第82話:「城塞襲撃」
城壁が、目の前にあった。
夜の中に切り立つ石の壁は、間近で見ると圧迫感が違った。松明の炎が頂上で揺れ、壁面に赤い光と影を交互に這わせている。ゼノリスは城壁の根元に背を預け、右手に剣を握ったまま、カイロを待った。
カイロはすでに動いていた。
気配がない。足音がない。左の見張り台に向かった気配が消え、しばらくの間、城壁の前には静寂だけが残った。風が丘を渡り、草の擦れる音が一度だけ聞こえた。その後、何もなかった。
くぐもった音が、左から届いた。
人が倒れる音だ。石の上ではなく、見張り台の板張りの上に崩れ落ちる、柔らかい重さの音。
ゼノリスは耳を澄ませた。見張りの声は上がらない。警戒の叫びも出ない。次の瞬間、カイロが右の見張り台へ向かう気配が、ほんの一瞬だけ空気を揺らし、右から同じ音が届いた。
カイロが城壁の陰に戻ってきたのは、その直後だった。音のない帰還だ。ゼノリスの隣に、いつの間にか立っている。
「二名、制圧しました」
カイロが声を落として告げた。呼吸と同じ大きさしかない声だ。
「次の交代まで、少し時間があります」
ゼノリスは頷いた。シルヴァがすでに城門の横へ移動している。石積みの壁に両手を当て、目を閉じていた。指先がわずかに光る。
「結界があります」
シルヴァが目を開けずに告げた。声は静かで、確認作業を報告するときの平坦な響きだ。
「薄い。術式の密度が低く、設置から時間が経っています。解除できます」
「お願いします」
ゼノリスが応じると、シルヴァの指先の光が少しだけ強くなり、そして消えた。
何かが、静かに壊れた。
音ではない。空気の張りが緩んだような感触だ。ゼノリスの皮膚が、薄い膜の消える感覚を受け取った。城門の前から、見えない圧力が消えている。
「解除しました。ただ」
シルヴァが壁から手を離した。
「城内にもう一層、別の術式があります。構造が違う。設置者がザフィール本人か、その直属です」
「制圧後に対処できますか?」
ゼノリスが尋ねた。
「……可能です」
シルヴァが短く返した。
ゼノリスはシルヴァとカイロを交互に見た。二人とも城門を向いたまま、動く準備を整えている。
「わかりました。行きます」
ゼノリスが告げた。
◇◇◇
城門は内側から閂が掛かっていた。
カイロが門の隙間に指を差し込み、【絶影】の要領で気配を消したまま門の内側へ潜り込んだ。数秒後、重い木の閂が外れる音がして、門が内側から押し開いた。
ゼノリスは剣を右手に移し、城門をくぐった。
城内の広場は石畳で、中央に柱が二本立っている。松明が柱の側面に固定されており、広場を均等に照らしていた。
奥の棟へ続く扉が一枚、正面にある。広場の左右に回廊が伸び、そこに人影が複数あった。
魔人族の傭兵だ。革鎧を纏い、腰に短剣と長剣を両方差している。ゼノリスの姿を認めた瞬間、右の回廊にいた一人が声を上げようとした。
だがその前に、カイロが動いた。
傭兵の顎を打ち、そのまま壁へ押しつける。声が出る前に終わった。シルヴァが結界を展開し退路を断ち、広場の出口が消えた。
ゼノリスは正面の傭兵と向き合った。
革鎧の大柄な魔人族だ。両手に短剣を構え、距離を詰めようとする。鱗状の皮膚が松明の光を照り返し、黄色がかった目がゼノリスを捉えている。
最初の一歩を踏み込んだのは傭兵の方が先で、右の短剣を斜めに振り下ろしてきた。
ゼノリスは半歩外へ開き、剣の柄で傭兵の手首を内側から打った。指の力が緩み、短剣が石畳に落ちる。ゼノリスはその短剣を踏みつけ、逃げ場を奪いながら前進。剣の腹で傭兵の胸に添え、体重を乗せて一気に押し込んだ。体重を乗せた一撃に、大柄な魔人が紙屑のように吹き飛ぶ。背後の柱に激突し、その動きが完全に停止した。
