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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第81話:「潜入と監視」

 境界の内側に踏み込んだ瞬間、カイロが消えた。


 消えた、というのが正確な表現だった。一歩踏み出したかと思えば、その輪郭が夕暮れの影に溶け込み、次の瞬間には何もなかった。足音もない。気配もない。ゼノリスの隣に、空白だけが残っている。


【絶影】


 気配、足音、殺気のすべてを消し去り、敵の死角へと滑り込む技だ。今のカイロにとって、この薄暮の集落は迷いなく動ける地形に映っているはずだった。


 ゼノリスは動かなかった。


 石柱の陰で背を壁に預け、シルヴァと並んで待つ。シルヴァがすでに指先を動かしていた。細い指が空中に弧を描き、術式の骨格を無音で組み上げていく。息を殺すほどの集中の中で、周囲の空気がわずかに揺れた。


 ゼノリスの皮膚に、薄い膜が張るような感触が広がる。


【幻影の結界】


 結界の内側に入った者の気配を外へ漏らさない術式魔術だ。音も、魔力の痕跡も、外からは知覚できなくなる。シルヴァは説明せず、ただ術式を完成させ、指を静かに下ろした。


 集落は静まり返っていた。


 夕暮れの橙が屋根の上を流れ、壁の白い漆喰を朱色に染めている。だが窓の内側はどこも暗く、炉の火が揺れている気配がない。


 路地の先で、一羽の鳥が枯れ枝から飛び立ち、翼音だけを残して消えた。風が吹くと、朽ちた木材の乾いた匂いと、どこかから漂ってくる煮炊きの煙が混じった。煙は一か所だけだ。集落全体ではなく、中心部の一点から上がっている。


 民のものではない、とゼノリスは判断した。


◇◇◇


 カイロが戻ったのは、十数えるほどの時間が経った後だった。


 気配のない帰還だった。視線を向けていなければ、隣に立っていることに気づかなかったかもしれない。


「北の路地を抜けられます」


 声は低く、必要な情報だけを届けた。


「監視兵が二人。路地の入口と出口に各一人。交代のタイミングを確認しました。次の交代まで、あと少しあります」


「抜けられますか?」


 ゼノリスが問うと、カイロは短く答えた。


「問題ありません」


 シルヴァが結界を解いた。薄い膜の感触が、皮膚から消える。


 三人は石柱の陰を離れ、カイロを先頭に路地へ入った。路地は建物と建物の間の隙間で、大人が両手を広げれば壁に届く幅しかない。


 石を敷き詰めた床は欠けや剥がれが目立ち、踏み込む場所を選ばなければ音が出た。ゼノリスはカイロの足跡を追うように、音のない石の上だけを踏んで進んだ。


 路地の途中で、カイロが右手を低く上げた。


 全員が足を止める。


 前方の角から、足音が近づいていた。重い足音だ。革の底が石を踏む、間延びした音。急いでいない。警戒もしていない。ゼノリスは壁に背を押しつけ、息を浅くした。石の冷たさが外套越しに背中に伝わってくる。


 足音は角を折れ、路地の前を横切った。松明を持った大柄な影が、一瞬だけ視界に入る。魔人族だ。鱗状の皮膚が松明の光を鈍く照り返し、横目でこちらの路地を一度だけ確認して、通り過ぎた。


 足音が遠ざかる。


 カイロが手を下ろした。三人は再び歩を進めた。


◇◇◇


 路地を抜けた先は、集落の裏手に出た。


 表通りより建物が密集しており、軒と軒が重なり合って空が細い帯になっている。夕暮れの残光が届かず、地面は薄暗い。踏みしめるのは土だ。乾ききった土は、足の下で粉のように崩れた。


