第87話:「裏切り者の末路」
ゼノリスは、足を踏み出した。
一歩ずつ、静かに。石床の破片を踏む音が、崩れかけた室内にかすかに響く。傾いた石柱が天井をかろうじて支えており、その合間から外の光が細く差し込んでいた。粉塵が光の筋の中をゆっくりと漂い、どこかへ消えていく。
ザフィールは両膝をついたまま、動けない。シルヴァの術式が両足首に絡みつき、石床へ縫い止めたままだ。
立ち上がろうと体に力を入れるたび、術式の光が足首の周囲をきつく締め付け、その試みを押し返す。長剣は手元にない。床に落ちたまま、ゼノリスの足元近くに転がっている。
ゼノリスは、その手前で足を止めた。
剣を下げなかった。切っ先をザフィールへ向けたまま、正面から顔を見る。ザフィールの荒い呼吸が続いている。額に汗が滲み、鎧の胸当てに滴が落ちた。
「あなたの負けです」
声は低く、静かだった。
ザフィールの肩が、一度大きく動いた。瞼が細くなり、奥歯を噛み締める音が漏れる。ゼノリスは動かなかった。
やがて、ザフィールの口が開いた。
「……なぜだ」
最初は、それだけだった。
「なぜだ! 俺は正しい選択をしただけだ! 生き残るために! 正しい側についただけだ!」
叫びが崩れた天井に跳ね返り、礫の落ちた床に吸い込まれた。声が途切れた後、壁際の人質の誰かが息を呑む音が聞こえた。
ゼノリスは答えなかった。
ザフィールが続ける。膝をついたまま、上体を揺らしながら、言葉を積み上げていく。
勇者に寝返った経緯、領地を手に入れた経緯、逆らう者を牢へ送った年月。その一つひとつに『正しかった』という言葉を押しつけながら、ザフィールは声を張り上げた。張り上げるほど、その言葉が薄くなっていく。
「俺は弱い側にいたくない! 勝てない戦いに付き合う理由はない! だから選んだんだ、それの何が悪い!」
拳が石床を打った。
鈍い音が響いた。ザフィールは下を向き、荒い息を吐く。拳を打ちつけた石床に、細かいひびが入っている。そのひびを、ゼノリスは静かに目で辿った。
ザフィールの目が、床から上がった。
「貴様には分からん。俺が何を捨てて、何を選んで、ここまで生き延びてきたか。……貴様みたいな奴には、絶対に分からん」
声が、低くなっていた。
目の奥に、まだ火が残っている。消えていない。だが、その火が照らしているのは前ではなく、もう後ろだけだ。
ゼノリスは剣を構えたまま、ザフィールを見ていた。
弁明の言葉が積み上がるほど、ザフィールの輪郭がはっきりと浮き上がっていく。
ゼノリスは一歩、前へ進んだ。
ザフィールの視線がゼノリスの顔へ。その目に、まだ何かを燃やそうとする色があった。だが足首は術式に縫い止められたままで、膝から先が動かない。体だけが、前へ傾く。
ゼノリスは立ち止まった。
ザフィールの正面、剣の届く間合いに立ち、静かに息を吸う。崩れた石柱の隙間から差し込む光が、ザフィールの横顔を切り取っていた。額の汗が、顎の先から床へ落ちた。
「それが、あなたの限界です」
声は、低く、静かだった。
ザフィールの目が、細くなった。眉の間に深い縦皺が刻まれ、口の端がわずかに引き攣る。その皺の奥にあるのは、もう言葉では塞げない何かだ。
ゼノリスは剣を引いた。
一歩、踏み込む。右足が石床を蹴り、重心が前に乗った瞬間、剣が鋭く走った。
ザフィールが倒れた。
前のめりに、音を立てて。片手が反射的に床につき、それでも体を支えきれず、横に崩れた。鎧の金属が石床を打つ音が室内に響き、やがて消えた。
動かない。
ゼノリスは剣を下ろし、ザフィールの前に立ったまま動かなかった。胸の上下が見えない。荒かった呼吸の音も、もう聞こえない。傾いた石柱が軋む音だけが、室内にかすかに続いていた。
壁際の人質が、誰一人声を出さなかった。
室内の音が完全に消えた後、カイロの足音が近づいた。ザフィールの傍らに膝をつき、首筋に指を当てる。二秒、三秒。顔を上げた。
「終わりました」
一言だけ告げて、立ち上がった。
ゼノリスはザフィールを一度だけ見た。鎧の上に横たわる体。床に広がった髪。握りしめたままの、空の手。
視線を上げた。
崩れた天井の穴から、外の空が見えた。灰色ではなく、白に近い光だ。昼の終わりに差しかかる頃合いの色だった。この城塞の中で、外がまだ動いている。
シルヴァが歩み寄った。術式の光が両手の指先から静かに消え、床を這っていた光の線がすうと引いていく。人質を縛っていた残りの術式も、同時に解けた。壁際にいた者たちが、その場に座り込んだ。床に手をついて息を吐く音が重なった。
◇◇◇
「ゼノ様」
シルヴァが静かに口を開いた。
「領地の民を解放しましょう」
ゼノリスは頷いた。
「そうですね。まずは他に囚われている民がいないか、牢獄を確認します」
カイロが人質の方へ目をやった。壁際の者たちが、まだ動けずにいる。その中の一人が、かすれた声で何か言いかけたが、言葉にならなかった。
カイロはその者の前に膝をつき、低い声で問いかけた。短い言葉だったが、返ってきた答えを聞き、立ち上がった。
カイロは頷いてゼノリスへ向き直った。
「牢獄は地下です。西側に階段があるとのことです」
ゼノリスは室内の出口へ向き直った。
崩れた石材が床に散らばり、扉の枠が歪んでいる。その向こうに、まだ知らない廊下が続いている。この城塞の中に、まだ声を出せない者たちがいる。
三人が歩き始めた。
瓦礫を踏み越え、歪んだ扉の枠を抜ける。廊下の奥に、下へ続く石段の入口が見えた。その先から、冷たい空気が這い上がってきていた。




