表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

80/86

第80話:「魔人領への道」

 港の石畳は、まだ濡れていた。


 夜のうちに降った霧雨が、砂岩に染みて乾ききらないまま残っている。ゼノリスは一歩踏み出すたびに、靴底が滑らかな石の感触を伝えてくるのを感じた。潮の匂いが、朝の空気に濃く混じっている。振り返れば港が見える。昨日まで辺境伯の配下が支配していた波止場に、今は自分たちの旗が立っている。


 セラとガルムが、桟橋の入口付近に立っていた。二人は歩み去る三人の背を、無言で見送っている。声はかけない。その距離が、この出発の重さを示していた。


 ゼノリスは前に向き直り、歩を進めた。


 カイロが右側に並ぶ。シルヴァは左、半歩後ろ。三人の足音が、石畳の上で低く響いた。港湾都市の外れへ続く坂道を上るにつれ、波音が遠くなる。代わりに、朝の風が正面から吹いてきた。頬に当たるその冷たさは、昨日の港の風より乾いている。


 坂を上りきったところで、街道が始まった。


 旧魔王領の内部へと続く、石畳から砂利へと変わる道だ。両脇に立つ街路樹は葉を落とし、枝だけが青白い空に伸びている。その下を、三人は黙って歩いた。


 街道に入ってしばらく経った頃、シルヴァが口を開いた。


「ザフィールの領地は、元魔王領の中でも特に荒廃が進んでいる地域です。港湾都市からの街道沿い、北側の一帯が主な支配圏になります」


 声は端的だった。感情を抑えているのではなく、情報を正確に届けることを優先している声音だ。


「荒廃の原因は?」


 ゼノリスが問う。足元の砂利が、石畳とは違う音を返した。


「徴税と徴発です。領民から食料を強制的に徴収し、反抗した者は力で抑えています。農地の管理をする者も、外へ出る自由のある者もいない。耕す手が消えた土地は、数年で使い物にならなくなります」