 三人は民家の壁伝いに進んだ。


 二軒目の角を曲がったとき、声が聞こえた。


 建物の中からだ。低い怒声と、それに続く何かが倒れる音。陶器が割れる鈍い響き。


「早く出せ。まだあるだろう」


 男の声だった。太く、乱暴だった。


 続いて、老いた声が震えながら応じた。


「も、もう何もないんです。昨日も持っていかれて……」


「うるさい。家の中を探せ」


 ゼノリスの足が、止まった。


 壁の向こうで、何かが引きずられる音がする。重い家具か、あるいは人が床を引かれる音か。老いた声が、また何かを言いかけて途切れた。


 ゼノリスは壁に手を当てた。石の冷たさが掌に伝わる。指に力が入り、石の表面を押した。


「……ゼノ様」


 シルヴァが、低い声で言った。


 目を向けると、シルヴァは壁の前に立ったまま、ゼノリスを見ていた。表情は動いていない。だが、その視線が一つの意味を伝えていた。


 今は動けない。


 カイロが、無言でゼノリスの袖を引いた。引くというより、指先が外套の端に触れただけだ。それだけで十分だった。


 ゼノリスは壁から手を離した。


 掌の中に、石の冷たさだけが残った。


 三人は建物の前を通り過ぎた。怒声は続いていた。何かを探す音が続いていた。それが背後に遠ざかっていくのを、ゼノリスは聞きながら歩いた。


◇◇◇


 裏道が途切れ、廃屋の軒先が頭上に張り出した場所で、三人は立ち止まった。


 崩れかけた壁が二方向から囲っており、外からは見通しの利かない一角だ。カイロが周囲を確認し、小さく頷いた。足を止めていい場所だという合図だった。


 怒声はもう聞こえない。


 ゼノリスは息を一度、深く吐いた。胸の奥で何かが沈殿したまま動かずにいる。


「……ここを。この領地を、必ず解放します」


 ゼノリスが静かに口にした。


 声は低く、二人に届く大きさだけあった。宣言ではない。誓いだ。


 カイロは何も言わなかった。ただ、ゼノリスの方を一度だけ向き、すぐに前方へ視線を戻した。それだけだった。


 シルヴァが帳面を取り出した。外套の内側から引き出した小さな冊子で、細い指がそのまま表紙を撫でた。何かを書き留めるでも、開くでもなく、ただその重さを確かめるように指先が動いた。それだけで、シルヴァは帳面を収めた。


 三人の間に、短い沈黙が落ちた。


◇◇◇


「もう一度、先行します」


 カイロが告げ、再び影に溶けた。


 気温が下がっていた。石壁の冷気が足元から上がってきて、ゼノリスは外套の合わせを片手で閉じた。シルヴァは微動だにせず壁に背を向けて立っている。目だけが、闇の中の何かを追うように動いていた。


 ゼノリスは壁の向こうに耳を澄ませた。怒声はもう聞こえない。だが、あの家の中で起きたことが消えたわけではなかった。


 足音が戻ってきた。音のない足音だ。


「見えました」


 カイロが廃屋の陰に滑り込み、声を落として報告した。


「集落の北端、丘を上った先です。城壁が見えます。松明が複数、等間隔に並んでいる。外壁の警備は薄い。重点は内側にあるとみています」


「兵の質は」


 ゼノリスが問うた。


「外の見張りは練度が低い。交代が不規則で、互いの位置を把握していません。ただ――」


 カイロがわずかに間を置いた。


「城壁の上に一人だけ、動き方の違う者がいます。他とは別の動きをしています」


「ザフィールの直属、でしょうか」


 シルヴァが口を挟んだ。


 カイロが答えた。


「おそらく。ただ、確認は取れていません」


 ゼノリスは頷き、二人を見た。


「見に行きましょう」


◇◇◇


 三人が丘の縁に出たとき、城塞は夜の中に黒く浮かんでいた。


 石造りの城壁が、丘の頂を囲うように立っている。高さはさほどでもないが、角ごとに見張り台が突き出ており、その上で松明が燃えていた。炎は風に揺れながら、城壁の表面に赤い影を這わせている。


 遠く、城塞の奥の棟から、かすかに声が漏れていた。複数の男の声が重なり、笑い声が混じっている。城の中は明るく、動いている。


 生臭い風が丘を渡った。鉄と油と、人の多い場所に染みつく熱の匂いだ。ゼノリスの頬に当たり、そのまま過ぎていく。


 ゼノリスは城塞を見つめた。


 石の肌が松明の光を吸って、鈍く輝いている。城壁の頂に立つ影が、一つだけ異質な動きをしていた。定まった場所に立たず、城壁の上を等間隔でなく歩いている。立ち止まる位置が毎回違う。外を見るのではなく、内側を見ている。


 自陣の監視だ、とゼノリスは判断した。外からの侵入者ではなく、内部の者が逃げないように目を光らせている。


 ザフィールは、仲間すら信じていない。


 城塞から目を離さないまま、ゼノリスは二人を振り返った。カイロが左に、シルヴァが右に、それぞれ丘の端に立っている。カイロは城壁を、シルヴァは松明の間隔を、それぞれ別の目で見ていた。


「行きましょう」


 ゼノリスが静かに言った。


 カイロが先に動いた。影が丘の斜面を下り、城塞へ向かう道を見定める。シルヴァが指先で術式の骨格を組み始めた。かすかな光の粒が指の周りに集まり、すぐに消えた。準備が整った合図だ。


 ゼノリスは一歩、丘を踏み出した。夜の草が足元で揺れ、露が靴先を濡らした。


 城塞の輪郭が、近づくほどに大きくなる。城壁の頂で、あの影がまた動いた。



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