第80話:「魔人領への道」
港の石畳は、まだ濡れていた。
夜のうちに降った霧雨が、砂岩に染みて乾ききらないまま残っている。ゼノリスは一歩踏み出すたびに、靴底が滑らかな石の感触を伝えてくるのを感じた。潮の匂いが、朝の空気に濃く混じっている。振り返れば港が見える。昨日まで辺境伯の配下が支配していた波止場に、今は自分たちの旗が立っている。
セラとガルムが、桟橋の入口付近に立っていた。二人は歩み去る三人の背を、無言で見送っている。声はかけない。その距離が、この出発の重さを示していた。
ゼノリスは前に向き直り、歩を進めた。
カイロが右側に並ぶ。シルヴァは左、半歩後ろ。三人の足音が、石畳の上で低く響いた。港湾都市の外れへ続く坂道を上るにつれ、波音が遠くなる。代わりに、朝の風が正面から吹いてきた。頬に当たるその冷たさは、昨日の港の風より乾いている。
坂を上りきったところで、街道が始まった。
旧魔王領の内部へと続く、石畳から砂利へと変わる道だ。両脇に立つ街路樹は葉を落とし、枝だけが青白い空に伸びている。その下を、三人は黙って歩いた。
街道に入ってしばらく経った頃、シルヴァが口を開いた。
「ザフィールの領地は、元魔王領の中でも特に荒廃が進んでいる地域です。港湾都市からの街道沿い、北側の一帯が主な支配圏になります」
声は端的だった。感情を抑えているのではなく、情報を正確に届けることを優先している声音だ。
「荒廃の原因は?」
ゼノリスが問う。足元の砂利が、石畳とは違う音を返した。
「徴税と徴発です。領民から食料を強制的に徴収し、反抗した者は力で抑えています。農地の管理をする者も、外へ出る自由のある者もいない。耕す手が消えた土地は、数年で使い物にならなくなります」
シルヴァが淡々と続けた。帳面の数字を読み上げるような口調だが、その一語一語が、誰かの生活を指している。
風が街道を横切った。街路樹の枝が擦れ合い、乾いた音を立てた。
「魔王軍の残党については?」
今度はカイロが先に応じた。
「残党の一部が、ザフィールの下についています。ただ、自ら望んでついているわけではないようです。かつての仲間を人質に取り、逆らえないようにしているとみています」
ゼノリスは前を向いたまま、わずかに歩みを緩めた。
砂利道が、足の裏に伝わる。一粒一粒、不規則な硬さが靴底を押し返す。
「人質、ですか」
ゼノリスが口にした。
「はい。家族を含む場合もあると思います」
カイロが静かに答えた。
ゼノリスは何も言わなかった。眉が、ほんの少し寄った。それだけだ。声に何も出さない。ただ、右手が外套の端にわずかに触れ、すぐに離れた。
かつての仲間を、道具として使う。
三人の足音だけが、しばらく続いた。砂利を踏む音が三つ、わずかにずれたまま重なっている。
「兵力の規模は把握できていますか?」
ゼノリスが続けた。声は戻っていた。問いの声だ。
「城塞を中心に、魔人傭兵が複数の拠点に分散しています。正確な数は不明です。ただ、監視網は密ではなく各拠点が独立して動いており、連絡に時間がかかる構造です」
シルヴァが答えた。
「つまり、各拠点を連携させないまま個別に対処できる可能性がある」
ゼノリスが言葉にした。
「その通りです」
シルヴァが短く返した。
カイロが視線を前方に向けたまま、一言だけ付け加えた。
「ただし、城塞そのものはザフィールが直接支配しています。外縁の制圧だけでは終わりません」
ゼノリスは頷いた。
「わかりました。では、状況を確かめながら進みましょう」
三人の足音が、砂利を踏む音に変わっていた。石畳の均一さとは違う、不規則な硬さだ。街道の両脇から、乾いた土の匂いが漂い始めていた。
