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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第90話:「五人の軍勢」

 床の線が、まだそこにある。


 青年の指先が、石の上を静かに動いていた。捨て駒の行き止まりではない。その傍の一本を、往復するように。シルヴァの光がその手元を照らし、ゼノリスは格子の傍に立ったまま待った。急かさなかった。牢の奥で誰かが寝返りを打つ音がした。カイロが外の廊下に気配を消したまま控えている。


 長い、間だった。


 青年の指先が、止まった。


 膝の上で、手が重なる。顔が上がった。目の下の薄い隈。猫背ぎみの肩。だがその目には、牢に来たときとは別の光があった。何かを測り終えた、静かな目だった。


「……分かりました」


 声は低く、落ち着いていた。


「あなたの理想は机上ではない。盤面に落とせます」


 一度、息を吸う間があった。


「……勝たせます」


 ゼノリスは答えた。


「ありがとうございます」


 それだけだった。


 青年が、身を起こした。膝をついた状態から、両手を床につき、ゆっくりと立ち上がる。長くこの場所にいた体は、最初の一歩でわずかによろけた。だが転ばなかった。石床から離れた足が、しっかりと地を踏んだ。


 立ち上がった青年は、猫背ぎみの姿勢でゼノリスの肩より少し低い、線の細い青年だった。暗がりに長くいた者の肌の色をしていたが、その目だけは光の中でまだ何かを追っていた。指先に石の粉が残っている。牢の冷気が、まだその外套に染みついていた。


 青年は頭を下げた。


「僕の名はノア。ゼノリス様、どうかよろしくお願いします」


 ゼノリスは頷いた。


「こちらこそ。ノア、あなたの力を貸してください」


 シルヴァが入口から一歩を踏み出した。指先の光が揺れる。


「ノア、私はシルヴァ」


 端的だった。だが声に棘はなかった。


 カイロが格子の外から顔を見せた。


「カイロです。以後よろしく」


 短い。それがカイロらしかった。


 ノアは二人を見て、小さく頷いた。『シルヴァさん、カイロさん』と名を繰り返す。確認するように、頭に刻み込むように。指先が、無意識に外套の裾に触れた。帳面を取り出す癖の、最初の動作だった。


 牢を出るとき、ノアは一度だけ振り返った。石床の計算式に、最後に目を向けた。行き止まりの矢印と、書き直せなかった線と、今もまだ解けていない計算式とが、薄い光の中に残っている。


 それから、前を向いた。


◇◇◇


 数日が経っていた。


 牢の被収容者たちを解放し、負傷者の手当てを終え、城塞内の残党を確認した。その間、ノアは地図筒を抱えたまま城塞の各所を歩き、帳面に何かを書き続けていた。


 廊下の幅、扉の位置、物資の残量。歩くたびに、ノアの手は動いていた。カイロが廊下の配置を確認し、シルヴァが結界の残滓を調べた。それぞれが、音もなく動いた。


 広場の入口に、足音が響いた。


 石畳を踏む音が二つ。一つは軽く速く、もう一つは重く低い。


 ゼノリスが振り向いた瞬間、青い影が駆けてきた。


「ゼノ様――!」


 セラだった。淡い青の髪が風に揺れ、小柄な体が石畳を蹴って一直線に向かってくる。拳の硬い手が、制動をかけながら間際で止まった。勢いが余って上体が前に出たが、踏みとどまった。


「ご無事で、よかったです! あの、港湾都市の方は全員無事で、今は自警団たちが守ってますから、ご報告に……っ」


 息が切れている。走ってきたのだ、とゼノリスは思った。ここまでの道のりを、走り通してきたのだろう。


「よく来てくれました、セラ」


 そう告げると、セラの耳まで赤くなった。背筋を正して、咳払いを一つする。それから、傍らのノアに気づいて首を傾けた。


「……あの人は?」


「ノアです。新しく迎えました」


 ゼノリスが答えると、セラはノアを正面から見た。ノアは小さく会釈した。セラが拳を腰に当てて背筋を伸ばす。


「私はセラ! よろしくお願いします!」


 ノアが小さく目を瞬かせ、少し間を置いてから答えた。


「セラさん。よろしくお願いします」


 その後ろから、重い足音が近づいてきた。


 石畳が、一歩ごとに低く震えた。二メートル近い巨躯が、ゆっくりと広場に入ってくる。スキンヘッドに数多の戦傷。鉄灰色の重装鎧が、昼の陽射しを鈍く跳ね返した。巨大な盾を背に負ったガルムが、ゼノリスの前で膝をついた。膝が石畳に触れる音が、広場に低く響いた。


