第88話:「牢獄の知略」
石段の一段目に足をかけた瞬間、温度が変わった。
廊下を進んでいた間も城塞の空気は冷えていたが、地下へ向かうほどその冷たさに湿り気が加わり、足元の石が滲むように暗くなっていく。ゼノリスは手すりのない壁に指先をつきながら段を降りた。石の表面はざらついていて、指の腹に砂が残った。
先行するカイロの背が、下の闇に沈んでいく。
シルヴァが後ろから口を開いた。
「どうなっているのでしょうか」
ゼノリスは答えなかった。言葉にする前に、見なければならない。
石段が終わった。
足元が平らな石床に変わる。天井が低い。松明の残骸が壁の金具に刺さったままで、火はとうに落ちている。代わりに、シルヴァの指先から淡い光が漏れ始め、通路の輪郭を浮かび上がらせた。
においがあった。
湿った石と、それ以上に何か別のもの。長く閉め切られた場所の匂い。人の気配が積み重なって空気に染み込んだような、重い澱み。ゼノリスは一度、短く息を止めた。
通路の突き当たりに、鉄格子が並んでいた。
◇◇◇
カイロがすでに格子の前に立っていた。
鍵穴に指を当て、一度だけ確認する。次の瞬間、短く力が入った。金属の歪む音が通路に響き、錠前が床に落ちた。音がやんだ後、しばらく静寂があった。
カイロがゼノリスの方を向いた。
「守備の兵は片付けました」
一言だけ告げて、格子を押し開ける。蝶番が軋んだ。
中に、人がいた。
最初に目に入ったのは、壁際に背をつけて座る者たちの輪郭だった。膝を抱えている者、床に手をついている者、横に倒れたまま動かない者。光に気づいて顔を上げた者が数人いたが、声は出なかった。口が開きかけて、閉じた。目だけが動く。
ゼノリスは一歩、中に入った。
見渡す。十人は下らない。男も女もいる。着ているものは薄く、汚れていた。頬がこけ落ちている者が多い。腕の細さが、袖口から覗いた。元魔王軍の末端兵と思しき若い男が、膝を立てたまま壁にもたれて目を閉じている。その隣で、年配の女が膝の上に手を重ねたまま、ゼノリスを見ていた。
声が出ない者たちだ、とゼノリスは思った。
叫べなかったのではない。言葉が、どこかで奪われてしまった者たちだ。
シルヴァが入口の傍らに立ち、指先の光を少し強めた。光が奥まで届く。牢の横幅は狭く、人と人の間に空間がない。詰め込まれていた、とゼノリスは理解した。
壁際に沿って視線を動かしていたとき、奥の隅で何かが動いた。
他の者たちとは、距離がある一角だった。
膝をついた人影が、床に向かって腕を動かしている。周囲の変化に気づいた様子がない。光が届いても顔を上げない。指先が石床の上を走り、何かを刻む動作を繰り返していた。
ゼノリスは歩いた。人の間を抜けて、その人影へ近づく。
足元に、文字が見えた。
ゼノリスは立ち止まった。
文字ではない。図形と数字と、記号に近い何かが組み合わさっている。一行だけではなく、石床の広い範囲に広がっていた。書き直した痕がある。消された線の上に、新しい線が重ねられている。
しゃがんだ。
目で辿る。
地形を示す記号と、矢印の方向。数字が間に挟まり、その横に短い文字列が添えられている。矢印が分岐し、それぞれの先に別の数字と記号が続く。どこかの地点を起点に、複数の経路が広がっている。
違う。経路ではない、選択肢だ。
条件が変わるたびに、分岐が生まれる。それぞれの分岐の末に、結果の数字が置かれている。損耗の計算だと気づくのに、時間はかからなかった。兵の配置と、地形の有利不利と、時間の変数とが、一枚の石床の上で組み合わさっていた。
ゼノリスは動かなかった。
この計算を理解できる者が、何人いる。将軍を呼んでも、すぐには解けない。地図と算盤と時間が必要になる。それを、石床に刻んでいる。道具もなく、光もなく、この場所で。
「この計算式は……美しい」
声が出た。意図したわけではなかった。
腕の動きが止まった。
青年の肩が、小さく持ち上がった。頭が、ゆっくりと上がっていく。首の動きが、どこか機械的だった。ずっと下を向いていた目が、初めてゼノリスを捉えた。
目の下に、薄い隈があった。
視線がゼノリスの顔に当たり、次に床の計算式に落ちた。また顔に戻る。何かを確かめるような動きだった。
ゼノリスはしゃがんだままで、動かなかった。
青年の唇が、一度閉じた。それから、かすれた声が出た。
「……見えるんですか?」
「見えます」
ゼノリスは答えた。
青年の眉が、わずかに動いた。拒絶ではない。何かを押し込めようとしているような、小さな動きだった。膝の上に置かれた手が、指先だけを床に触れさせている。計算式の端、消し直した線の傍だ。
「誰も……見ようとしなかった」
声が、低くなった。
ゼノリスは視線を床に戻した。起点の記号から辿り直す。経路の一つが行き止まりで終わっている。意図的なものだ。撤退不可能なルートを示している。
「この行き止まりは、捨て駒の経路ですね」
青年の手が止まった。
「……なぜ分かるんですか」
「地形を起点に置いている。撤退を前提にしていない計算です。ここに人を入れた書き手は、その経路を最初から消耗と割り切っている」
青年は答えなかった。
ゼノリスは続けた。
「あなたは、それを書き直していない」
沈黙があった。シルヴァの指先の光が、石床の文字を照らしている。壁際の者たちの気配が、少し動いた。誰かが身じろぎした音が、牢の奥から届いた。
青年が、口を開いた。
「……書き直せなかった。それが正解だと分かっているから」
指先が、床から離れた。
膝の上で、静かに手が重なった。
◇◇◇
ゼノリスは、青年を見た。
目の前にいる。猫背ぎみに膝をついて、指先に石の粉がついている。外套は薄く汚れ、髪は伸びかけていた。体格は細く、この場所に来る前から運動とは縁がなかっただろうとゼノリスには見えた。
【至極の理】を、使った。
青年の頭上に、星が浮かんだ。
【白色の星。☆☆/☆☆☆☆☆☆】
【盤面の支配者】
ゼノリスは、瞬きをした。
白色だ。敵意がない。それは分かっていた。ただ、その上に浮かんだ数字が、ゼノリスの目を離さなかった。現在の星は一つだけだ。この世界の評価でいえば、最底辺に等しい。だが、その上に並ぶ☆6と、そこに刻まれた権能の名が、地下の薄い光の中でくっきりと浮かんでいた。
この城塞の地下に。
牢の床に、計算式を刻み続けていた青年の頭上に。
ゼノリスの胸の奥で、何かが静かに動いた。かつてカイロたちを見たときと同じ感触だ。――これほどの輝きが、ここにあった。
青年がゼノリスを見ている。
何かを待っている目だ。嘲笑でも拒絶でも、どちらが来ても受け取る用意ができている、そういう目だった。何度もそういう目をしてきた者の顔だと、ゼノリスには分かった。
ゼノリスは立ち上がった。
青年が、仰ぐように顔を上げた。
「あなたは……誰ですか?」
青年の声だった。かすれていたが、今度は問いの形をしていた。
ゼノリスは答えた。
「私は魔王、ゼノリスです」




