第83話:「因縁の対峙」
扉には閂が掛かっていなかった。
押すだけで開いた。重い木の扉が石床を擦る音が廊下に響き、ゼノリスは歩みを止めずに中へ踏み込んだ。
広い室内だった。
天井が高く、松明が四本、壁際の鉄製の燭台に固定されている。炎が上がるたびに、石壁に塗り重ねられた脂の焦げる臭いが鼻を刺した。床は剥き出しの石で、中央に長方形の卓が一つある。卓の上には地図と思しき広げた紙が数枚、重しの石で端を押さえられていた。端が捲れ、夜気の流れに合わせてわずかに揺れている。
奥の壁に、人影があった。
背中を向けたまま、動かない。
ゼノリスは室内に入った。カイロが左、シルヴァが右。三人の足音が石床を叩き、そこで止まった。
人影が振り返った。
大柄な男だった。上背があり、肩幅が広い。魔人族特有の隆起した体格を、装飾の少ない鎧で包んでいる。首から顎にかけて鱗が密集しており、頬骨の下で光を照り返している。腰に長剣を提げたまま、両腕を組んでこちらを見ていた。
その口の端が、ゆっくりと持ち上がった。
「久しぶりだな、元魔王……ゼノリス」
重い声だった。広い室内の石壁に反響し、余韻が染み込むように消えていく。嘲笑でもなく、怒声でもない。力を持つ者が、対等でない相手を前にしたときの、余裕の声だ。
ゼノリスは足を止めた。
卓を挟んで、ザフィールと向き合う。炎が二人の間の空気を揺らし、影が石壁を流れた。
「ザフィール」
ゼノリスは口を開いた。
「あなたが勇者側に寝返って、多くの仲間が命を落としました」
声は静かだった。廊下の反響ではなく、室内の空気に吸われ、ただ相手の耳に届く大きさだけがある。
「どこまで私腹を肥やせば、気が済むのですか」
ザフィールは動じなかった。
組んでいた腕を解き、卓の端に片手を置いた。指が地図の端を押し、紙が少しだけ滑る。その目がゼノリスを見たまま、口角がさらに上がった。
「私腹?」
ザフィールが繰り返した。声に嘲りの色がにじんでいた。
「弱い者が死ぬのは当然だ。生存競争の結果だろう。俺は生き残るために正しい選択をしただけだ。何がおかしい」
言い終えた後、鼻から息を吐いた。笑いを堪えているのではなく、笑う価値もないと判断した者の息の吐き方だ。
「貴様も、その程度の理屈は理解できるだろう。あれだけの時間を頂点に立っていたのだからな」
ゼノリスは答えなかった。
ザフィールの言葉が室内に残り、松明の揺れる音だけが続いた。カイロが左後方で静止している。シルヴァが右で術式の確認をしている気配が、指先の微かな動きで伝わってくる。
ゼノリスは一歩踏み出した。卓の角を右手に、ザフィールとの距離を詰める。
ザフィールの目が、その一歩を追った。
ゼノリスはザフィールを見た。正面から、まっすぐに。
──見る。
【至極の理】が、静かに動いた。
ザフィールの頭上に、星が浮かんでいた。
【漆黒の星。☆☆☆☆/☆☆☆☆】
四つ。
限界値も、四つ。
強い、とゼノリスは思った。この室内で戦えば、容易ではない。
ザフィールが傭兵と護衛兵を使い捨て、この城塞を一人で維持してきた理由が、その星の数に映っている。
だがその星の色は、迷いなく漆黒だった。
黄金でも、白でもない。ただ黒く、揺るがず、そこにある。
◇◇◇
ゼノリスは卓の角に手を置いた。
紙の端が指に触れた。冷たく、わずかに湿気を含んだ感触だ。地図の上に書き込まれた文字が、松明の光で読めそうな距離にある。だがゼノリスはそこには目を向けず、ザフィールを見たままでいた。
到達可能な天井が、☆4で止まっている。伸び代ではなく、壁だ。
「ザフィール」
ゼノリスは口を開いた。
「あなたは強い」
ザフィールの口角が、わずかに上がった。嘲笑の続きを期待している顔だ。
「しかし――」
ゼノリスは続けた。声の調子は変わらない。責めるでも断じるでもなく、ただ見えているものを言葉にするような、穏やかな平坦さがある。
「誠実さがない。それが、あなたの限界です」
室内が、静止した。
松明の炎だけが揺れている。脂の焦げる臭いが、変わらず鼻に届いた。
ザフィールの表情から、余裕が消えた。
口角が下がり、目の形が変わった。組んでいた腕を解き、卓の上の手が地図を掴む。指が紙を押しつぶすように力を入れ、地図の端が大きく折れた。
「……誠実さだと?」
声の質が変わっていた。余裕の声音ではない。底から押し上げてくる、熱を持った音だ。
「俺に向かって、誠実さだと言ったか?」
ゼノリスは答えなかった。
ザフィールの目がゼノリスを捉えたまま、動かない。奥歯を噛んでいるのが、顎の筋肉の動きで伝わってくる。
「貴様に何がわかる」
声が低くなった。廊下で壁越しに届いた声とは別物だ。もう余裕の包み紙はない。
「俺が何を賭けて、どう生き延びてきたかを」
ゼノリスはザフィールを見た。
怒りが表面に出ている。それは確かだ。だがその怒りは、否定された者のそれではなく、正確に射抜かれた者のそれだ。
「わかりません」
ゼノリスは静かに言った。
「あなたが歩んできた道を、私は知らない。あなたの事情も、選択の重さも」
ザフィールの眉が寄った。反論の準備をしている形だ。
「ただ」
ゼノリスは一呼吸置いた。
「あなたと同じ旗の下にいた者たちが、あなたの選択で命を落とした。それは事実です。あなたがどれほど正しい理屈を積んでも、その事実は変わらない」
卓の上でザフィールの指が、紙をさらに強く押しつぶした。
地図の端が破れる音が、小さく室内に響いた。
松明の炎が、その音に引かれるように一度揺れた。影が石壁を走り、また元に戻った。カイロが左で静止している。シルヴァも右で動かない。室内には、三人の息づかいと、ザフィールの押し殺した呼吸だけが残っている。
ザフィールが卓を離れた。
一歩、前に出た。鎧の金具が鳴り、石床に革底の重い足音が落ちた。上背がゼノリスより頭一つ分高く、肩幅が壁のように広い。卓が二人の間から外れ、遮るものがなくなった。
「貴様を」
ザフィールが言った。
声は低く、平坦だった。怒鳴っていない。だがその平坦さは、熱が頂点を超えて静かになった後の声だ。
「殺して、勇者様に献上してやる!」
言い終えた瞬間、ザフィールの全身から気配が変わった。
余裕ではなく、獣の張り詰めた静止だ。戦う前の息を整える一瞬、足が石床を踏む重さが増した。その目がゼノリスの喉元を見ている。
ゼノリスは動かなかった。
剣の柄に右手を添え、ザフィールを正面から見た。怒りも、恐れも、顔には出ない。ただ、立っている。
ザフィールの足が、石床の上でわずかに動いた。