「ゼノリス様。お守りできず、申し訳ありませんでした」


「いいえ」


 ゼノリスは首を振った。


「あなた方がいたから、攻め入る事が出来ました。ありがとう」


 ガルムの目が、細くなった。深い皺の奥で、何かが揺れた。頷く代わりに、もう一度深く頭を下げた。その肩が、わずかに震えていた。


 ノアがガルムを見上げた。二メートル近い体格を首を持ち上げて確認し、それから帳面に何かを書いた。


「……ガルムさん、で合っていますか?」


「そうだ。ガルムだ。よろしく頼む」


 ノアは静かに頷いた。


「よろしくお願いします」


 ゼノリスは広場を見渡した。


 カイロが端に立っている。シルヴァが石畳の上で静かに待っている。セラが背筋を伸ばしたまま、こちらを見ている。ガルムが膝から立ち上がる。そしてノアが、地図筒を抱えて少し後ろに立っていた。


 五人が、揃っていた。


◇◇◇


 民衆を正門前に集めた。


 石造りのアーチの向こうに、人が集まっていた。解放された民だった。城壁の下に、老いた者も若い者も、子供を抱えた女も、杖をついた男も、肩を寄せ合うように立っている。城塞の影が彼らの足元に伸び、昼過ぎの陽射しが人群れの頭上を照らしていた。風が吹くたびに、誰かの衣の裾が揺れた。誰も声を発していなかった。


 ゼノリスは正門の前に立った。


 人群れの中で、誰かが息を呑む音がした。ゼノリスを見て、数人が後ずさる。恐怖と期待の両方が混じった、どちらへも転ぶ静けさだった。子供が一人、母親の袖を引いた。


 ゼノリスは声を張った。


「ザフィールは倒れました。この領地は解放されました」


 一瞬、沈黙があった。


 それから、声が上がった。一人の老人が両手を上げた。それが伝播するように、隣の女が声を出した。子供が母親の腕の中で笑い声を上げた。石畳を踏む足音が重なり、歓声が城壁に跳ね返った。最初は一つだったその声が、波のように広場を満たしていく。


 ゼノリスは動かなかった。


 声の波が正門を越えて広がっていく中、ゼノリスはその音を聞いていた。怒鳴り声でも、命令でも、剣の音でもない。ただの、人の声だった。


 後ろに、気配があった。


 振り向かなくても分かった。五人が並んでいる。


◇◇◇


 歓声が収まるまで、しばらくかかった。


 民衆が城塞の外へ散っていき、正門の前が静かになった。石畳の上に、夕暮れが迫り始めていた。西の空が橙に染まり、城塞の影が長く伸びている。正門のアーチの向こうに、民衆が去った後の空き地だけが残っている。昼の喧騒が嘘のような静けさだった。


 ゼノリスは振り向いた。


 五人が、そこにいた。


 カイロが右端に立っている。腕を組み、正面を向いたまま表情を動かさない。その隣にシルヴァが並び、術式帳を胸に抱えて静かに待っている。セラが中央あたりで背筋を伸ばし、拳をわずかに握っている。ガルムが左に立ち、巨大な盾を地に突いて、深い皺の目でゼノリスを見ていた。ノアはガルムの傍に立ち、地図筒を抱えたまま少しだけ視線を上げている。


 夕陽が、五人の顔を照らしていた。


 ゼノリスは一人ずつ、その顔を見た。それぞれが違う場所から来て、それぞれが違う傷を持ち、それぞれが違う形でここに立っている。


「これで、私の右腕たちが揃いました」


 ゼノリスは言った。


「カイロ、セラ、シルヴァ、ガルム、ノア」


 一人ずつ、名を呼んだ。


「あなた方と共に、私は魔王城を取り戻します」


 沈黙があった。短い、息を整えるような間だった。


 五人は「はい!」と答えた。


 最後に、ノアが口を開いた。


「……勝たせます。必ず」


 牢の中で言ったのと、同じ言葉だった。だが今は、声の底に何か違うものが混じっていた。


 西の風が、城壁の上を越えて吹いてきた。


 正面の地平線の向こうに、黒い稜線が見えた。かつてそこから追われ、名を汚され、剣を捨てて逃げ帰った城が、夕陽の中に輪郭を刻んでいる。



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