 シルヴァが淡々と続けた。帳面の数字を読み上げるような口調だが、その一語一語が、誰かの生活を指している。


 風が街道を横切った。街路樹の枝が擦れ合い、乾いた音を立てた。


「魔王軍の残党については?」


 今度はカイロが先に応じた。


「残党の一部が、ザフィールの下についています。ただ、自ら望んでついているわけではないようです。かつての仲間を人質に取り、逆らえないようにしているとみています」


 ゼノリスは前を向いたまま、わずかに歩みを緩めた。


 砂利道が、足の裏に伝わる。一粒一粒、不規則な硬さが靴底を押し返す。


「人質、ですか」


 ゼノリスが口にした。


「はい。家族を含む場合もあると思います」


 カイロが静かに答えた。


 ゼノリスは何も言わなかった。眉が、ほんの少し寄った。それだけだ。声に何も出さない。ただ、右手が外套の端にわずかに触れ、すぐに離れた。


 かつての仲間を、道具として使う。


 三人の足音だけが、しばらく続いた。砂利を踏む音が三つ、わずかにずれたまま重なっている。


「兵力の規模は把握できていますか?」


 ゼノリスが続けた。声は戻っていた。問いの声だ。


「城塞を中心に、魔人傭兵が複数の拠点に分散しています。正確な数は不明です。ただ、監視網は密ではなく各拠点が独立して動いており、連絡に時間がかかる構造です」


 シルヴァが答えた。


「つまり、各拠点を連携させないまま個別に対処できる可能性がある」


 ゼノリスが言葉にした。


「その通りです」


 シルヴァが短く返した。


 カイロが視線を前方に向けたまま、一言だけ付け加えた。


「ただし、城塞そのものはザフィールが直接支配しています。外縁の制圧だけでは終わりません」


 ゼノリスは頷いた。


「わかりました。では、状況を確かめながら進みましょう」


 三人の足音が、砂利を踏む音に変わっていた。石畳の均一さとは違う、不規則な硬さだ。街道の両脇から、乾いた土の匂いが漂い始めていた。


◇◇◇


 街道の両脇から木々が消えた。


 代わりに広がるのは、刈り取られたまま放置された田畑だ。収穫を終えた後ではない。茎が途中で折れ、根ごと引き抜かれたものが地面に散らばっている。


 誰かが荒らした跡ではなく、荒らされたまま誰も手を入れていない状態だ。土は乾いてひび割れ、踏めば砂のように崩れそうな色をしていた。


 道の脇に、崩れた石組みがある。かつては小屋か、あるいは物置だったらしい。屋根は落ち、柱だけが斜めに傾いて残っている。ゼノリスはその前を通り過ぎながら、傾いた柱の影を一度だけ目に留めた。


 風が吹いた。


 乾いた土埃が舞い、顔に当たる。砂の粒が唇の端に触れ、口の中にわずかに入った。ゼノリスは口を閉じたまま、目を細めて前を向いた。風の中に、腐敗の甘い匂いが混じっている。腐った植物か、あるいは放置された家畜の痕跡か。


「ここからが、ザフィールの支配域に近い地帯です」


 シルヴァが歩きながら口にした。地図を広げるでもなく、ただ街道の両脇を見ながら告げる。


「まだ境界ではありません。ただ、統治の影響がここまで及んでいる」


 ゼノリスは何も言わず、周囲に視線を巡らせた。


 崩れた家が一軒、また一軒と道沿いに現れる。どれも同じ状態だった。屋根が潰れているか、扉が蝶番ごと外されているか。窓枠だけが残り、中は暗い。炊事の煙が上がっている様子もない。


 ゼノリスは視線を前へ戻し、歩みを止めなかった。


◇◇◇


 街道が細くなった。石を並べた轍の跡が残っているが、草が両端から侵食し始めており、道幅が半分ほどに狭まっている。三人は自然と縦に並んで歩いた。先頭はカイロ、次にゼノリス、最後にシルヴァだ。


 カイロが、前方をわずかに指した。


「境界の目印が見えます」


 街道の左脇に、石柱が立っていた。元は何かを刻んでいたらしいが、表面が削られている。故意に消されたか、風雨で失われたか、判別はできない。柱の上部だけが欠けて、鋭い断面を空に向けている。


 その向こうに、集落の端が見えた。


 建物は残っている。だが、窓に明かりがない。夕暮れ時の空が橙に染まり始めているのに、炉の煙が一本も上がっていなかった。


 道の端に、老いた女が一人しゃがんでいる。両膝を抱え、頭を伏せたまま動かない。その横に、子どもが一人立っている。年は十にもならないくらいだ。子どもはこちらを見た。


 目が合った。


 子どもは、一歩だけ後ずさった。逃げるのではない。逃げられないから、ただ後退した。その違いを、ゼノリスは黙って受け取った。


 カイロが立ち止まった。シルヴァも、足を止める。三人が、石柱の手前で並んだ。


「境界は、ここです」


 シルヴァが静かに告げた。


 ゼノリスは石柱を見た。欠けた上端。消された刻み。この柱がかつて何を示していたか、今は読めない。ただ、今はザフィールの支配域の入口を指し示す標識になっている。


 集落の方向から、風が吹いてきた。焦げた木と、湿った布の匂いが混じっている。炊事の煙ではない。別の何かが、かつてそこで燃えた匂いだ。


 ゼノリスは石柱から視線を外し、子どもの方を見た。子どもはまだそこにいる。こちらを見ることも、声を上げることもしない。ただ立っているだけだ。老いた女は、頭を伏せたまま動かなかった。


 右手が、外套の裾に沿って下りた。それだけだった。


「行きます」


 ゼノリスが静かに告げた。


 カイロが頷いた。シルヴァは帳面を外套の内側へ収め、前を向く。


 ゼノリスは石柱の横を抜け、境界の内側へ踏み込んだ。砂利から、踏み固められた土へと感触が変わる。一歩、また一歩。足の裏が、硬く乾いた地面を踏んだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