その隙にカイロが回廊の一人を仕留め、シルヴァが結界の隙間から術式を走らせてもう一人の足元を固めた。広場を行き交う動きが、数秒で静止する。
ゼノリスは剣を構えたまま、広場を見回した。倒れた傭兵が三人。壁際で膝を突いているのが一人。動いているものは、もういない。
膝を突いた傭兵の目が、ゼノリスを見ていた。恐怖ではなかった。諦めだ。最初から戦う意志などなかったかのような、力の抜けた目だった。
ゼノリスは剣を下ろさなかった。視線を、奥の棟へ続く扉に移した。
◇◇◇
奥の棟へ続く扉の前に、ゼノリスは立った。
カイロが壁際で待機し、シルヴァが広場の入口で術式を閉じている。制圧した傭兵たちは動かない。
ゼノリスは扉に手を当てた。分厚い木の扉で、鉄の金具が打ち込まれている。内側から鍵が掛かっている感触はない。押せば開く。
ゼノリスは扉を押した。
扉の先は廊下が続いていた。石の壁が左右に伸び、突き当たりの先でまた扉がある。壁に沿って松明が並んでいるが、廊下の中ほどの一本が消えており、そこだけ影が濃い。
床は石畳ではなく剥き出しの石で、足音が出やすい構造だ。
カイロが先に入った。影の濃い部分に一瞬沈み込み、廊下の先を確認する。戻ってくる前に、突き当たりの扉が勢いよく開いた。
飛び出してきたのは、革鎧に長剣を構えた魔人族の兵だった。
広場の傭兵より体格がいい。首から胸にかけて鱗が密集しており、兜の代わりに頭部まで覆っている。護衛兵だ。廊下に踏み込んだ瞬間、ゼノリスの姿を認めて目を見開き、背後へ向かって声を張り上げた。
「……魔王。裏切り者の魔王が来たぞ!」
廊下に声が反響した。
ゼノリスは歩みを止めなかった。護衛兵との距離が縮まる。護衛兵は長剣を構え直し、もう一度声を上げようとした。その手前で、ゼノリスが口を開いた。
「裏切り者は、あなた方です」
声は静かだった。廊下の石壁に吸われ、反響せず、ただ相手の耳に届く大きさだけがあった。
護衛兵の足が、一瞬だけ止まった。
その隙にカイロが影から滑り出て、護衛兵の背後に回り込み、長剣を持つ手首を取って壁に押しつけた。
長剣が石床に落ちる音が廊下に響き、護衛兵は身動きを封じられた。奥の扉の向こうから、もう一人の足音が近づいてくる気配がある。シルヴァが廊下の後方から術式を一本走らせ、奥の扉の前の床に薄い結界を敷いた。扉が開き、飛び出してきた二人目の護衛兵がその結界に足を取られ、前のめりに膝を突いた。
廊下から、音が消えた。
ゼノリスは倒れた護衛兵の前で立ち止まり、剣を鞘に戻した。戦いを続ける者が、もういない。
◇◇◇
広場へ戻る通路の途中で、声が届いた。
城塞の奥から、壁を通して伝わってくる低い声だ。廊下ではなく、もっと深い場所から響いている。石の振動に乗って届くような、重さのある声だった。
「まさか、来るとは思わなかったぞ、魔王様」
ザフィールの声だ。
カイロが足を止めた。シルヴァの指先が、術式の確認に動く。
ゼノリスは声の方向を見た。棟の奥、中央の塔へ続く方角だ。姿は見えない。声だけが壁を越えて届いている。
よく通る声だった。嘲笑でも怒声でもなく、驚きを装った余裕の声だ。長年、力だけで人を従わせてきた者の声音がある。
ゼノリスはカイロとシルヴァを振り返った。二人は動かず、ゼノリスを見ている。カイロの目が、一度だけ奥の方向を指し示した。確認の動作だ。
ゼノリスは前を向いた。
奥へ続く廊下は暗い。松明が一本もなく、石壁だけが続いている。突き当たりの先に、扉の輪郭が見えた。閉じている。その向こうにザフィールがいる。
「ザフィール、出てきなさい」
ゼノリスが静かに言った。
声は廊下を抜け、石の壁を伝い、塔の奥まで届くように出した。
ゼノリスは一歩を踏み出した。カイロが左、シルヴァが右。三人は暗い廊下を、奥の扉へ向かって進んだ。




