった。


 かわりに、わずかに目を細めた。それだけだった。


 夜明けの光が、二人の間の地面をゆっくりと照らし始めた。



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