第85話:「人質の無力化」
ゼノリスの声が、石壁に染み込んで消えた。
室内に残ったのは、人質たちの浅い息づかいだけだ。縄で縛られた手首の皮膚が、張力で白くなっている。足元は冷たい石の上に直接立たされており、靴底の薄い者の踵が、わずかに内側へ向いていた。寒さか、恐怖か、あるいはその両方か。
ゼノリスは剣を下げなかった。
ザフィールが人質の前に立ち、長剣を提げた腕を低く構えている。護衛兵が三名、人質の両脇と背後に散っていた。人質は全部で七名。旧魔王軍の意匠が残る鎧の者が五名、農民風の衣の者が二名。そのうち背の低い者が一人、顎が胸につきそうなほど頭を垂れている。
「貴様が降伏すれば、こいつらは助けてやる」
ザフィールが言った。
ゼノリスはザフィールを見た。声の調子に余裕が戻っている。長剣を落とされた数秒前の動揺が、すでに表から消えていた。切り札が手元にある間は、崩れない構えだ。
ゼノリスは答えなかった。
口を開くかわりに、室内を静かに見回した。護衛兵の立ち位置を一人ずつ確認する。右の護衛兵が人質の腕を掴んでいる。左の護衛兵は剣を抜いておらず、腰に手を当てたままだ。背後の一人は人質の縄の端を握っている。三名の間隔は均等ではない。右が近く、左と後方が遠い。
その配置を、視線だけで辿った。
背後から、気配がにじんだ。
カイロだった。気配と呼ぶには薄すぎる、空気の圧力の変化に近い。唇が耳元に近づき、声というより息に近い音が届いた。
「人質の配置、確認しました。右の護衛兵が一番近い。先にそちらを押さえれば、残り二名の動きが一拍遅れます」
ゼノリスは目を動かさなかった。ザフィールの視線がこちらに向いたままだ。カイロがいることを、悟らせてはならない。
「隙があります」
カイロの息が、そこで途切れた。
次に届いたのは、別の方向からだった。
シルヴァが右後方で指先を静かに動かしている。術式の光は出していない。声も出さない。視線だけをゼノリスに向け、指の形で示した。三本立て、次に人差し指一本を右へ。護衛兵三名、右から順に制圧できる、という意味だ。ゼノリスとシルヴァの間で交わしてきた、言葉のいらない確認だった。
シルヴァの唇が、かすかに動いた。
「拘束具を破壊できます。ただし、護衛兵を同時に止めることが条件です、ゼノ様」
声は微かに聞こえる大きさだった。
ゼノリスは二人の言葉を、胸の中で並べた。
右の護衛兵が最も人質に近い。カイロが右を先に押さえ、残り二名の動きが遅れた隙に、シルヴァが拘束具を割る。だが三名の同時制圧が条件だ。カイロが右を取る瞬間、残り二名をゼノリスが抑える必要がある。一人で二名を同時に制圧することはできない。
ザフィールが一歩前に出た。
「答えを聞かせろ。降伏するか、しないか」
長剣の先が、人質の一人に向いた。縄で縛られた者が、小さく肩を竦ませる。ザフィールはそれを見下ろしたまま、ゼノリスから目を外さなかった。
室内の空気が、音を失った。
松明の脂が爆ぜる音だけが、断続的に壁に響く。人質の誰かが息を呑んだ音が、その合間に聞こえた。
ゼノリスは室内の左壁に目をやった。
四本の燭台が壁際に固定されている。そのうち左壁の一本の炎が、右側よりも大きく揺れていた。空気の流れが右壁と左壁で異なっている。左壁側に、わずかな隙間か通気口がある。護衛兵の背後の一名がその燭台に近い側に立っており、炎の揺れが影を不規則に動かしていた。
ゼノリスは右手を剣の柄に添えたまま、ゆっくりと腕を下ろした。
ゆっくりと、腰の位置まで下ろす。剣を収めたわけではない。ザフィールの目には、降伏の身振りに見える角度だ。
カイロの気配が、左壁側へわずかに滑った。
ザフィールの目が、ゼノリスの右手を追った。
剣から離れた手が腰の位置で止まっている。ザフィールの口端が、わずかに持ち上がった。降伏の動作と読んだのだ。
「賢明だ」
ザフィールが言った。
その一瞬、ザフィールの視線がゼノリスの手に固定された。
「では、人質を救出します」
ゼノリスは静かに告げた。
ザフィールの表情が固まった。
カイロが動いた。
左壁の燭台の影が揺れたと思った次の瞬間、右の護衛兵の背後にカイロがいた。音がない。首筋に短剣を当て、一息で引いた。護衛兵の体が崩れ、人質の腕を掴んでいた手が外れた。壁に滑り落ちるまで、声一つ出なかった。
同じ頃、シルヴァが術式を放った。
二本の光の線が床を走り、左の護衛兵と背後の護衛兵の足元に同時に絡みついた。足が石床に縫い止められ、前に踏み出せなくなる。左の護衛兵が腰の剣に手を伸ばしたが、足が動かず体勢が崩れ、鞘を掴んだだけで抜けなかった。
ゼノリスは前に出た。
残り二名が足を止められている間に間合いを詰め、背後の護衛兵の首筋に剣を当てて押し倒した。左の護衛兵が体を捻って術式から逃れようとしたが、腰が入らない。ゼノリスは剣を横薙ぎに払い、その体を崩した。
三名、同時に止まった。
シルヴァの指先が素早く動いた。今度は術式を人質の手首へ向ける。縄の繊維に光が走り、結び目が一本ずつ焼き切れていく。最初の一人の縄が落ちた。次の一人、また次の一人と、シルヴァの指が動くたびに縄が床に落ちた。
「動かないで」
シルヴァが人質たちに向けて静かに言った。
「今、解放します」
シルヴァが続けた。
七人分の縄が解けるまで、ザフィールは動けなかった。
縄が全て落ちた。
人質の一人が、縛られていた手首を胸の前で押さえた。赤く食い込んだ跡が手首に残っている。隣の者が壁に手をついて体を支えた。背の低い者が顔を上げた。その目が、ゼノリスを見た。
ゼノリスは人質を一瞥した。全員が立っている。
「壁際に下がってください。扉に近い側へ」
声は静かで、急かす色がなかった。
人質たちが、壁際へ移動し始めた。
「貴様ら……!」
ザフィールの声が割れた。
底から裂けた声だ。長剣を握る手の甲に、血管が浮いている。足が一歩前に出た。
ゼノリスは動かなかった。
足を肩幅に開き、剣を正面に向けたまま立っている。ザフィールの一歩が止まった。
ザフィールの歯が、音を立てた。
奥歯を噛み締める音が、静まり返った室内に届いた。松明の炎が、その息の圧力に押されるように揺れた。
ゼノリスは人質が扉近くの壁際に収まったことを、視野の端で確認した。
ザフィールへ向き直る。
「さあ、決着をつけましょう」