◇◇◇
街道の両脇から木々が消えた。
代わりに広がるのは、刈り取られたまま放置された田畑だ。収穫を終えた後ではない。茎が途中で折れ、根ごと引き抜かれたものが地面に散らばっている。
誰かが荒らした跡ではなく、荒らされたまま誰も手を入れていない状態だ。土は乾いてひび割れ、踏めば砂のように崩れそうな色をしていた。
道の脇に、崩れた石組みがある。かつては小屋か、あるいは物置だったらしい。屋根は落ち、柱だけが斜めに傾いて残っている。ゼノリスはその前を通り過ぎながら、傾いた柱の影を一度だけ目に留めた。
風が吹いた。
乾いた土埃が舞い、顔に当たる。砂の粒が唇の端に触れ、口の中にわずかに入った。ゼノリスは口を閉じたまま、目を細めて前を向いた。風の中に、腐敗の甘い匂いが混じっている。腐った植物か、あるいは放置された家畜の痕跡か。
「ここからが、ザフィールの支配域に近い地帯です」
シルヴァが歩きながら口にした。地図を広げるでもなく、ただ街道の両脇を見ながら告げる。
「まだ境界ではありません。ただ、統治の影響がここまで及んでいる」
ゼノリスは何も言わず、周囲に視線を巡らせた。
崩れた家が一軒、また一軒と道沿いに現れる。どれも同じ状態だった。屋根が潰れているか、扉が蝶番ごと外されているか。窓枠だけが残り、中は暗い。炊事の煙が上がっている様子もない。
ゼノリスは視線を前へ戻し、歩みを止めなかった。
◇◇◇
街道が細くなった。石を並べた轍の跡が残っているが、草が両端から侵食し始めており、道幅が半分ほどに狭まっている。三人は自然と縦に並んで歩いた。先頭はカイロ、次にゼノリス、最後にシルヴァだ。
カイロが、前方をわずかに指した。
「境界の目印が見えます」
街道の左脇に、石柱が立っていた。元は何かを刻んでいたらしいが、表面が削られている。故意に消されたか、風雨で失われたか、判別はできない。柱の上部だけが欠けて、鋭い断面を空に向けている。
その向こうに、集落の端が見えた。
建物は残っている。だが、窓に明かりがない。夕暮れ時の空が橙に染まり始めているのに、炉の煙が一本も上がっていなかった。
道の端に、老いた女が一人しゃがんでいる。両膝を抱え、頭を伏せたまま動かない。その横に、子どもが一人立っている。年は十にもならないくらいだ。子どもはこちらを見た。
目が合った。
子どもは、一歩だけ後ずさった。逃げるのではない。逃げられないから、ただ後退した。その違いを、ゼノリスは黙って受け取った。
カイロが立ち止まった。シルヴァも、足を止める。三人が、石柱の手前で並んだ。
「境界は、ここです」
シルヴァが静かに告げた。
ゼノリスは石柱を見た。欠けた上端。消された刻み。この柱がかつて何を示していたか、今は読めない。ただ、今はザフィールの支配域の入口を指し示す標識になっている。
集落の方向から、風が吹いてきた。焦げた木と、湿った布の匂いが混じっている。炊事の煙ではない。別の何かが、かつてそこで燃えた匂いだ。
ゼノリスは石柱から視線を外し、子どもの方を見た。子どもはまだそこにいる。こちらを見ることも、声を上げることもしない。ただ立っているだけだ。老いた女は、頭を伏せたまま動かなかった。
右手が、外套の裾に沿って下りた。それだけだった。
「行きます」
ゼノリスが静かに告げた。
カイロが頷いた。シルヴァは帳面を外套の内側へ収め、前を向く。
ゼノリスは石柱の横を抜け、境界の内側へ踏み込んだ。砂利から、踏み固められた土へと感触が変わる。一歩、また一歩。足の裏が、硬く乾いた地面を踏んだ。




